1435:地上は驚き。
屋敷の一室に荷物を置いて――といっても男神さまは手ぶら――貰い屋敷の中を案内している最中だ。彼の目に映る光景は、神さまの島のグイーさまのお屋敷とは少し変わった赴きがあるようである。
ウキウキとした様子の彼はまるで子供のようだ。一緒に付いてきているヴァルトルーデさまとジルケさまは『彼が変なことをしないように』『神の島と人間の屋敷じゃ常識が違うからな。変なことをしねえように見てるだけだ』と仰っていた。男神さまがヤバい行動をするわけではないので監視は必要ないはずであるが、身内のような方が他人の家で恥を掻かないようにするためかもしれない。
屋敷の廊下を歩きながら、飾っている調度品の一点に男神さまの目が留まる。腰を屈めてフソウの鎧をじっくり見ている男神さまに、鎧の肩の部分に乗っている妖精さんが手を振ってふっと消えた。
「ナイさん、こちらの調度品はどういったものですか?」
「フソウ国の武士の方が身に着ける鎧と刀ですね」
どうやら男神さまはフソウの鎧と刀が気になるようだ。神の島のお屋敷は西洋建築である。詳しいことはさっぱりだが、テレビで見ていた欧州の古い町並みにある豪華で超広い屋敷という感じ。
まあアルバトロス王国や西大陸のほとんどの地域は西洋建築が主である。東と北と南大陸に向かえばちょっと赴きが違い、異国情緒を少しばかり感じる。フソウは更に独特の文化を育んでいるから、男神さまがはしゃぐのは仕方ないのだろう。
「このような美しい品が地上にあるのですね。神の島で長き時間を過ごし地上に無関心だったので、いろいろと見られて嬉しいです。庭にはグリフォンや天馬が住み着き、時々、妖精の姿も見受けられます。本当に環境が良いお屋敷です。私に驚いて妖精が逃げてしまったのは残念ですが」
男神さまが感心しながら主神殿の命を受けて本当に良かったと小さく笑えば、案内の邪魔をしてしまい申し訳ありませんと小さく頭を下げた。私は大袈裟ですよと彼に言葉を返して、ふと気付いたことがある。
「今更ですが、男神さまのお名前は?」
ふいに浮かんだ疑問をそのまま口に出せば、男神さまが小さく顔を横にする。うん。嫌な予感しかしないけれど、名前を知っておかなければ調理部の皆さまが困るだろう。男神さまから聞き出せなさそうだし、私が今のタイミングで聞いておいた方が無難そうだ。
「主神殿からは台所番と呼ばれております」
男神さまはグイーさまからそう呼ばれているそうだ。そして周囲の神さま方も倣ってそう呼ぶとか。ヴァルトルーデさまが『父さんだから』と片眉を上げ、ジルケさまが『頓着してねえからなあ』と肩を竦めていた。確かにグイーさまは四人の娘さまにも名前を贈ってなかったから、料理番である彼にも名を贈っていないのはさもありなんな状況だけれど。
「……名前というか役職名ですよね」
私が肩を落とせば、男神さまがぽんと手を叩く。
「ああ、言われてみれば確かに! ナイさんは鋭いですね」
ふふふと笑う男神さまに、私はこの世界の神さまたちが全く名前に頓着していないと息を吐く。
「流石に地上で生活するなら名前がないと周りの者が不便なので、名乗りたい名前はありませんか?」
「私の神生において名が必要だと感じたことはないので……それはとても難しい問題ですね」
眉尻を下げる男神さまに一緒に移動していた二柱さまが視線を合わせる。
「ナイに考えて貰えば?」
「あたしらの名前はナイに考えて貰ったし、てきとーに貰えば良いんじゃね?」
やはりそうなるかと私はヴァルトルーデさまとジルケさまを見る。すると二柱さまは『なにか問題ある?』と言いたげな顔をするのだった。そして何故か男神さまは私に期待の視線を向けている。
ウキウキしている彼の姿に本当に子供だなという感想を抱くものの、こういうこともあろうかと受け入れ準備の最中、念のために考えてはいたのだ。私が神さま方に名を贈ることが恒例行事になっているのは何故でしょう。本当に不思議と目を細めながら私は口を開く。
「ディオさまは如何ですか?」
私が男神さまを見上げて考えていた名を告げる。確かギリシャ神話にヘスティアという名の台所の火を司る女神さまがいたのだが、流石に女神さま由来の名を贈るわけにはいかない。
乏しい知識と記憶から同じギリシャ神話に宴会や祝宴を司る神さまがいた気がすると、必死になって記憶を探って思い出したのが『ディオニュソス』という神さまの名である。
彼の主であるグイーさまは宴会や祝宴はお酒を飲める席と喜ぶだろうから、彼に丁度良いかもしれない。ただフルネームで贈るのはギリシャ神話の因果を引っ張ってきそうだから、少し短縮させて貰った。まあ、屋敷で料理を学びグイーさまとナターリエさまとエーリカさまが食事を楽しめるようになれば御の字である。
「なんだかカッコ良い響きです。ディオ。はい、とても気に入りました」
と男神さま改めディオさまが笑う。すると『さま付けは不要です』と困り顔になり、私はどうしたものかと迷った末に。
「ディオさん、で良いですか?」
神さまを『さん付け』で呼ぶのは如何なものかとは思うのだが、きっと『さま付け』で呼び続ければ彼が不貞腐れそうである。面倒事に発展して欲しくないし、ここは素直に呼ばせて頂こう。
「はい。結構です。なんだか新鮮ですね」
またふふふと笑うディオさんにヴァルトルーデさまが微妙な表情になっている。私はどうしたのかとジルケさまに視線を向けると『気にすんな』という顔になっていた。
とりあえずディオさんに屋敷の案内を続けなければと私は先を促し、二時間ほど時間をかけて案内を終わらせる。本当に侯爵領の侯爵邸は広いなと感心しつつ、彼の職場となる調理場へと向かう。一応、ヴァルトルーデさまとジルケさまが頻繁に顔を出す場所なので、調理場の方たちには神さま耐性が身に付いているはずだ。我慢できない方には異動を認めると伝えているから逃げ道はあると信じたい。
「失礼しますね。男神さまをお連れしました。皆さま、今日から彼に料理の手解きをお願い致します」
「先度、ナイさんから名を頂きました。どうかディオと呼んでください。神の身ではありますが、私は皆さまの弟子となります。どうか遠慮なく厳しい指導をお願い致します」
私が調理部の皆さまに集まって貰いディオさんに挨拶をお願いすれば、彼は凄く常識的な言葉を並べている。グイーさまの部下だというのに、マトモな方もいるのだなあと驚いていれば調理部の面々が名乗りを上げる。各自の紹介を終え料理長さまがきょろきょろとディオさんの身に視線を向けていた。どうしたのだろうとディオさんと私が首を傾げたあとに、料理長さまがおずおずと口を開いた。
「ディオさま。ご自身の道具はお持ちではなく……?」
どうやら料理人の方は自分の使いやすい道具があれば、修行の際は持ち込むそうである。ディオさんは特に拘りがないとのことで、道具を持ち歩くことはないとのこと。料理長さまが困ったなあという顔で、どうしたものかと悩んでいる。
「じゃあ、蔵に眠っている調理道具を引っ張り出してきますね。それでディオさまが使いやすい品があればお譲り致します」
私の声に調理部の面々が『え』と驚いたような顔になるものの、神さまが使用するなら問題ないと直ぐに考えを改めたようである。蔵にはドワーフさんたちに鍛えて貰った竜の鱗や牙を材料にした調理道具が使わないまま置いてある。丁度良い機会だし、神さまが使ってくれるならドワーフさんたちも自慢話のひとつになるはず。
「いえ、しかし。それはナイさんに悪いです。貴女の物でしょう?」
「死蔵しているので、使ってくれる方がいるなら道具はそちらの方が幸せではないでしょうか」
ディオさんが少し困ったような顔をしているが遠慮をしないで欲しい。包丁類は切れ味が良過ぎて『ナイが使うと手を切り落としそうで危なっかしい』と周りの方から言われてしまう。
フライパンやらお玉は少々重いので、私が振るには適していないのだ。調理部の皆さまはドワーフの職人さんが鍛えた超最高級のレア素材を使用したものなんて使えませんと固辞されている。だから侯爵家の調理人の方が使っているのはドワーフさんが鍛えた鉄製の品が殆どを占めていた。それでも調理部の皆さまが有難いと喜んでくれているので、贈る身としては渡した甲斐があるものである。
「素敵な考えですね。確かに使われないより、誰かに使われる方が幸せなのでしょう」
どうやらディオさんは受け取ってくれそうである。仕舞い込んでいるより、道具は使われてナンボである。兵器となれば使われないまま朽ちていくのが幸せだろうけれど、調理道具は日用品だ。超最高級品なので武器になりそうだけれど、目的外利用なのでそれとこれとは別のはず。私は人を呼んで蔵に眠っている調理道具を引っ張ってきて欲しいとお願いすれば、直ぐに取りに行ってくれた。
暫く待っていれば箱をいくつか抱えた男性が戻ってくる。中に入っている調理道具を取り出せば、埃一つ被っていない。やはり鉄製よりも竜の鱗や牙で鍛えたものの方が見栄えが良い。
品により赤や緑や青という色になっているのは、魔力の多い方の鱗や牙を使っているからだろう。帆布の布にくるまれていた包丁や果物ナイフが並べられ、みんなが道具を取り囲む。使うことに遠慮が湧いても、綺麗な品は皆さまの目を引きつけて離さないようだ。
「凄い品々ですねえ。私が使ってしまっても良いのかと迷うくらいに美しいです」
ディオさんが手に取っても良いですかと問い私はどうぞと答えれば、長い手を伸ばして一本の包丁を手に取った。窓から入る陽光を反射して刃紋がキラリと光る。
「手に馴染みそうな品をいくつか選んで貰えれば嬉しいです」
「ありがとうございます、ナイさん」
私とディオさんがいえいえどもどもと頭を下げていると、ヴァルトルーデさまも興味を引いたのか並べられた調理道具の前に立った。彼女は凄いなあと感心しながら、刃渡りが短い果物ナイフを手に取る。
「あ」
ヴァルトルーデさまがつい刃先を触ってしまい、指先からつーと血が流れ落ちる。
「あっ」
「なにやってんだよ、姉御」
私とジルケさまが声を上げ、他の面々は顔を真っ青にしていた。手を切ってしまったご本神さまは気にする様子もなく、へらりと笑う。
「切った。痛いね」
「ヴァルトルーデさま、ナイフを置いて手を貸してください」
私はなにをしているのやらと足早にヴァルトルーデさまの下へと向かい、彼女の手を若干無理矢理に取る。ヴァルトルーデさまは不思議そうな顔になっているけれど、問答無用で傷を塞ぐ魔術を施させて貰った。
人間相手ではなく女神さま相手なので魔力を遠慮なく注ぎ込んで。どうやら腰元のヘルメスさんも協力してくれたようで『やぶさかではない』というような雰囲気を醸し出しながら、魔石をぺかぺかと光らせていた。ヴァルトルーデさまの指先から流れていた血が止まり、傷口も綺麗に塞がっていた。切った跡が少し残っているけれど、これなら時間経過で綺麗に分からなくなると私は安堵の息を吐く。
「ありがとう、ナイ。でも勝手に治ると思う」
へらりとまた笑ったヴァルトルーデさまがお礼を伝えてくれるのだが、どうやら傷はほっとけば勝手に塞がったようである。慌ててしまった私の気持ちを返してと伝えるべきか、それとも女神さまって凄いと褒め称えるべきか。少し迷って片眉を上げた私にヴァルトルーデさまが両手を伸ばしてきた。
「でもナイが慌てて傷を治してくれたことは嬉しい」
へへへと笑うヴァルトルーデさまの両腕に導かれ、彼女の身体に私はすっぽりと納まった。この体格差どうにかならないかと私が苦笑いを浮かべていると、床に落ちているヴァルトルーデさまの血を見つける。私はヴァルトルーデさまから抜け出してポケットからハンカチを取り出し、床に付いた血を拭き取ってなんとなくハンカチを見つめる。
「これ。聖王国に売れば国家を破産させそうな値段を払ってくれそうだね」
私の声に調理部の皆さまがぎょっとした顔を浮かべ、ヴァルトルーデさまは『そんな価値ない』と言いたげである。ジルケさまとディオさまは肩を竦めて、私の後ろに控えていたジークとリンも少し呆れた様子で答えてくれる。
「本当に払いそうだな」
「ぶんどっても良いと思う」
確かに本当に払ってくれそうだし、ぶんどろうと法外な値段を吹っかけても大丈夫そうである。フィーネさまは涙目になりそうだけれど、きっと西の女神さまの血が付いたハンカチと銘打って、ご本神さまが保証や証明してくれれば本物となる。肩の上のクロが脚をふみふみしながら『神力で酔う人がいそうだねえ』と呑気に教えてくれ言葉を続けた。
『捨てるわけにもいかなさそうだねえ』
確かに捨てて『なんてことをしてくれるのだ!』と怒る方がいそうである。ハンカチを洗濯したり、捨てるのも駄目か。
「ロゼさんに預かって貰おう。一生、出せないや」
クロの声に納得した私はロゼさんを呼びハンカチを預ける。ディオさんが『スライムが喋った??』と訝しい顔をしていると、ジルケさまに腕をぽんぽんと叩かれている。地上には喋るスライムが存在すると知って欲しいなあと私は目を細めるのだった。






