1422:ジャドさんの帰還。
朝、自室のベッドの中で目が覚めた。隣にはリンが寝ていて目を閉じている。まつ毛長いなあと笑いながら、私は彼女を起こさないようにベッドから降りようとすれば腕が身体に絡みつく。起こしてしまったかと苦笑いを浮かべれば、リンが半分目を開いて私を見ている。
ゆっくりと優しくベッドに寝転がっている彼女の下に私は導かれた。微かに洗髪剤と石鹸の匂いが彼女から漂ってきて私の鼻腔をくすぐる。リンと一緒に寝た時は大体今日と同じ行動を取っているのは気のせいだろうか。リンの顔に掛かった赤毛を私は手を伸ばして優しく払ってから口を開く。
「おはよう、リン。今日は冷えるね」
「ナイ、おはよう。うん。風邪、引かないようにね、ナイ」
年が明けて一ケ月が経とうとしており、冬の寒さが厳しくなっている。北大陸の気温より全然マシだけれど、アルバトロス王国の気候に慣れている身としては十分に冬は寒いのだ。
二人してベッドから起き上がると、籠の中で寝ていたクロがむくりと身体を起こした。寝ぼけているのか身体がゆらゆら揺れて、尻尾を篭からだらんと垂らしている。目をうっすらと開けたクロが私たちを捉えた。クロと一緒に寝ていたネルも身体を起こして寝起きの声で一鳴きする。喉が渇いているのかいつもより鳴き声は低かった。
『おはよう、ナイ、リン』
「おはよう、クロ。ネルも目が覚めたみだいだね。おはよう」
「おはよう、クロ、ネル」
クロの挨拶に私とリンが言葉を返す。ネルは一鳴きしてそれを返事としたようだ。挨拶できたと満足気にしているネルが可愛らしい。ベッドの側ではヴァナルと雪さんと夜さんと華さんが起き上がり、毛玉ちゃんたちは床に三頭団子になったまま寝ている。
毛玉ちゃんたちは野生を捨て去っているようで、お股パッカーンして心地良さそうである。雪さんたちは彼女たちを見て『もう少しおしとやかになってくれれば良いのですけれど』『番にこのような姿を見せるつもりでしょうか』『受け入れてくれる番であれば……いらっしゃるでしょうか?』とぼやいていた。ヴァナルはくわっと大きな欠伸をしているのだが、口の中にある牙は大きく鋭い。虫歯とかなさそうだし、歯石が溜まって黄色くなってもいないから歯の健康状態は良さそうだ。
リンがベッドの端に腰を掛けた。私も遅れてベッドから降りようとしていると、リンがクロとネルの方を見る。
「ナイ。着替えてくるね。ネルはまだクロと一緒にいる?」
リンの言葉に私は頷き、ネルはリンとクロの間を交互に視線を彷徨わせていた。どうやらネルはリンと一緒に部屋に戻るか、クロと私の部屋でまったりしているか迷っているようである。ネルが何度か視線を動かした末に籠の中で短く一鳴きすれば、リンが目を細めてベッドから立ち上がる。
「分かった。直ぐに戻る」
そう言い残したリンはすたすたと歩いて私の部屋を出て行った。今日のネルはクロと一緒にいたい気分のようである。直ぐに戻るとリンは言ったから、着替えを終えれば私の部屋に戻ってくるようである。
私も着替えをしようと呼び鈴を鳴らせば、エッダさんが直ぐに部屋にきてくれる。ヴァナルと雪さんたちはそそくさといつも通りに移動して、外で私の着替えを待ってくれるようだ。毛玉ちゃんたちは相変わらず寝ているため、両親から放置されていた。
エッダさんと朝の挨拶を交せば、クロの隣にネルがいることに気付いて『今日はジークリンデさんと一緒ではないんですねえ』とネルに声を掛けていた。
彼女の問いにネルは首を傾げ、クロが『今日はそんな気分なんだって~』と通訳していた。ネルが短く一鳴きして、クロとエッダさんがえへへと笑っている。微笑ましい光景だなあと私が感心していると、エッダさんがはっとした顔になって視線をこちらへ向けた。
「申し訳ありません、ご当主さま。着替えをお手伝い致します」
「いえ、気になさらないでください。お願いします」
頭を下げるエッダさんに私は苦笑いになる。アストライアー侯爵邸は気を取られることが多いそうである。調理場から香る料理の匂いにお腹を刺激され、妖精さんたちがぱっと光って驚いたり、毛玉ちゃんたちがびゅっと廊下を走り去って目を見開いたり。
庭に出れば天馬さまたちが穏やかに声を掛けてくれ、挨拶を交わし日常のことを話しているとか。偶に時間を取られてしまい自分たちの上司から苦言を呈されるそうである。仕事が少し遅れた理由を伝えれば『仕方ない』となるそうだけれど。
エッダさんが私の着替えを手伝ってくれつつ、机の上にあるモノに目を取られていた。
「……本当に凄い光景ですね。部屋にグリフォンの卵がずらりと並んでいるなんて」
彼女の声に釣られた私も机の上を見みた。そこには丸く黄色い宝石のようなものが、綿を詰めた布の上に鎮座している。昨日、ジャドさんがヤーバン王国から戻ってきた。戻ってきたジャドさんは道すがら雌のグリフォンさんを引き連れて侯爵邸を目指したそうだ。
噂を聞きつけた雌グリフォンの方たちがヤーバン王国に向かい、ジャドさんと托卵先を話合ったそうである。創星神さまの使いを務めたアストライアー侯爵に卵を預けたならば、強い仔が孵るのではないかと。
ジャドさんは強い仔が孵った証明だとイルとイヴを雌グリフォンさん方に紹介したそうだ。彼らの体格、毛並み、嘴や爪が立派であることを確認した雌グリフォンさん方は確信したそうである。
アストライアー侯爵に卵を託そうと。そしてヤーバン王国で済ませるべきことを済ませて、アストライアー侯爵領領主邸にやってきたわけだ。
目の前にある机の上には四つの卵が並んでいる。それぞれの雌グリフォンさんが私に卵を預けるために気合で、道すがら産み落としたのだとか。そのためかジャドさんから預かった卵さんよりも一回り小さい。
「グリフォンさんたちからの要望ですから。いつ孵るか分からないというのが最大の難点ですね」
預かるのは構わない。温めなくとも卵は勝手に孵るのだから。ただ、いつになるか分からないというのが厄介なことだろう。直ぐに卵に皹がはいるかもしれないし、何年も先のことになるかもしれないのだ。前回のように卵が一個から二個に増え、卵が孵れば更に二頭増えるなんてこともあるかもしれない。まあ、ジャドさんたち雌グリフォンさんたちは育児に目覚めたようで、卵が孵り次第幼いグリフォンさんたちは親元で育てるそうである。
ソコだけは有難い。私がグリフォンのお世話を担うとなれば大変なことになりそうだ。亜人連合国にはグリフォンの卵さんを預かったと連絡を入れているので、竜のお方が私の下に卵を預けにくることはないはず。
エッダさんと喋りながら着替えをしていれば終わり、卵さんたちが無事に孵るようにと祈ってくれている。そして私と視線を合わせるとエッダさんは苦笑いを浮かべていた。
「ヤーバン王国の陛下が凄く嬉しそうな顔をしていそうです」
あははと乾いた笑いを浮かべたエッダさんを私は見上げる。
「お知らせすれば直ぐに返事が届きましたよ。めでたいと。あと侯爵邸に遊びに行っても良いかとも」
流石にヤーバン王国に黙っているわけにはいかないと、ヤーバン王には直ぐ知らせている。もちろんアルバトロス王国にも、亜人連合国にもだ。
ヤーバン王は侯爵家が知らせを送った十分後に返事をくれている。ヤーバン王国の皆さまは『また卵が産み落とされた!』『グリフォンがまた増える!』『めでたい、めでたい!』『雄のグリフォンさまにも知らせねば!』と大騒ぎになっているそうだ。
「行動力のあるお方ですから直ぐにこられそう、というかこられるんでしたよね?」
「あはは。侯爵邸に向かう準備をしているそうですよ。一国を担う王さまの足の軽さではない気がします」
エッダさんが遠い目になり私は肩を竦める。二、三日中にはヤーバン王国の準備が整い、アルバトロス王国側も受け入れ態勢を築けるそうだ。本当に転移陣の有難さが身に染みる。
ヤーバン王は侯爵邸に向かう準備を進めつつ、卵が誕生したお祝いも開催しているそうだ。卵さんたちが不在で祝っても良いのだろうか。事の次第ではヤーバン王国に私たちが卵さんを抱えて向かうことになりそうである。はははとエッダさんと二人で笑っていると、リンが部屋から戻ってきたようだ。長い赤髪を纏めてラフな格好をしているので、今日は訓練はお休みのようである。
「ナイ。エッダ、おはよう」
「ジークリンデさん、おはようございます。ご当主さま、朝食の準備は整っているとのことです」
リンとエッダさんが朝の挨拶を交わすと、籠の中からネルが飛んできてリンの肩の上に乗る。
「あ、はい。では食堂に行きますね」
「承知致しました」
私がエッダさんに返事をすれば、彼女は礼を執って部屋から出て行く。その間にリンが私の横に立って顔を覗き込んでいる。
「エッダとなにを話していたの? 楽しそうだった」
リンは私たちが笑っていたことが気になったようである。
「グリフォンさんの卵の話だよ」
「ああ。私も驚いた」
グリフォンさんの卵の話だと伝えると、リンは机の上に視線を向ける。リンは驚いたと言っていたが、戻ってきたジャドさんたちグリフォン連合に対して警戒もなにもしていなかった気がする。
卵を預かった時も黙ってみているだけだったし、リンと同じくジークも特に驚いてはいなかった。クレイグは相変わらず『はあ? なんでそんなことになるんだよ!』と突っ込んでくれ、サフィールは『まあ、ナイのお屋敷だしなにが起こっても不思議じゃないよ』と苦笑いを浮かべていたけれど。
私は四つの卵さんを手に取って、肩から下げるタイプの鞄の中に卵を詰めていく。話を知った侍女の方たちが急遽、卵さん四つを私が持ち運べるようにと繕ってくれたのだ。首から下げるのは重かろうとポシェットのようなものをチョイスしてくれている。私はゆっくり丁寧に鞄の中に卵さんを移しヘルメスさんも腰に掲げて、待ってくれていたリンを見上げた。
「朝ご飯食べに行こう」
「うん」
リンが返事をくれれば寝ていた毛玉ちゃんたち三頭ががばりと起き上がる。現金だなあと私が笑えば『ごひゃん!』『たのちみ!』『おにゃかすいた!』とそれぞれ声を上げていた。
部屋を出て二階から一階に降りたあと、長い廊下を歩いていれば窓からジャドさんと母グリフォンさん四頭が顔を出している。私は窓を開けて『おはようございます』と彼女たちに声を掛けた。
『ナイさん、おはようございます』
ジャドさんが代表して声を上げる。クロとネルとヴァナルと雪さんたちと毛玉ちゃんたちもそれぞれ声を上げた。母グリフォンさん四頭は『ピョエ!』と声を抑えて挨拶をくれる。
『ナイさんが卵を確り持ち歩いてくれて嬉しいです』
「預かると言った手前、緊急時以外は一緒にいるつもりですよ」
目を細めるジャドさんを私は見上げた。預かると言ったのだから育児放棄はよろしくない。なのでちゃんと鞄に卵さんを入れて持ち歩いているわけだ。
暫く続くことになるけれど、ちょっとした手間が増えるというだけなので大きな問題はないし、首から卵さんを下げるよりも勘違いされない。母グリフォンさんたちも嬉しそうに目を細めれば、ジャドさんが口を開く。
『ふふふ。ナイさんの律儀なところは好ましいです。彼女たちに代わりお礼を申し上げます』
律儀かどうかは分からないけれど、約束したことは守らないといけないはず。私が手を伸ばしてジャドさんの顔を撫でていると、他の四頭の母グリフォンさんが羨ましそうにこちらを見ている。仕方ないと私は笑って暫しの間彼女たちの顔を撫で、ジルケさまのベッドが増えたと明後日のことを考えるのだった。