1409:進路相談。
とある日。午前中、託児所の方に侍女長さまが現れて、わたしにご当主さまの執務室へ赴くようにと告げられた。一緒にいたサフィールさんは苦笑いを浮かべ、他の子たちはわたしがなにかやらかしてご当主さまに怒られるのではと心配そうな視線を向けていた。
彼らを見た侍女長さまはわたしに『アンファンには良い話だと思いますよ』と小さく笑って託児所から去って行く。指定された時間にわたしが執務室へ向かえば、ご当主さまの側仕えを務めているソフィーア・ハイゼンベルグ公爵令嬢さまが執務室の中へと導いてくれる。
ご当主さまの執務室は独特な雰囲気が流れていて、笑みを浮かべている家宰さまと、もう一人のご当主さまの側仕えであるセレスティア・ヴァイセンベルク辺境伯令嬢さまがご当主さまの執務机の隣で待機している。
壁際にはジークフリードさんとジークリンデさんも待機していた。双子の兄妹は時折託児所に顔を出して、私たちの面倒を見てくれている。喋る方たちではないけれど、困っていればそっと声を掛けてくれる優しい人たちだ。そんな二人がいることが分かって、緊張感が少しだけ和らぐ。でもご当主さまから一体なにを告げられるのだろう。侍女長さまから悪い話ではないと聞いているものの、ご当主さまだからなあと椅子に腰を掛けている小柄な人と視線を合わせた。
「アンファン、参りました」
「急に呼び出して申しわけありません。少しアンファンに伝えたいことがありまして」
相変わらずご当主さまは出会った時からわたしに敬語を使っている。ジークフリードさんとジークリンデさんとクレイグさんとサフィールさんの前では普通に喋っているのに。
ユーリの前でもタメ口で喋っているけれど、他の方には今の様に敬語を頑なに使っていた。侍女見習いとして、私が屋敷の方たちに手解きを受けている際、ご当主さまの口調が何年経っても変わらないことに不満を漏らしていた。とはいえ厳しい口調であったり、理不尽な命令を受けないので、小さな不満といったところだけれど。
ご当主さまと出会って二年が経っており、身長はわたしの方が高くなっている。彼女はわたしが身長を抜かしたことを悲しんでいるけれど、身長でなにか変わるわけではないから気にしなくて良いのに。多分、ユーリもご当主さまの背を将来は追い越すはず。わたしの時より血の涙を流すのではないだろうかと、今から心配しているところだ。
相変わらず口調の硬いご当主さまに苦笑いを浮かべていると、目の前の彼女が前置きは面倒だと告げて言葉を続ける。
「春からアルバトロス王都の侍女養成校に通ってみませんか? 二年、屋敷を離れなければなりませんが、外を知る良い機会かと。それに同年代の友人を作れる機会でもあります」
小さく笑うご当主さまは学費については心配いらないと言ってくれる。わたしはユーリの側を離れる気はないけれど、サフィールさんたちの話を聞く限り資格は持っておいた方が良いそうだ。
資格を持っていればユーリの側仕えとして控えやすくなる。ユーリの側仕えを狙っている人はわたし以外にいることを知っている。最近『あんふぁんおねーちゃ』と呼んでくれるようになった彼女の下を離れなければならないのは寂しいけれど……他の人がユーリの側仕えに就いた時のことを考えれば、養成校で学んだ方が良さそうだ。
わたしが難しい顔になっていることが分かったのか、ご当主さまも執務室にいる皆さまも苦笑いを浮かべている。嫌な感じは受けないから構わないけれど、子供とみられているようで少し恥ずかしい。わたしももう十二歳で、読み書きと簡単な計算はできるようになっている。あの人の下で過ごしていれば、学ぶことなんてなかっただろう。
ただ二年間、ユーリの側を離れるということが凄く気になる。王都から侯爵領に戻るには結構なお金が掛かるはず。ユーリに会えないのは寂しいから、長期休暇の際には必ず戻りたいところだけれど……ちょこちょこ溜めていたお金を使うのはなにか違う気がする。でもなあと頭の中で考えていると、ご当主さまがまた言葉を紡いだ。
「養成校を卒業すれば、資格を持つことになるので、アストライアー侯爵家でなくとも他の家でも仕事ができます。直ぐに答えを出せなくてもかまいません。年末まで考えてみてください」
年明け早々に入学試験があるそうだ。だから年末までに答えを出して、試験を受けるために必要な書類をご当主さまが提出してくれるとのこと。訓練校はほとんど平民の方で構成されていて、高貴な人は稀――食うに困っている貴族のご令嬢が安い学費に惹かれて通うらしい――だそうである。
「ご当主さま。お気遣いありがとうございます。申し訳ありませんが、年末まで考えさせてください」
「はい。アンファンが後悔しないように、良く考えてくださいね。他の方も今の件を知っているので、相談してみるのも良いかと」
「分かりました。では、退室させて頂きます」
わたしは頭を下げて執務室を出ようとすれば、ソフィーアさまがわたしを扉まで案内してくれる。去り際に彼女が『あまり難しく考えるなよ』と微笑んで見送ってくれたのだった。
二階の長い廊下をゆっくり歩く。あまり訪れることはないので、窓から見える景色が少しだけ新鮮だ。庭には最近降り立った天馬さまたちがのんびりと過ごしていて、屋敷で働く方たちが『これが貴族の屋敷だと思うんじゃないよ。ご当主さまだから起きることだ』と真面目な顔で教えてくれた。他の貴族家がどんなものか知らないのでわたしは首を傾げるしかない。貴族家出身の誰かにご実家はどんな家なのか教えて貰ってみようと前を向けば、見知った方がこちらへと歩いていた。
「エッダさん、こんにちは」
「はい、こんにちは。どうしたの、アンファン? 珍しいね。貴女が二階にいるなんて」
前を歩いてきたのはご当主さまの身の回りの世話を担っているエッダさんだ。貴族家出身の方だけれど、平民のわたしにも気さくに声を掛けてくれる人だった。
時折、侍女の仕事について彼女から学ぶこともあるので私の先生でもある。まあ、屋敷で働く侍女の方や下働きの女性はみんな私の先生だけれど。小さく笑ったエッダさんは『難しい顔してるよ』と言って、わたしに視線を合わせるために少し屈んだ。
「丁度良い時間だから、食堂に行ってお茶を貰おうか」
ふふふとエッダさんが姿勢を元に戻してまた笑う。ご当主さまがわたしが侍女養成校に通うかもしれないとみんなに伝えているから、エッダさんはわたしが悩んでいることを察知したようだ。
悩んでいる内容までは分かっていないだろうけれど、こうして話を聞いてくれるのは有難いことだろう。サフィールさんに相談してみようと考えていたけれど、侍女のことならエッダさんの方が適任かもしれない。足下には、いつの間にか尻尾が三本生えている黒猫がちょこんと座っていた。どうやらご当主さまの部屋から出てきたエッダさんにくっついていたようである。
『妾も行くぞ』
「トリグエルさま、食堂でカツオブシを強請っては駄目ですよ」
黒猫が声を上げれば、エッダさんが苦言を告げる。猫に。猫って喋るんだっけ……元居た国の貧民街の猫は痩せ細っていて、喋るところなんて聞いたことがない。でも目の前の黒猫は三本の尻尾を揺らしながら、艶やかな短な黒い毛を生やし金色の瞳をわたしに向ける。
『ケチだのう。良いではないか……む。小娘、妾を運べ』
ぴょんと後ろ脚の力で黒い猫が私の胸元に飛び込んできたので、とっさに両腕を差し出して抱き留める。見た目の割にずっしりと重い黒い猫がわたしの腕の中で脱力すれば更に重く感じる。エッダさんは黒い猫に呆れた視線を向けながら片手を腰に当てた。
「本当にトリグエルさまは動かないですね……ご当主さまから運動するようにって本当に告げられてしまいますよ?」
『げっ……仕方ない。歩くか』
エッダさんの言葉に黒い猫は目を真ん丸にして、私の腕から逃げて床にトンと降りた。凄く軽くなったわたしの腕に苦笑いを浮かべていると、エッダさんが腰から手を離して私に差し出す。
「アンファンも行きましょう。お菓子出してくれるかも」
「えっと……はい」
ふふふとエッダさんが笑い、私は差し出された彼女の手を握る。平民が貴族の人に触れるのは良くないけれど、こういう時は構わないはず。なんだかむず痒いものを感じるけれど、握ったエッダさんの手は温かい。ユーリの高い体温を感じるのが好きだけれど、大人の人の温かさはなんだか優しくて勝手に目から涙がでそうになってくる。いきなりわたしが泣けばエッダさんが困るから、泣いたりなんてしないけれど。
「アンファン、今日の朝ご飯はなにを選んだの?」
「えっと。オニギリです。パンとスープも美味しいけれど、オニギリも美味しいなって最近感じるようになりました」
手を握ったままエッダさんの隣に並んで廊下を歩く。階下に降りる階段に差し掛かると、彼女が『足下に気を付けてね』と気を使ってくれた。階段を降りながら、エッダさんは話を続ける。
「ご当主さまが侯爵位になって、ご飯が更に美味しくなったよね」
「はい。たくさん食べてしまいそうで危ないです」
確かに子爵位の時より侯爵位になってからの方がご飯の内容が充実している気がする。女神さまも一緒にお過ごしになられているから、調理部の方たちが手が抜けないというのもあるだろうけれど……それにしたって朝食を選べるのは珍しいと耳にした。
定番のパンとスープで構わないけれど、オニギリというお米を食べた方がお昼の時間までお腹の空きが遅い気がしている。だから最近のわたしはオニギリを選択することが多い。中の具も日替わりなので飽きることはない。お腹が空かない生活は凄く有難いし、ご当主さまと料理人の方には感謝しなければ。ただ、お腹を満たせるまで食べようとしてしまうから、少し気を付けないと。
「アンファンはまだまだ食べ盛りだから、気にしなくて良いんじゃない? 食べ過ぎても動けば直ぐに痩せるよ、きっと」
ふふふと笑うエッダさんに足下の黒い猫が不満気な顔を浮かべた。
『なんじゃ、妾に対する嫌味か、エッダ』
「さて、どうでしょうか?」
にやりと笑うエッダさんに黒い猫は反論を諦めたのか、大人しく一階にある使用人用の食堂を目指して先を歩いている。エッダさんも食堂を目指して足を進め、わたしも一緒に歩を進める。そうして食堂に辿り着いて適当な所に腰を下ろすようにとエッダさんに伝えられた。みんな働いている時間なので、護衛の騎士の人たちが遅れて朝食を摂っているくらいである。
「はい、どうぞ。紅茶だよ。あとお茶請け貰えたよ」
「ありがとうございます」
エッダさんがカップを二つ持って、テーブルに静かに置いてくれた。湯気の立つティーカップからは紅茶の良い匂いが漂っている。小皿の上にはクッキーが数枚乗せられていた。
席に腰を掛けたエッダさんが『で、どうしたの? 難しい顔をしてたのは』と片眉を上げて問いかけてくれる。わたしは黙っているのも失礼だと、少し前に受けたご当主さまからの話を目の前の彼女に伝えるのだった。
「ご当主さまから、王都の侍女養成校に通ってみないかって伝えられました。凄く有難い話だと理解はしていますが、二年もの間、ユーリの下を離れないといけなくて……」
「あー……ユーリさま、可愛いからね。アンファンの気持ちも理解できるよ」
エッダさんが『良い話だけれどなあ。王都の養成校かあ……私は通ったことがないからどんなところなのか分からないし』とぼやけば、たまたま近くに座していた騎士の方が『アイツに話を聞いてみれば?』と声を掛けてくれる。
エッダさんは彼の話に『ああ』と納得して、ちょっと待ていてねと言い残して食堂を出ていく。わたしが食堂で待っていれば、エッダさんが数名の侍女の方と下働きの方を連れて、いろいろとわたしの相談に乗ってくれるのだった。