1359:正気か。
ナイさまがヴァイセンベルク辺境伯家の者を来賓室へと案内してくださったあと、庭に出ても良いとのことでわたくしの娘であるセレスティアと一緒に東屋へと向かいます。旦那さまは図書室に向かい、興味を引く本を読んでみるとのことです。
侯爵家の侍女が落ち着いた様子でわたくしたちを案内してくださいます。きちんと侯爵家に勤める者としての自覚があるようで、わたくしたち辺境伯家の者を相手にしても小心な姿は晒さない。爵位の低い家に勤めている者だと小刻みに震える者もいるので、本当に堂の入った姿に感心しました。
わたくしたちの後ろにはトリグエルさまという猫又――三本も尻尾が生えている――とジルヴァラさまと呼ばれる妖精が歩いております。トリグエルさまの仔猫もちょこちょこ歩いておりますし、ナイさまがフェンリルとフソウの神獣さまの仔たちに『お客さまのお相手を務めて貰っても良い?』と問い、彼女たちは尻尾を左右に勢い良く振ってわたくしたちの横に座り、今は仔猫たちの後ろを良い顔をして歩いております。
「お母さま、ナイの従者になりたいなどと申さないでくださいませね?」
「あら。従者でなくとも、乳母やユーリちゃんの家庭教師を務められますわ!」
我が娘が鉄扇を開いて口元を隠し片眉を上げながら、わたくしに苦言を呈しました。確かにナイさまの従者の席はありませんが、屋敷で働く方法であればいくらでもあるはずなのです。わたくしは騎士家系の出身のため剣を振るうこともできますし、上級の魔術を放つことができます。
娘のセレスティアはわたくしが彼女の椅子を取らないか心配しているようですが、ナイさまは娘に信を置いているのは確実なので、そんな無粋なことをできるはずありません。
だからこそ他の道があれば、わたくしはすぐさま挙手を致しましょう。ナイさまの側にいられるのであれば幻獣と魔獣と毎日接することができます。先ほども竜であるクロさまともご挨拶できて凄く嬉しい日となりましたし、庭にでれば天馬さまがきてくれるかもしれないのですから。ええ。給金なんてものは望みません。
わたくしの勢いに押されたセレスティアが深々と息を吐きました。それにしてもセレスティアは凄く羨ましい環境で働いておりますね。
辺境伯邸に顔を出した際には幸せそうな顔を浮かべ、グリフォンのジャドさまの背に乗らせて頂いたとか、凄く大きな竜のお方と会話をしたとか、妖精が肩の上に乗ってセレスティアの髪で遊んでいたとか。
本当に羨ましい話ばかりを聞いているので、アストライアー侯爵邸はやはり天国のような場所だと確信しております。屋敷から庭に出ると、綺麗に整えられた庭園が目の前に広がっておりました。ナイさまは庭に興味が全くないとのことのため、庭師の者の意向が多大に反映されているのでしょう。細かいところまで手が行き届き、ふと珍しいものが視界に入りそちらへ顔を向けました。
「あれは我が家の庭師が育てていた黒薔薇?」
「良く気付きましたね。お母さま」
庭の片隅で毛色の違う薔薇が育てられており、黒という暗色は好まれていないのにどうしてと首を傾げた瞬間、そういえばセレスティアが以前、黒薔薇の株を庭師に分けて貰っていました。
まさかナイさまの屋敷の庭で育てられているとはと驚きつつも、大事にされているようでなによりと目を細めます。黒薔薇はナイさまが夜会の際に仲間と認めている方に贈っていたとか。
最近は忘れているようで、黒薔薇を渡してくれないとセレスティアが愚痴を零しているのですが、貴女はそんな細かいことを気にするような性格だったでしょうか。豪胆で豪快で魔獣や幻獣に目がない娘と評していたのですが、少しばかり繊細な面を持ち合わせているようで安心しました。
庭を進めば豪華な東屋が見えてきて、人影を捉えることができます。誰でございましょうと近づいていけば、良く見知った顔があったのです。
「あらあら」
「ああ」
ハイゼンベルグ公爵夫人となったセシリアと娘であるソフィーアさんが先客として東屋でお茶を飲んでおりました。わたくしたちに気付いた二人はこちらを向き、セシリアは不敵な顔に、ソフィーアさんは一度席を立ち礼を執るのでした。
ソフィーアさんはセレスティアに向けたものではなく、わたくしに向けて礼を執ったのでしょう。娘のセレスティアも同様にセシリアに礼を執っているのですから。そしてわたくしの片眉がぴくぴくと動いているのが分かりました。嗚呼、わたくしの隣でトリグエルさまとジルヴァラさまと毛玉さんたちと仔猫たちがちょこんと控えてくださるのは凄く誉ですが。
「ごきげんよう、ハイゼンベルグ公爵夫人」
「お母さま、そのような態度で挑まなくとも」
わたくしがセシリアに声を掛ければ、セレスティアがはあと深い溜息を吐きました。
「かまいませんわ。いつものことですもの。気になさらないで、セレスティアさん。久方ぶりですわね、ヴァイセンベルク辺境伯夫人」
セシリアも同様にわたくしに視線を向けてふふんと笑っております。彼女の隣に座しているソフィーアさんが『お母さま、毎度喧嘩腰でなくとも』と苦言を述べておりますが、セシリアが言ったとおりいつものこと。
アルバトロス王国の貴族社会で、爵位が近く同年代となれば腐れ縁となってしまうのは必然です。セレスティアとソフィーアさんも以前はわたくしたちのように、紫電を散らし牽制し合う仲だったようですが、ナイさまの側仕えを務めるようになり少し関係が変わったようでした。
ふふふと笑い飲んでいた紅茶のティーカップをソーサーへと置いたセシリアは侍っていた侯爵家の侍女とわたくしたちを案内してくれた侍女に対して、気にしないで欲しいと目線で訴えます。セレスティアとソフィーアさんも見て見ぬ振りをして欲しいと伝えれば、侍女の者たちは静かに頷き一歩下がります。
「お久しぶりですわ、セシリアさん! アストライアー侯爵閣下がご招待をなさった面子に貴女さまがいるのは百も承知! しかしながら、何故庭に出て優雅にお茶を飲んでいるのです!?」
セシリアさんは陽の光に当たることをあまり良しとしておらず、室内でお茶を嗜むことが多い。学院生時代も妙齢の大人になっても変わらずいたはずですが、どういう心変わりでしょうか。まあ東屋の下で鍔の広い帽子を被ってお茶を飲んでいる姿は滑稽ですが。
わたくしが笑いながら声を掛ければ、セシリアさんが厳しい視線をぶつけてきました。やや好戦的に見えるのは久方振りに彼女と会うからでしょうか。
「娘にリョクチャという珍しいお茶が飲めると聞いたもので。屋敷の中では侯爵家の皆さまの邪魔になろうと外に出た次第です。決して貴女のように下心満載で庭に出ているわけではありません」
セシリアにはわたくしが魔獣や幻獣が目的で東屋を目指したと露見しているようでした。
「くっ」
減らず口をという言葉をわたくしは飲み込みます。わたくしが渋い顔になったのが分かったのか、セシリアはティーカップに視線を向けてはあと溜息を吐きます。
いつでも、どこでも貴族令嬢として佇まいを崩さないセシリアが珍しい。どうしたのかと身構えていると、侯爵家の侍女の者に東屋の席へと促されます。セレスティアも同様にわたくしの隣に腰を下ろしました。そしてトリグエルさまが机の上に軽い身のこなしで乗り、ジルヴァラさまが侍女の者の横に控え、毛玉さんたちと仔猫さんたちはわたくしたちの足下でちょこんと座っておられます。凄く眼福。
「リョクチャはそのままでは渋くて仕方ありませんが、ナイさまが飲めなければ砂糖を入れてみてくださいと助言をくださりました。流石、ナイさま。凄く飲み心地の良い茶へと変わりました」
セシリアが微笑みながら砂糖を一さじ分、ティーカップに注ぎ入れくるくると混ぜております。ソフィーアさんは彼女の行動を見て少し引いていました。
「お母さま、ナイとフソウの方々はリョクチャに砂糖を入れません。それに砂糖を入れ過ぎではないでしょうか?」
「あら、美味しいわよ。本当に驚きよねえ。凄く渋いお茶なのにどうして飲めるのかしら……マッチャもお勧めだと教えてくださいましたが、飲める機会があると良いのですが」
片眉を上げながらソフィーアさんがセシリアに助言をしておりますが、当の本人はどこ吹く風で砂糖を更に追加しております。わたくしの横でセレスティアの顔が引き攣っているので、セシリアはリョクチャという飲み物に砂糖を入れ過ぎているのでしょう。侯爵家の侍女の者たちも少し慌てているようで、セシリアの甘党ぶりに驚きを隠せません。
「美味しいのに、皆さまはどうして私を止めるのか。ソフィーア、飲んでみる?」
「いえ、結構です。私は慣れてリョクチャ本来の味を楽しめるようになりましたので……」
砂糖が大量に入ったリョクチャをセシリアはソフィーアさんに勧めておりますが、彼女は青い顔ではっきりと拒絶しました。侯爵家の侍女の者がわたくしとセレスティアになにを飲むかと問われて、わたくしとセレスティアはリョクチャをお願い致します。
セレスティアは飲んだことがあるようですが、わたくしは初めてのため楽しみです。セシリアのように砂糖を大量に入れ込んで甘くするような子供じみたことはしたくないです。貴族であれば素材そのものの味を楽しまなければと、侍女の者が淹れてくれたリョクチャを一口嚥下しました。
「渋い」
苦いという味とは少し方向性が違うものでした。口の中に広がる渋みにわたくしは目を細めてしまいました。セレスティアは慣れているのか表情を一切崩さぬまま、一口、二口とリョクチャを飲んでおります。
ソフィーアさんも続いて飲み、セシリアも甘いリョクチャを飲んで『ふ』と小さく笑いわたくしに視線を寄越しました。何故かマウントを取られている気がしますが……飲み干すとなれば、少々苦行となってしまうでしょう。素直に砂糖を少しばかり足して飲んでみようと、目の前にある砂糖入れの小瓶に手を伸ばします。
「……」
無言でティースプーン一杯分の砂糖を入れてみました。さて渋みは和らいでいるかと試しに一口飲んでみます。
「ああ、まろやかになりましたわ。これならばわたくしでも問題なく飲むことができます」
自然と自身の口から誉め言葉が漏れました。セシリアはわたくしの声に反応してにやにやしているため少々腹が立ちますが。これで普通に飲むことがとリョクチャの味を暫し楽しんでいると、またセシリアが自身のリョクチャに砂糖を投入しております。
流石に一杯分の砂糖で随分と飲み口が優しくなったのに、セシリアのティーカップには果たして何杯分の砂糖が入っているのでしょう。昔から彼女が甘党であることは知っておりますが、それにしたって物凄く甘いというか、リョクチャではなく砂糖リョクチャになっているのではという疑問が湧きます。
ソフィーアさんとセレスティアもセシリアの甘党振りに引いているようで口の端が歪になっていますが、彼女を止める気はないようです。わたくしも止める気はないですし放置しようと決めれば『うん、美味しいわ』と満足そうな顔になるセシリアに一同『正気か?』となるのでした。