1209:もう少しで。
慌ただしい四月は終わり、少し落ち着きを取り戻していた。
アストライアー侯爵家当主としてやるべきことは黒字の領地運営である。家宰さまの話では代官さまたちが恙なく取り仕切ってくれているので子爵領も侯爵領も問題ないとのこと。
できれば、なにかあった時のためにアルバトロス王国内のお貴族さまとの縁を増やして欲しいとお願いされているくらいだ。国外との繋がりが強いので、国内にも目を向けて欲しいという家宰さまの願いもあるようである。
いつも通り、午前中に執務が終わりお昼から自由時間となっている。お昼ご飯を食べて微睡みに包まれたい気分になっているけれど、気になることがたくさんある。
一先ずユーリの所に顔を出し彼女が元気かどうかを乳母の方と確認をして部屋の外に出る。ジークとリンは訓練に赴いているため今は私の側にいないが、アストライアー侯爵邸内の移動なので全然問題はなかった。それにクロとヴァナルと雪さんと夜さんと華さんと毛玉ちゃんたちが一緒だし、なにか起きた場合、相手の命の心配をしなければならない気がする。
「お猫さまはどこかな……」
アストライアー侯爵邸の長い長い廊下をきょろきょろしながら歩く。途中、侍女の方や下働きの方とすれ違うと彼らは廊下の端に寄り礼を執る。私はお疲れさまですと口にして通り過ぎるのだが、当主の声掛けに慣れていなかった皆さまの中でようやく定着しているようだ。
私の肩の上に乗っているクロも『お疲れさま~』と呑気に口にしている。魔獣や幻獣好きの方には凄く嬉しいようで、誰かを連れて歩いていると『やった!』『嬉しい!』と声を出している方もいた。
クロは微妙な表情をしているけれど、ミナーヴァ子爵家幻獣見守り隊――現在はアストライアー侯爵家幻獣見守り隊に改名されているらしい――とか発足していたので、多分一生彼らのテンションは高いままだろう。そんなクロがこてんと顔を傾げて口を開く。
『お腹が随分と大きくなっていたから、そう遠くへは行かないと思うけれどねえ』
クロも身重のお猫さまが心配なようで、脚を伸ばし顔をきょろきょろと動かして少しでも遠くを見れるようにと頑張っている。お猫さまがミナーヴァ子爵邸に住み着いてから、彼女は野生を捨て去っているので敷地外へは出ないはず。ミナーヴァ子爵邸よりも広くなったアストライアー侯爵邸なので、気ままなお猫さまを探しあてるのは一苦労だった。
「そろそろ産まれそうなのに、何処に行ったんだろう……」
私がぼやくと後ろを歩いているヴァナルと雪さんたちが顔を上げる。猫の妊娠期間は二ヶ月ほどだ。猫又であるお猫さまに適応されるか分からないけれど、お腹の膨れ具合を見るに産気づいてもおかしくはない。お腹の中にはお猫さま以外の魔力が宿っており、日々、感じる魔力が強くなっていた。
『元気な仔だと嬉しい』
ヴァナルが歩きながら私に伝えると、雪さんと夜さんと華さんがここぞとばかりにヴァナルの隣に並び口を開いた。
『猫又が産んだ仔も尻尾がたくさん生えているのでしょうか?』
『気になりますねえ』
『産まれてきてからの楽しみにしましょう』
そういえばお猫さまが最初の産んだ仔たちは、まだ尻尾は分かれていないそうである。それでも普通の猫とは違って、人間の言葉の理解度が高いとのこと。
多頭飼いをしているヴァイセンベルク辺境伯家では猫さんたちのリーダー格に収まっているとか。副団長さまが育てている猫さんたちも、目的の方へと手紙を届けてくれるそうだ。猫さんが知っている人限定だけれど、無駄に出歩かなくて良いと副団長さまは喜んでいる。
確かにお猫さまが産む予定の仔たちの尻尾はどうなるのだろう。楽しみが増えたと私が前を向けば、桜ちゃんと椿ちゃんと楓ちゃんが狼の姿で鼻先を私の手の平に宛ててきた。どうやら、彼女たちも話に加わりたかったようである。
「小さい仔が産まれるから、桜ちゃんと椿ちゃんと楓ちゃんも見守ってあげてね」
私が毛玉ちゃんたち三頭に視線を向けると『任せて!』『遊ぶ!』『お姉ちゃん!』と言いたげに鼻を鳴らしながら歩みを進めている。ユーリの遊び相手も務めてくれているから、産まれてくる仔たちの良き遊び相手となってくれるだろう。産まれた仔たちが彼女たちを拒否すれば、ずーんと落ち込みそうだけれど果たしてどうなることか。
「お猫さまー?」
お猫さまがいそうな場所を探しても見当たらないため、私はついに声を上げる。そういえばお猫さまに名前を付ける約束を交わしたけれど何故か決まっていない。私が『お猫さま』と呼んでもお猫さまは反対しないので時間が経ってしまったようだ。
『いないねえ。ジルヴァラは?』
「ジルヴァラさんは庭師の小父さまの弟子の方と一緒に庭のお掃除してた」
クロの疑問に私は答える。先程、二階の廊下へ出た時に窓からジルヴァラさんが庭師の小父さまの弟子の方と一緒に掃除している所を見ている。アストライアー侯爵邸が随分と広くなったので、庭師の方と庭師希望の方を新しく雇っている。
ミナーヴァ子爵邸の庭はあの小父さまにお願いして、こちらには新規で雇った庭師の方と庭師志望の方数名で庭を管理して頂く。新しく屋敷に配属された方々は最初こそ、クロとアズとネルとロゼさんに、ヴァナル一家とエル一家とジャドさん一家にジルヴァラさんとお猫さまの姿に驚いていた。最近、少し慣れてきたようだが……そろそろ屋敷に魔素が満ちるのではと副団長さまに教えて頂いているので、妖精さんに吃驚するかもしれない。
『こっちの家にも畑を作るんだっけ?』
「うん。趣味の範囲だけれど」
せめて一年間くらいは畑の妖精さんが誕生しないようにと願うしかない。ちょっと自分でお野菜さんを育てる苦労を味わってみたいのだ。きっと虫が付いたり病気になったりして大変なのだろう。
農家さんの苦労を知りたいというよりは、苦労をすれば自ずと知識が身に付くはずという手前勝手な考えであるが、アストライアー侯爵邸の裏にも家庭菜園が設けられる。ただいま、庭師の小父さまの弟子の方が一生懸命準備をしてくれている最中だ。
新規でアストライアー侯爵邸に雇った方々と、元々ミナーヴァ子爵邸で働いていた方々のアストライアー侯爵邸移動組と軋轢が生じなければ良いのだが。
侯爵位を持つ家で働くには、やはり働く方々もそれなりの地位や学が必要となる。家宰さま曰く、子爵邸で働く方々よりも身元は確りしているとのこと。人間関係で家宰さまと侍女頭さまに手に負えなくなるようならば私の出番となるのだろう。
ちゃんと正しく皆さまを導けるのか少々不安になって私は目を細めると、廊下の先に黒いなにかが見えた。一瞬、幽霊かと驚いてしまうものの黒いなにかの正体はお猫さまだと直ぐに気付いた。まだ合流するにはいくばくかの距離があるため歩みを止めずに進む。そうして随分とお腹が丸々と出ているお猫さまと対面した。
『お主に呼ばれた気がしたから、きてやったぞ』
「もう直ぐ産まれるようですから、あまり無茶はしないでくださいね……ってお猫さま、顎の下になにか付いていますよ」
お猫さまが前脚を綺麗に揃えて廊下に腰を下ろしてドヤと私の顔を見上げていた。視線を合わそうと私は廊下にしゃがみ込む。少しお行儀が悪いかも……というか廊下にしゃがみ込むお貴族さまなんていないだろうけれど、まあ、自身の屋敷だし構うまい。
『んにゃ!!』
「鰹節……誰かにおねだりしましたね」
お猫さまの顎の下になにかが付いていたので私が手を伸ばして取ってみる。顎の下に鰹節の小さな破片が付いていたのだ、料理場でお猫さまはお腹空いたとでも言って貰ってきたようだった。
間食は宜しくないし、通常の食事も妊娠しているから量を多くしているのに……お腹の仔は元気に育っていると信じたい。私が眉を潜めてお猫さまと視線を合わせると、彼女はふっと視線を外した。喧嘩しているわけではないけれど、お猫さま的にじっと見られるのは嫌なものなのか。彼女は外した視線を元に戻して私に訴える。
『小腹が空いたのだ! 致し方なかろう!?』
「確かに仕方ないことですが、食べ過ぎて肥満になるのも問題ですよ?」
ふしゃっとお猫さまが逆毛を立てる。そんなにお腹が空いていたのか。お猫さまの食事量を考える必要がありそうだが今が適量のはずである。でも妊娠中だ。適量というのが難しい。専門書なんてないし、本当に悩ましいことであった。
『食えと本能が訴えておるのだ!!』
「格好良いこと言ったみたいな顔になっていますよ……肥満は病気の元ですし、お腹の仔にも障ります」
本当に食べ過ぎは良くないからお猫さまには気を付けて欲しい。産後にダイエットをすれば良いけれど、お猫さまは屋敷の中で妖怪食っちゃ寝だから、痩せられるのか今から心配なのである。
『お猫さま、ボクも君の仔が産まれてくるのを楽しみにしているよ。無理はしないでね?』
クロがお猫さまと私の間に入ってくれる。どうやら話が平行線になりそうだと見かねたらしい。クロがお猫さまに言葉を投げれば、今までのお猫さまの威勢はどこかに飛んでしまった。
『ぐっ……! クロ殿に言われては……』
お猫さまは私の言葉より、クロの言葉の方が聞き入れやすいようである。今度からクロに注意をして貰おうかと悩むものの、おそらく生き物の本能で強い者には逆らえないという力が働いているような気がする。
クロの言葉は最終手段かとお猫さまの説得はなるべく私がするように気を付けようと決めれば、お猫さまは立てていた尻尾を下ろして元きた道を歩いて行く。私は一つ溜息を吐くと、本来の目的を思い出した。
「あ。お猫さまのお腹の様子を診なきゃいけなかったのに! お猫さま、待ってください!」
お猫さまを探していたのはお腹の仔の様子を知るためだった。お腹の仔が死産となれば魔力の気配で直ぐに分かるから、お猫さまに許可を取って毎日チェックしていた。また見失ってしまう前にお猫さまと合流せねばと、私は長い廊下を小走りで駆ける。
『ナイは時々抜けてるねえ』
私の肩の上でクロが呑気に声を上げ、後ろをついてきているヴァナルが『割と多い?』とぼやいていた。彼らの声に雪さんたちが『ナイさんですから』『そういう所も良いではないですか』『完璧な者などいませんからねえ』と褒めているのか、いないのか分からない声を上げている。
毛玉ちゃんたち三頭は私の姿を見て、これから楽しいことが始まるかもと期待に目を輝かせて小走りをしながら鼻タッチを求めてくる。そんな毛玉ちゃんたちの相手をしていると、お猫さまの姿を捉えた。
「お猫さま!」
『なんじゃ?』
私がお猫さまにお腹を診せてくださいと伝えれば、素直にお腹を差し出してくれる。この辺りは言葉が通じるので凄く有難い。喋れなくても通じている仔たちもいるし、通訳を担えるクロたちもいるので安心だ。お腹の仔は順調のようで日に日に感じる魔力が強くなっていた。どうか元気で産まれますようにと願っていれば、雪さんたちがふいに口を開く。
『竜の卵が孵るのも楽しみです』
『ええ。また竜の卵が孵る所が見られるとは』
『ナイさんのお屋敷は不思議がたくさんありますねえ』
雪さんたちがそう呟くのだが、ケルベロスでありフソウの神獣を務めている雪さんたちも不思議の塊ではと問い質したくなるのだった。






