1186:一大イベント間近。
――四月初旬。
王都のミナーヴァ子爵邸からアストライアー侯爵邸に移り住んで数日が経っている。ご近所さまにはハイゼンベルグ公爵邸とヴァイセンベルク辺境伯邸があるため、ソフィーアさまとセレスティアさまが通勤時間が減って有難いと申していた。
真面目なお二人は侯爵邸で働く時間が伸びて良いことだと解釈しているようであった。私的には早く家に戻ってご自身の時間を増やす方が良いのでは……と言いたくなる。でもセレスティアさまは通勤時間が短くなった分を、侯爵邸でのびのび過ごしているヴァナルと雪さんと夜さんと華さんと毛玉ちゃんたち三頭に、エルとジョセとルカとジア、ジャドさんとアシュとアスターとイルとイヴとお猫さまたちと一緒に過ごす時間にしているようである。ソフィーアさまは簡単な事務作業に勤しんでいるので、私がお茶を飲みませんかと誘っている。当主と一緒にお茶を飲むという行為は仕事と同じかもしれないが。
引っ越しを終えて一段落して、私は当主部屋の広い広いベッドの上でごろりと寝転がっていた。視界には目を細めながら私の顔を覗き込んでいるクロの姿が映っている。
ヴァナルと雪さんたちは床の上でまったりと過ごしているが、毛玉ちゃんたち三頭は冒険に出掛けてくると言わんばかりに速攻で部屋から出て行った。恐らく今頃はお屋敷のいろいろな場所の匂いを覚えている最中だろう。プライベートな空間――侍女の方や働いている方々の部屋――には勝手に入っては駄目だよと伝えているので問題ないし、覚えた単語の数も増えているので簡単な会話ができる。
ばっふばふに尻尾を振りながら毛玉ちゃんたち三頭が『はいりゅー!』『らめー?』『おきょる?』と上目遣いで聞いてくるものだから、つぶらな瞳に心を射止められる方が沢山出現しそうだった。
『広いねえ』
「広いよねえ」
クロが私の顔を覗き込みながらぐりぐりと顔を擦り付ける。器用なことをしているが、偶に起こることなので気にしない。
ヴァルトルーデさまも侯爵邸に引っ越しをしており、彼女の部屋を用意している。基本的な家具しか設置していないためかなり殺風景な部屋となっているが、暫くすればなにか物が増えているかもしれない。ジルケさまも頻繁に屋敷に顔を出すようになっているために、当然彼女の部屋も用意されている。そのうち北と東の女神さまの専用部屋もできそうだが、まだ早いと私は現実から目を逸らしていた。
『ディアンたちがこっちに遊びにくるんだっけ?』
「うん。落ち着いてからで良いから、お屋敷を見学させて欲しいって」
クロは私の顔にすりすりしていたことに満足したようで、寝ている私の肩に登りそのままお腹の上に移動した。ちょこんと私のお腹の上に座する姿は可愛いけれど、クロがぺしんぺしんと忙しなく動かしている尻尾が痛いときがある。
怪我を負うことはないし、我慢できる程度の痛みのためクロには伝えていない。偶に驚いて『ぺしん』が『べしんっ!』に代わって、私は痛い……と訴えたくなるのだが、驚いただけだと伝えるに至っていない。
『アリアとロザリンデもこっちに引っ越ししているし、お屋敷で過ごす聖女さまが増えてるねえ』
「だねえ。賑やかだけれど、敷地が広くなったお陰で前より人が少なくなっている気がする……」
侯爵邸で過ごす皆さまの数は増えているのに、敷地と建坪がやたらと広いためか廊下を歩いていても誰かとエンカウントする確率が低くなっていた。
『確かに子爵邸より静かかも。でも、そのうちまた賑やかさが戻るよ』
「クロさん、一体どういう意味で?」
ふふふと笑うクロに私は枕から少しだけ顔を上げる。私が顔を上げたことでクロは前へと進み、また顔をすりすりと機嫌良さそうに擦り付けた。
『ナイ由来の魔素が増えれば妖精たちが増えるでしょ? 春になったし恋の季節だよ~』
「クロの口から恋の季節なんて言葉がでるとは……」
私の言葉にクロが顔をすりすりしていたのを止めてお腹の位置に戻った。私も頭を枕へと戻して天蓋ベッドの天井を見る。クロが視界から消えてしまったけれど、私のお腹の上にはクロの熱が確かに伝わっていた。
『失礼だなあ~ボクだってちゃんと分かってるよ。まあ……ボクは単体で子孫を残せちゃうけれど』
「じゃあクロの仔供を見られるのはまだまだ先かな?」
私は頭を枕に戻したことで睡魔が襲ってくる。今日の執務を終えているし、午後からの予定もないから昼寝をしても問題はないだろう。力を抜いて目を閉じれば直ぐに意識が落ちそうになっていた。
『そうかもねえ』
くすくすと面白そうに笑っているクロの声が私の耳に届けば、深い眠りの中へと潜り込んでいるのだった。
◇
――凄い面子だな。
俺、エーリヒ・ベナンターと同僚兼友人であるユルゲン・ジータスは出向先の聖王国からアルバトロス王国に戻っている。外務卿であるシャッテン卿から届いた直々の手紙で俺たち二人は急遽母国へと戻ることになったのだ。
理由はお察し。ナイさまがミナーヴァ子爵領で執り行う新屋敷完成祝いパーティーを開くためである。ナイさまと縁の深い方々を誘っているため、諸外国から要人が大勢アルバトロス王国に集まるわけである。
時折行われている西大陸の各国の王さまが集まる会議の規模より小さいものであるが、ナイさまはとんでもない方々をお呼びしていた。
「亜人連合国の四名にアガレス帝国の皇帝陛下、フソウの大将軍……少々政治的思惑が強いですが聖王国の教皇猊下も。ヤーバン王にリーム王も名が連ねられて……」
ユルゲンが書類の束を見下ろしながら独り言のように呟いている。周りで彼の声を聞いていた外務部のみんなが『凄いよな』『侯爵はどこまで人脈を広げる気だ?』と首を傾げていた。
確かにナイさまはどこまで人脈を広げる気なのだろう。人どころか亜人連合国の皆さまや神さまにまで伝手がある。本当に信じられないが、目の前で亜人連合国の方と神さま方と話したことがある身としては事実と認める他ない。
「アルバトロス国内も陛下とハイゼンベルグ公爵閣下にヴァイセンベルク辺境伯閣下、リヒター侯爵閣下にフェルカー伯爵閣下……ラウ男爵さまも名を連ねていますが、元の爵位は伯爵。誘われていてもなんらおかしなことではないですしねえ」
「ああ。フライハイト男爵もくるし、本当に貴族の夜会としては異質なパーティーだ」
ユルゲンがまた紙の束に目を落として少し声を震わせながら参加者を読み上げた。普通、高位貴族が開くパーティーに子爵位以下の方たちが誘われることはない。もちろん例外はあるが基本誘われないのだ。
子爵位と伯爵位の間には目に見えない厚い壁があると聞く。まあ受け売りの言葉だし、本当かどうかを確かめたことがない。現にナイさまが開くパーティーではいろいろな身分の方が誘われている。女神さまも参加するかもしれないので本当に気が抜けないパーティーだ。
「まあ、だからこそ忙しいからと聖王国から呼び戻されましたが……僕たちも参加するなんて……エーリヒは爵位を持っているからまだマシですが、僕の場違い感が否めません」
確かにユルゲンの身分だけを見れば場違い感が半端ない。でも彼はナイさまと普通に話しているしジークフリードと仲が良いのだ。パーティーの参加者もナイさまと懇意にしていると察しているだろうから無下にはすまい。
だから自信を持てと俺は言いたくなるが難しいのだろう。ならば彼の気が少しでも紛れるようにと、紙の下の方に記されている面子を読み上げる。
「マルクスさまも参加するし、誰もいないよりマシだろ? ギド殿下も誘われているぞ?」
爵位を持っていない方も当然誘われている。俺の親父なんてナイさまに忘れ去られているようで、メンガー伯爵領の領主邸で大声を上げていたと母上から聞いている。
母上は父だと夜会の場で失態を犯しそうだから良かったと逆に安堵していた。俺はメンガー伯爵家から独立した爵位持ちだから、自分の道を確りと進みなさいと母からの手紙に書かれていた。
「そうですけれど……アストライアー侯爵に贈る品をなににしようかとまだ決めておりませんし……」
「それはユルゲンの実家を頼れば良いんじゃないか? というかナイさまはユルゲンの財布事情を分かっているだろうし、なにを贈っても馬鹿になんてされないぞ。それこそ王都で人気がある店の菓子を贈れば良いだろ」
ナイさまなら凄く良い笑顔を浮かべながら受け取ってくれるだろうし、美味い美味いと食べてくれる姿がありありと俺の脳内に浮かぶ。今なら女神さまも一緒に美味い美味いと言って食べてくれるはずだ。ユルゲンはそこまで考えられないようである。まあミナーヴァ子爵邸の中を覗く機会は少ないので致し方ないが。俺もチョコレートを贈るつもりだとユルゲンに伝えれば、彼はすぐさま嬉しそうな顔になる。
どうにか贈り物については解決しそうだなと笑みを浮かべて、仕事に取り掛かろうと気合を入れ直す。そうして他部署に書類を届けるために俺とユルゲンは外務部の居室から出て行く。
アルバトロス城の城内は凄く忙しそうな雰囲気に包まれている。今回の件では近衛騎士団と騎士団に果ては軍の皆さままで総動員となり警備計画を立てている最中だ。時間が押し迫っており、あとは警備に抜けがないかと最終確認段階にきているとのこと。外務部も忙しければ内務部も忙しいし、宰相閣下に連なる皆さまも右へ左へと駆け回っている。
「凄いな。城の中がこんなに慌ただしいのは初めて見たかも」
「ええ。王でもない侯爵位の方がこれだけの人物を集めていますからね」
俺が廊下を歩いていれば、俺より爵位の高い方たちが凄い勢いで歩き去って行く。廊下の端に寄って頭を下げているのだが、俺たちに構う暇はなさそうだった。
各国の王さまをナイさまの屋敷で開かれるパーティー参加だけで済ますわけにはいかないし、アルバトロス王国としても良い機会だから取引の持ち掛けやらを行う。廊下の端に寄っていた俺たちは先を急ごうとすれば、ぬっと横から誰かが顔を出す。
「本当に、本当に良いことです。引き籠もりのアルバトロス王国がこのように陽の目をみることになるなんて!」
「しゃ、シャッテン卿。どうなされたのです?」
誰かと思えば俺たち外務部の長を務めているシャッテン卿だった。彼もかなり忙しいはずなのに俺たちと喋っていても良いのだろうか。そんな疑問を他所に、驚いている俺たちにシャッテン卿は真顔になってゴホンと咳払いを一つする。
「そうでした。ベナンター卿もユルゲンくんもアルバトロス王国が各国から笑い者にされていたことを知らないのでしたねえ」
シャッテン卿が右手の人差し指を立てながら教えてくれた。ナイさまが大規模討伐遠征で竜の浄化を執り行う前のアルバトロス王国は西大陸の各国の王から『引き籠もりのアルバトロス』と揶揄されていたようである。
障壁頼りの国防方針が各国の陛下方には気に入らず、そしてアルバトロス王は各国の王より若いこともあり小馬鹿にされていたのだとか。国境沿いに展開されている魔術障壁はアルバトロス王国の魔術師が考えに考えたものであると聞いたことがある。
維持にも莫大な費用が必要だし、巨大で広大に展開されている障壁を維持できる魔力も必要なのだ。なんだか維持管理できない国の妬みにも聞こえてしまうのだが、俺の中でふつふつと湧いている気持ちがあった。
「話を聞いていると少しイラっとしてしまいました……何故でしょうか」
「それはアルバトロス王国を大切に思ってくれているからでは。良いことですよ。本当に」
俺の疑問にシャッテン卿が良い顔をして答えてくれ、ユルゲンも目を細めて笑っている。俺は地球からの転生者である意味余所者だけれど……アルバトロス王国の一員として役に立っていることを誇って良いのだろうか。
まだ答えは簡単にでないが、地に足を付けて根を張れる日がくると良いと願うのだった。その前に凄く大変であろう一大イベントに向けて、精を出さなければいけないけれど。