1153:後悔を胸に。
女神さまへの説明と聞き取りが終わって、ナイさまがフィーネさまと俺に東屋に行って茶でも飲んできて欲しいと言い残して客室から女神さまと共に出て行った。ナイさまが俺たちに声掛けする前にジークフリードが彼女の耳元でなにか伝えていたから、ジークフリードの提案かもしれないけれど。
一先ず、フィーネさまと落ち着いて話ができる環境にしてくれたことは有難いし、フィーネさまも同じ気持ちのようである。
しかし、ミナーヴァ子爵邸は本当に不思議な場所だ。廊下や部屋には妖精が飛んでいて、なんとなく屋敷全体が魔素に満ちている。もし俺の感覚が正解ならば、妖精と魔獣と幻獣が喜ぶ環境だし、ミナーヴァ子爵邸に彼らが集まる理由がついてしまう。
アストライアー侯爵邸に移って土地が広くなれば、更に魔獣や幻獣に、妖精たちが増えそうだと苦笑いになってしまった。俺の横を歩いているフィーネさまが不思議そうな顔をしているので、なんでもないと口を伸ばして笑い首を振る。
案内役の侍女に連れられて東屋に移動すれば、お茶をご用意いたしますと言い残して彼女が去って行く。少し離れた場所では聖王国の護衛と子爵邸の護衛の方が離れて俺たちの警護を務めてくれるようだ。
声量を落とせば彼らには聞こえまいとフィーネさまを導いて席へと腰を下ろして貰い、俺は立ったまま彼女の顔を覗き込む。もちろん、勘違いされない距離で。とはいえ、聡い方たちは俺たちの関係に気付いているのだろう。
「フィーネさま、大丈夫ですか?」
まだ少し彼女の目元と鼻先が赤いなと苦笑いになってしまう。もうすぐ十九歳を迎えることになり、前世の生きていた時間も合わせれば四十歳近くになってしまう。でも、人間はそう簡単に大人になれない所があるだろうし、ましてや女の子が過去に対して未練を断つのは難しいのだろう。
あのまま日本で生きていればやりたいこと……お洒落や遊びに旅行と沢山できることがあった。それを事故でいきなり失って赤子に戻ってしまった。俺も随分と自分の置かれた状況に混乱したから、フィーネさまもナイさまも困ったに違いない。
だから男の俺が確りしないと、と決意するのは傲慢かもしれないけれど、少しでも目の前にいる彼女の心を癒したいと願ってしまう。
「取り乱してすみません。ちょっと、後悔が出てしまったというか……溜め込んでいたものが爆発したというか、あはは……みんな同じ状況なのに私だけ弱音を吐いてしまいました…………」
フィーネさまが力なく言葉を紡ぐ。彼女の思いを聞いて俺は歯噛みをしてしまった。どうしてそんなことを気にするのだろう。だって、俺たちになら彼女が弱い所を見せても誰も文句や愚痴なんて言わないはずなのに。
「構いません。みんな状況を察してくれていたので、なにも言わずに待っていてくれました。フィーネさまも俺やナイさまが取り乱したら、きっと俺たちと同じ態度を取ったのではないかなと。それに弱い所を見せても良いじゃないですか」
同じ転生者なのだから、という言葉は飲み込んだ。フィーネさまも俺たちのことを慮ってくれているのだから、俺の気持ちだけを押し通す訳にはいかない。小さく長く、フィーネさまに分からないようにと息を吐いて心を落ち着かせる。
さて、どうするかと悩んでいると子爵家の侍女が紅茶と茶菓子の準備が整ったと声を掛けてくれる。俺は侍女の人にお願いしますと返事をして、フィーネさまと二人してお茶が用意されていくのをぼーっと眺めている。失礼致しましたの声にはっとして、フィーネさまを見ると彼女は力なく笑う。どう声を掛ければ良いのかと迷いつつも俺が彼女をリードしなければ、誰が彼女の手を取るのだと己を叱咤した。
「ナイさまも俺も……客室にいた人たちは、きっとフィーネさまが泣いてしまったことを失礼なことだとは誰も思わないはずです」
うん。これだけは言える。ナイさまもジークフリードもジークリンデさんもハイゼンベルグ嬢とヴァイセンベルク嬢も神さまの前で泣いてしまった彼女を責めやしない。
ナイさまは友人を馬鹿になんてしないし、むしろ泣いてしまった彼女のことを気に掛けてくれている。ジークフリードも同じでフィーネさまを慮ってくれているだろう。ジークリンデさんは少しわからないところがあるけれど、追い打ちを掛けたりする人ではないのは確実だ。
ハイゼンベルグ嬢とヴァイセンベルク嬢も貴族として立派に務めようとしているから厳しい所があるけれど、俺たちの事情を知っているので状況を正しく理解してくれている。西と南の女神さまも泣くなんてみっともないと苦言を呈することができたのに、それをしなかったのはフィーネさまに思う所があったからだと予想している。
「でも、エーリヒさまもナイさまも向こうに残してきたものがあるはずなのに……私だけ感情が高くなっちゃって……」
フィーネさまが深々と溜息を吐いた。でも、あんな荒唐無稽な話を聞いて感情が高ぶらない人なんて少ないだろう。俺が落ち着いていられたのは、好いた人の前でみっともない姿を晒すのは男としてできないという痩せ我慢だった。俺だけが女神さまとの話に参加していたなら、愚痴の一つや二つは零れていただろう。だって……。
「残してきたものや、後悔していることは当然あります」
残してきたもの、後悔していることはある。見られては不味いものはデータで保存しているから、機械に疎い両親に中身を知られることはないとして……まあ、肉親と友人と会社のひとたちにキチンと別れを告げられなかったことは後悔している。
俺は転生して新たな人生を手に入れて前に進むことができたけれど、彼らは俺の死に囚われていないだろうかと、ふとした時に気になってしまう。どうか俺のことに見切りをつけて、自分たちの大事な人生を歩んでいて欲しい。
フィーネさまも俺と同じことを考えて、心が切なくなったのならば少しだけ嬉しい……と考えてしまうのは傲慢なことだろうか。なににしても、彼女が反省する理由などこれっぽっちもないのではなかろうかと、ティーカップを手に取って一口飲めば、少し甘い紅茶だった。甘い紅茶なのに、俺の心はほろ苦いものを感じている。
「エーリヒさまも?」
「やはり、家族に別れを告げられなかったことは申し訳ない気持ちがありますよ。俺が急にいなくなって悲しんだでしょうし……」
フィーネさまがこてんと顔を傾げる姿は可愛いけれど、こんなことで幸せだと感じてしまう男って単純だ。俺のことは忘れて欲しいなんて言えないけれど、過度に俺に囚われないで前へと進んでいて欲しい。今の俺は俺の幸せだし、ちゃんと前の家族が普通の生活を送れているのかが凄く気になる。
「私も両親と弟と友達ときちんとお別れをしたかったです。事故で私が急にいなくなったことで、日常に戻れないのは違うと思いますし……テラさまにお願いして最後のお別れができないかなーなんて考えていると、心が凄く向こうを求めちゃって。向こうに行けないし、行っちゃならないってことは分かっているんですけれど……」
重い病気や老衰であれば家族も納得できたかもしれないけれど、働き盛りの社会人と学生だったならば家族の無念を考えると申し訳ない気持ちが湧いてくる。
「遠い未来かもしれませんが、なにか向こうと繋がれる方法があれば良いですよね。だってこっちには魔術や魔法がありますし、神さまだって存在していますから」
俺がフィーネさまの目を見て笑うと、彼女も小さく頷いて笑ってくれた。せめて声だけでも家族に届けることができたなら、それでようやく今いる世界に確りと足を立たせることができるのではないだろうか。一生叶うことはないかもしれないけれど、希望を持っていたって良いじゃないか。
「そう、ですね……いつかきっと……くると良いなあ」
フィーネさまが東屋から冬の空を見上げる。珍しく暖かい日で、冷たい風が少し心地良い。多分、きっと。かさぶたのような心の傷は、フィーネさまも俺も一生消えないけれど。いつか癒える日がくるようにと願わずにはいられなかった。
◇
女神さまとエーリヒさまとフィーネさまの乙女ゲームについての話を終えて、一先ず私室に戻ってきた。アリサさまとウルスラさまは、別館でアリアさまとロザリンデさまとのお茶会に花を咲かせていると侍女の方から報告を頂いている。
もう少し経てば、フィーネさまとエーリヒさまを回収して別館にお邪魔しようと決めている。今日は珍しく暖かい日だから、ジークの提案でフィーネさまとエーリヒさまを無理矢理に東屋に向かわせたけれど、二人は大丈夫だろうかと窓の外を見る。
私室から東屋は見えず、目の前には子爵邸の庭が広がっている。テラさまが御降臨して小さなクレーターができた場所は花を植え直してきちんと整備されている。庭師の小父さまの話によると、クレーターがあった所に植えた花の成長が早いとかなんとか。西の女神さまもテラさまと通信で済ませるつもりだったのに、母神さまのお茶目で凄いことになったものだと私は彼女を見る。
「大丈夫、かな」
「さあな。こればかりはあたしらじゃあ解決できねえし、自分自身で状況を飲み込むしかねえよ、姉御」
西の女神さまが声を上げ、南の女神さまがふうと息を吐いた。確かに過去との決別は自分で整理するしかない。私は孤児だったから両親も家族もいないので、転生したことをあっさりと受け入れたけれど……フィーネさまとエーリヒさまは大変だっただろう。
世界に馴染まないといけないのに、前世のことが気になってしまうのだから。思い出さないようにしても、ベッドに入って眠ろうとしてふいに過去が押し返してくることもあるだろう。
それを考えれば私は本当に残してきたものが少ないなと苦笑いになる。クロが私の顔を不思議そうに覗き込んでいるけれど、大丈夫だよと伝えるために片手をクロの鼻先に近づける。するとクロは私の手に顔を擦り付けて、グルグルと猫が喉を鳴らすようにクロも喉を鳴らしていた。
「末妹は淡泊」
「そうかぁ? 普通だと思うけどよ」
西の女神さまが南の女神さまに突っ込んでいるけれど、いつものやり取りなので放置で良いだろう。しかしフィーネさまとエーリヒさまを東屋に向かわせる提案をしたジークは目敏いというか、良く二人を理解しているというか。
やはりもう一度エーリヒさまをエルたちの背の上に乗せてフィーネさまを攫って貰うべきなのか。でも人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえと格言があるように、フィーネさまとエーリヒさまの恋路を邪魔するわけにもいかない。人間関係は難しいと一人で顔を顰めていると、真面目な表情で西の女神さまが私の顔を覗き込んでいる。
「ナイはフィーネみたいに泣かないね?」
「私は……残してきたものが少ないので」
前の世界に残してきたものが少ないということもあるけれど、貧民街で意識を覚醒して生きるか死ぬかの状況だったから、後ろを振り返る余裕なんてなかったという方が正解だろうか。
教会に保護されて、仲間も保護されるまでは本当にいっぱいいっぱいだった。ある意味大変だったけれど、前に進むしかなかったからその部分に関しては感謝している。本当は生きているはずの元の身体の持ち主には申し訳ないけれど……。テラさまの情報に寄れば、魂が抜けた身体に私たちの魂が入り込んだようだからなんとも言えない。
「元の世界より今の世界の方が大事なものが沢山あります」
私がそう口にして部屋の隅で待機しているジークとリンに視線を向けると、そっくり兄妹も小さく頷いてくれる。そんな私たちに西の女神さまと南の女神さまが小さく笑った。
「仲が良いね」
「本当にな。そのうち、くっついちまうんじゃねえか?」
くつくつ笑う二柱さまに、ひっつくと大変だから勘弁してくださいと笑い、そろそろフィーネさまとエーリヒさまを迎えに行って別館に遊びに行こうとなるのだった。






