1152:この世界について。
ジークフリードがアルバトロス城の官舎まで迎えにきてくれていた。俺は転移陣を使うこともないと王城の馬車を申請してミナーヴァ子爵邸に向かうつもりが、迎えを寄越しますとナイさまから提案されたので飲んだ形となる。
ジークフリードを俺の迎えに寄越したのはナイさまなりの気遣いなのだろう。変な所に気付く彼女であるのに、どうして大事な所をすっぽかしてしまう悪癖があるのだろうか。
ナイさま、一番肝心なことを女神さま方に伝え忘れていたなんて。
でもまあ……俺とフィーネさまに彼女を責める権利なんてありはしない。それなら俺たちが場にいてナイさまを補佐すれば良かったのだから。俺たちだって地球を創造したというテラさまと直接会ってマトモに話をできるかと言われれば、無理だと即言えるレベルである。
ナイさまだけを責められないなと子爵邸の客室で紅茶を飲んでいるのだが、西の女神さまと南の女神さまが同席しているのは何故だろう。確かに二柱さまは子爵邸で過ごされていると聞いているし、話し合いに参加する可能性もあるとナイさまから聞いていたけれど、本当に参加しているなんて。
西の女神さまの雰囲気は神さまの島でお会いした時より、凄く圧を感じなくなっている。ヴァレンシュタイン副団長とファウスト氏が作った魔術具を着けて、神圧を抑えているそうだ。
人間が作った代物で神さまの力を抑えられるって物凄く前代未聞の出来事ではないかと疑問を呈したくなる。でも、ナイさまもアルバトロス上層部も突っ込みを入れていないから、いろいろと感覚が麻痺してきているのではないだろうか。おそらく市場に流れれば、素材の価値と女神さまが付けていたという理由から天文学的な値段が付きそうである。
今、ナイさまの最期を聞いた所で、暴走した馬鹿な車がバスにぶつかって歩道を歩いていた彼女を巻き込んで死んでしまったようである。唯一の救いは、ナイさまに事故の記憶が殆ど残っていないことだ。痛いと苦しみたくはないのは誰でも一緒で、俺も事故の記憶はあまり残っていないし痛みも感じなかったけれど、気になることはある。
「バス事故で死んでしまった記憶は微かに残っています。死んだことに後悔はありますが……」
俺の方へと倒れてきた女の子は無事なのだろうか。せめてテラさまに直接聞ければ良かったのだけれど、機会を逸してしまったのだから諦めるしかないが、女神さま二柱が同席している状況で聞かずにはいられなかった。俺が言い淀んだことでみんなの視線が集まった。少し気恥しいが、口にした言葉は呑み込めない。
「俺の方へと倒れ込んできた女性の記憶が残っています。彼女は助かったのでしょうか?」
俺の言葉にフィーネさまがピクリと眉を動かした。えっと……浮気なんてしないし、単純に関わった人の行く末が気になっただけである。心配そうな顔をしないで欲しいと俺は彼女に小さく微笑んだ。
「どうだろう」
「母上殿にしか分かんねえだろうな」
西の女神さまと南の女神さまが答えてくれ、テラさまでも難しいのではと首を捻っていた。やはり分からないかと、妙な質問をして申し訳ありませんでしたと俺が頭を下げれば二柱さまは気にしなくて良いと仰ってくれた。
神の島で出会った時より、柔らかくなっている気がしなくもない。ナイさまのお陰かなと彼女を見れば、凄い形相をしてクロさまが彼女の顔を心配そうに覗き込んでいる。でも彼女は気に掛けているクロさまに気付かぬまま口を開いた。
「フィーネさま、エーリヒさま。どの辺りで事故に遭遇したのか覚えていますか? 私はM駅を西に向かって、特売で有名なスーパーを目指していました」
ナイさまがざっくりとした事故に遭遇した時間を教えてくれる。
「……え」
仕事帰りの夕方のバスに乗っていたのだが、M駅がバス停になっているし、そこから特売で有名なスーパーを通り過ぎる。でも事故に出会ったその日はスーパーを通らないまま事故に出会ったと伝えれば場が静まり返った。
俺とナイさまは同じ事故に巻き込まれていたのかと目を見開いていると、フィーネさまも落ち着かない様子でなにかを考えている。
「わ、私も同じバスに乗っていました。大学の午後のコマが終わって実家に帰ろうって。でも……急に衝撃を受けて、立っていた私は誰かにぶつかって……」
静かに声を上げるフィーネさまの声がどんどん感情的になっていた。ナイさまが彼女を気遣うように右手を伸ばしかけて途中で止める。フィーネさまは自分の最期を呑み込めず、溜め込んでいた可能性があるから吐き出すならば今しかないとナイさまは考えたのだろうか。
「死んじゃって……乙女ゲームの世界にきちゃったって気付いて……地球に……日本に私は帰れますか?」
彼女が泣きそうになりながら女神さまに向けた疑問を聞いて、俺は苦虫を噛み潰したような顔になる。確かに俺も彼女同様に日本に帰りたいけれど、テラさまが創ったという地球が俺たちが住んでいた元の世界とは限らない。
平行世界という可能性だってあるし、過去の俺たちが生きていた時代ではないかもしれない。それに死んだ俺が帰ってきたら、親族のみんなは驚くだろう。俺が死んでしまった心の整理を何年も掛けて落ち着いたのに、彼らの心を乱す可能性もある。でも、フィーネさまの希望を否定する権利は俺にはないと女神さまの方を見た。
「難しいんじゃないかな」
「姉御の言う通りだろうな。あまり無責任なことは言えねえし」
西の女神さまと南の女神さまが渋い顔をして教えてくれた。やはり戻るのは難しいかと俺は息を吐くのだが、フィーネさまは納得できない様子である。
「……そんな」
彼女が口を真一文字に結んで、湧き出てくる己の内なる感情に耐えていた。俺だって生きている途中でガラリと人生が変わってしまったことを悔いていないと言えば噓になる。やり残したことや、残してきた人にさよならも言えていないのだから。
でも、もう向こうの世界にはいられないから。新しい形として、エーリヒ・メンガーとして生まれたのだからと割り切れることができた。多分、ナイさまも俺と同じなのだろう。彼女から直接聞いたことはないけれど、食に対して異常に執着しているだけで他のことには全く触れていない。
ジークフリードやジークリンデさんに心配を掛けてしまうということもあるのだろうけれど、アガレス帝国に拉致されて転生者と知った時、ナイさまはこの世界に対して愚痴を一切零していなかったのだから。
「フィーネさま。大丈夫ですか?」
ナイさまが席から立ち上がって、フィーネさまの泣きそうになっている顔を覗き込む。西の女神さまと南の女神さまはなにも言わず、黙って状況を見守ってくれていた。俺もフィーネさまの下へ行きたいけれど、今はナイさまに任せよう。
「ごめんなさい」
フィーネさまが両手を膝の上に置いて肩を震わせていた。ナイさまは彼女の様子に気付いて背中に片手を置く。
「謝らなくても大丈夫です。ここにはアリサさまもウルスラさまもいないので、大聖女さまとしていなくても良いんですよ。ただのフィーネさまで良いんです」
ナイさまがフィーネさまの背を撫でながら、いつもより優しい声色で話しかけている。イクスプロード嬢と大聖女ウルスラさまがいないという言葉にはっとしたフィーネさまはついに涙を流し始めた。ナイさまはフィーネさまの背をずっと撫でるつもりなのか、彼女の側を離れない。
フィーネさまはナイさまがどこにも行かないことを理解したのか、うっと顔を上げてナイさまに抱き着いた。ナイさまの胸に顔を埋めてフィーネさまは泣き、ナイさまま困り顔を浮かべているものの彼女を受け入れ背に腕を回してゆっくりとまた撫でていた。
俺たちは転生者で同郷で仲間だけれど、言えないことの一つや二つあってもおかしくない。フィーネさまも残してきたご家族に会いたいだろうし後悔もあるのだろう。取り乱しても仕方ないし、部屋にいるみんなも分かってくれているのか彼女の泣いている姿を黙って見守るだけである。そうして暫く経ってフィーネさまがナイさまから顔を離して、照れ臭そうに口を開いた。
「ずみまぜん……ちょっと事態が呑み込めなくて取り乱しました」
ずびずびと鼻を啜るフィーネさまにナイさまがティッシュを差し出す。ティッシュを受け取った彼女は三枚ほど取り出して鼻をかむ。少しスッキリしたのか目元はまだ赤く腫らしたままだけれど、表情は先ほどより明るくなっている。ふうと俺は息を吐けば、ナイさまが少し困った様子で声を上げる。
「いえ。えーっと、少し休憩しますか?」
ナイさまが片眉を上げながらフィーネさまに問うと、彼女はゆっくりと顔を横に振った。どうやら女神さまとの話を続けるようである。
「この世界が乙女ゲームの舞台に似ていると、まだ女神さま方に話してないです」
フィーネさまがずびっとまた鼻を啜って女神さまの方を見れば、二柱さまは不思議そうな表情になった。どうやらまだ乙女ゲームの世界とは考えていないようで、ただ単に俺たちのことは地球からの転生者と認識しているだけである。
ナイさまにあの乙女ゲームの知識は皆無だし、フィーネさまが口火を切るのは辛かろうと、俺が話す方が良いだろうと小さく手を挙げる。ナイさまがどうしましたと問うてくれたので、話の主導を握るのは案外簡単だった。
女神さま二柱も俺の話を静かに聞いてくれるので有難い。むしろ荒唐無稽な話をするなと怒られるかと覚悟をしていたのに拍子抜けだった。そうして粗方、ゲームの説明を終える。
北大陸は例のゲームと伝えるのは心苦しかったが、言わなければならないことなので腹を括るしかなかった。西の女神さまは動じていなかったけれど、南の女神さまは少しだけ赤い顔になっていたのでその手の話は苦手な可能性がある。流石にもう話すことはないだろうし、俺が語らなくても西の女神さまと南の女神さまが他の神さま方に説明してくれるはず。
説明を終えた俺はふうと息を吐けば、フィーネさまとナイさまがお疲れさまですと小さく笑っていた。さて、女神さまはどう出るのだろうと二柱さまに顔を向ける。
「うん……あり得ないことじゃないのかな。父さんより母さんの方が格が上だから、無意識に母さんの記憶や願望が星に流れてきた可能性もあるし……」
「なんとも言えねえなあ。母上殿が、こんなことがあれば良いのにと願えば叶えることができるだろうからな」
俺の話を聞いていた西の女神さまと南の女神さまが悩ましい顔をして声を上げた。どうやらテラさまはグイーさまより力が強いようである。確かに星間移動ができる方となれば、物凄い力を持っているのだろう。そんな方と普通に会話をしていたナイさまは一体と彼女を懐疑な視線で見てしまう。……しかし。
西の女神さまと南の女神さまの推測を聞いてふとあることが思い浮かぶ。テラさま……エロゲプレイヤーなのか、と。






