1133:公爵領広し。
ハイゼンベルグ公爵家が所有している馬さんたちは利口なようで、素人の手綱裁きでも素直に受け入れてくれていた。時々、私が指示を失敗して間違えた手綱を取ってしまうものの、状況を判断していることと、公爵さまとソフィーアさまの会話をある程度理解しているらしい
言葉を理解しているという情報はエルとジョセから知ったことだが、公爵さまとソフィーアさまは嬉しそうな顔をしていた。ちなみに私が乗らせて頂いた馬さんは公爵家の皆さまの間で、温和で賢いと評判だそうだ。一先ず温和な馬さんから降りて、私は顔を合わせる。
「乗せてくれてありがとう。上手く乗れなくてごめんね」
私が温和で賢いという評判の馬さんと視線を合わせながらお礼と謝罪を告げれば、馬さんは顔を近づけて頬に鼻先を寄せる。撫でても大丈夫かなと私はゆっくりと右手を上げて、馬さんの頬に触れた。特に嫌がる様子もなく馬さんは目を細めながら受け入れてくれていた。エルとジョセのように本当に温和な馬さんだなあとゆるゆる撫でていれば、ジアに乗った公爵さまがやってきた。
「天馬に乗れたぞ、ナイ。言葉を伝えれば、直ぐに反応してくれる!」
凄く愉快そうな表情の公爵さまはジアが如何に凄いかを伝えてくれるのだが、鞍を付けないまま乗っている公爵さまの下半身はどうなっているのだという疑問が私の中で湧く。そういえばセレスティアさまも鞍なしでルカに乗って子爵邸の庭を駆けているし、西の女神さまも鞍なしでルカの背にのり未だに乗馬を楽しんでいる。
空を飛んでも良さそうなのだが落ちた時が怖いので、上空飛行は禁止令を出して貰っているので飛んではいない。とりあえず私は温和で賢い馬さんから右手を離す。
「公爵さまが楽しんでいるならなによりです。ジアも公爵さまを乗せてくれてありがとね」
公爵さまは私の言葉に笑い、ジアは小さく鼻を鳴らして問題ないと伝えてくれていた。エルとジョセも乗りたいと申し出た公爵家の面々を順番に乗せながら、広い放牧場を楽しんでいるようだった。
そうしてまた公爵さまとジアは私から離れて放牧場を駆ける。ジアの脚も十分速いなと感心していると、ルカがジアと並走を始めた。ルカの背に乗っている西の女神さまが公爵さまになにか話しかけると、ルカとジアの走るスピードが凄く上がった。自動車並みの速度を出しているようなと私が首を捻ると、腰に微妙な違和感を感じつつ更に問題のある個所を見つける。
「お尻が痛い」
皮は捲れていないと思うけれど、なんだかお尻がヒリヒリする。馬さんの動きに合わせて身体を動かしていたものの、やはり乗馬初心者にはお尻の皮問題は付きまとうようだ。私がぼやきながらお尻を撫でていると、そっくり兄妹が面白おかしい雰囲気を携えて私を見下ろしている。
「慣れないと痛いだろうな」
「身体の動きが硬いかも?」
ジークが苦笑いを、リンが少し真面目な顔をして答えてくれる。慣れればお尻の痛みはマシになるのか凄く疑問だが、爵位を頂いてから運動というものから遠ざかっている気がする。
「運動、あまりしてないからなあ……遠征も参加できていないし……」
食べても体重に加算されないし、運動しろとも言われない環境だから、本当に朝食べて執務を行い、お昼を食べて自由時間を過ごし、夜ご飯を食べて寝ている生活を繰り返しているだけだ。三年前まではいろいろと動き回っていたので、運動をしようなんて意識したことがなかった。
まだ若いから良いけれど、歳を取れば筋肉量が落ちてしまいそうである。子爵邸の庭を走るか、歩くかでも運動になるならやっておいた方が良いのだろう。
「散歩でも始めようかな。屋敷内で」
外に出ると大騒ぎになってしまうのが悲しい所である。来年の春になれば王都の子爵邸から侯爵邸へと引っ越すし、領地の方にも頻繁に向かうことになるので運動場の確保には困らないはず。
ジークとリンに剣技を教えて貰いながら運動という手もあるのだが、剣に付いてはそっくり兄妹の持ち場なので私が習うとなれば良い顔をしない。やはりウォーキングか走り込みだなと、ジークとリンの顔を見上げた。
「庭は広いから、早足で歩けば筋肉が落ちることはないだろうな」
「一緒に歩くよ。きっと楽しい」
ジークとリンの声に私はうんと頷けば、温和で優しい馬さんが群れの中へと戻って行った。群れの中にはまだ小さい仔もいて母馬の側で草を食んだり、他の仔たちとじゃれ合っている。時々、危ないことを仔たちがしていると大人組の馬さんたちが危ないよと止めに入っていた。小さな世界だけれど優しい場所だなあと目を細め、初冬の風が肌に触れて過ぎ去っていくのを暫く感じていた。
「ナイ、乗馬は楽しめたか?」
ソフィーアさまが乗馬服から普段着に着替えて戻ってきた。乗馬服も綺麗に着こなしていたし、普段着を纏っても公爵家の一員という雰囲気を微塵も壊していない彼女である。どんな服でも似合うのは反則だと私は苦笑いを浮かべた。
「はい。少しお尻が痛いですけれど」
「最初だけだ。直ぐに慣れる。しかし……祖父がすまないな。移動の時間なのに戻る気配がない」
私はソフィーアさまの疑問に正直に告げると、彼女は放牧場へと視線を変えた。ソフィーアさまの視線の先はジアに乗っている公爵さまである。先程行われていたルカとジアの競走は終わっており、今はゆっくりと歩いている。
「構いません。西の女神さまも戻ってくる気配がないので」
私は長く溜息を吐いたソフィーアさまを見ながら、ルカの背に乗っている西の女神さまを見る。移動時間は伝えているのだが、西の女神さまは時間というものにルーズな所がある。
きっと長い年月を生きているから、短い時間は全く持って気にならないのだろう。以前、西の女神さまに遅れたと感じる時間ってどのくらいですかと問うたところ『十年くらい?』と凄い単位で返ってきた。
生きている時間軸が全然違うなと呆れて笑うしかなかったのだが、予定の時間を十五分過ぎているのは女神さま方にとって些末なこと。まあ、そのうち戻ってくるだろうとソフィーアさまと気長に待つことにしたのだった。
公爵さまと西の女神さまとルカとジアが戻ってきたのは、それから三十分後のことである。
待たせてすまないと謝る公爵さまと楽しかったと満足そうな顔をしている西の女神さまがいたのだが、南の女神さまも馬さんたちと戯れていたし、セレスティアさまもこっそり馬さんたちと戯れていたようで時間が押していることは黙っておいた。
「では次ですな。ブドウ畑に参りましょう」
公爵さまの声でまた移動を開始する。馬車に再度乗り込んで放牧場からブドウ畑へと辿り着く、そそくさと馬車から降りればまただだっ広いブドウ畑が眼前に広がっている。
凄い広さに西の女神さまと南の女神さまと私とジークとリンは凄いなと感心しながら見ていた。私の肩の上に乗るクロも広いなあと感心しているし、お酒用のブドウを食べても美味しいのか気になるようである。ヴァナルと雪さんと夜さんと華さんもきょろきょろと周りを見渡しているし、毛玉ちゃんたち三頭も駆け出したい気持ちを必死に抑えていた。公爵さまが私たちの横に立ち、自慢の髭を撫でながら口を開く。
「少し前に収穫が終わって、今はブドウの木を休ませております。見ごたえはないでしょうが、屋敷に戻って領地の者たちが作った自慢のワインを飲み比べてみてください」
公爵さまの声に倣って、ブドウ畑を見てみると確かに実を全く付けていないし、葉っぱも元気がないような。おそらく春先になれば新しい葉が息吹いて花が咲き、受粉を経て実となるのだろう。
たわわに実ったワイン畑のブドウを見るのも楽しそうだし、農夫の方たちと一緒に収穫するのも楽しそうである。少し肌寒くなってきたこと、お昼の時間も近くなってきたことを理由に挙げてワイン畑からは直ぐに撤収することになる。
お屋敷の中に入ると少し体感温度が上がる。冬の気配が近づいてきているなと公爵さまに案内されながら食堂へ入った。暫く待っているとワインの瓶を持った男性給仕の方が何名か食堂へと入ってくる。
「女神さま方は酒が平気だと昨日に分かっておりますからな。ワシの自慢のコレクションです。どうぞご賞味ください」
そう告げた公爵さまのあとに給仕の男性がワインの説明を西と南の女神さまに始める。随分と昔に作られたワインではなく最近のものだった。そういえば古いワインは酸化して飲めないと聞いたことがある。
保存方法でその限りではないのだろうけれど、古いワインの方が価値があるという考えは公爵さまにないようである。
「ナイは紅茶が良いか? 温めた山羊の乳も出せるぞ」
「紅茶でお願いします」
公爵さまがにやりと笑う。私が身長の低さを気にしていることが彼にはバレバレなようである。とりあえず紅茶の方が用意しやすかろうと私はお茶を希望すると、なんだつまらんという顔をした公爵さまが侍女の方に命を出している。
そうして出された紅茶を一口飲めば、体の中が温まっていく。公爵さまは女神さま方と一緒にワインを楽しんでいるようだ。テイスティングをすると言いつつ、結構な量を男性給仕に望み注ぎ込んで貰っていた。
いろいろなワインが提供されているのに、西の女神さまと南の女神さまは全く顔色を変えていない。女神さま方のアルコール耐性はどうなっているのだろうか。ザルだと夜会で有利に立てそうだが、お貴族さまの世界で飲み比べをする機会なんて訪れるのか微妙である。
「ねえ、フランツ」
西の女神さまがワインの香りを楽しみながら公爵さまへと声を掛けた。公爵さまの名前を呼ぶ方をほとんど見たことがないので、凄く新鮮な光景だ。
「どうしましたかな、西の女神さま」
「なにか面白い話はないの?」
公爵さまに西の女神さまが無茶なことを飛ばしたような気がする。なにか面白い話をしろと言われても私なら困るだけだが、公爵さまはワイングラスを掲げて少し赤い顔を披露していた。
「ふむ。無茶を言いなさいますなあ。女神さまが気に入る話などなかなか見つかりませんぞ。ちなみにどのような話が良いのですか?」
「うーん……ナイの話は聞いたから、領地を発展させる時の苦労話とか興味ある」
西の女神さまのリクエストに公爵さまがなるほどと頷いて、グラスの中のワインを彼は一気に飲み干した。悪酔いしないか気になるけれど、私が酔い覚ましの魔術を施せば良いか。あと私の昔話は回避されたので安堵する。
「先代のハイゼンベルグ公爵は随分と奔放な方でしてなあ……」
先代ハイゼンベルグ公爵さまは確か、王族籍から抜けて数代経た方である。公爵さまと血の繋がりは一応あるけれど、少しばかり遠くなっていたそうだ。先代のハイゼンベルグ公爵は随分と領地の民の皆さまに負担を掛けていたようである。
戦時中ということもあったのか、馬を大量生産して調教もある程度で済ませて戦場に馬を送り込んでいたようだ。そうなると兵士や騎士の皆さまに迷惑が掛かるのは目に見えている。領地経営もダメダメだったので公爵さまの父、ようするに先々代アルバトロス王に訴えてハイゼンベルグ公爵家の皆さまを追い出して、自分が王族籍を抜けるからハイゼンベルグ公爵位をくれと願ったとか。
「まあ、兄ではなくワシを王に据えたい者もいたようですが、馬鹿の尻馬には乗りたくありませんでしたからなあ。好都合だった訳です」
なるほど。一国の王になることもやぶさかでなさそうな公爵さまが王位に就かなかったのは、当時、お馬鹿な狙いを付けていた方たちの勢いを落とすためだったようである。
頻繁に戦場に出ていた公爵さまの方が御しやすいと踏んでいたし、王都の皆さまからも戦場に赴かない第一王子殿下より、戦場に赴いて功績を上げてくる第二王子であった公爵さまの方が人気だったとか。
どっちにしろお馬鹿な方の計画は頓挫しそうなものだが、公爵さま的には面白おかしい状況になる方を選んだのだろう。本当に奔放な方であったが、領地立て直しは割と苦労したようだ。
当時、馬産地として税収を得ていた公爵領は戦争のお陰でそれなりに潤ってはいたものの、方々から苦情が相次ぐ始末である。入った苦情を捌きつつ、戦争は終わると踏んでいた公爵さまは馬産の仕事以外にもなにかしら特産品や工業製品を考えなければと悩んだ末にワインの生産に踏み切ったようである。
「ワシが酒好きということもありますが、納得できるワインができるまで随分と時間が掛かりましてな。試行錯誤の連続でした」
ブドウの収穫時期に醸成期間など、味や質に関わる部分で随分と悩みながら今の公爵領で作れるワインの製造方法を確立したそうだ。そして時間が経てば人力作業から機械作業へと変えるための研究も怠らない。ワイン造りの変遷を聞けたような気がして面白いと聞き耳を立てていると、西の女神さまも公爵さまの話が面白かったようである。
「フランツ」
「はい」
「ワイン、何本か貰って良い?」
「構いません。数に限りがありますが、何本でも持って帰ってください」
「ん。父さんにあげる」
西の女神さまの言葉に公爵さまは驚く顔を一瞬浮かべるが、直ぐに良い顔になって西の女神さまに向かって礼を執るのだった。