1131:痛い所。
客室から公爵邸の庭へと移動する際、毛玉ちゃんたち三頭が私たちを見つけて駆け寄ってきた。彼女たちに庭に一緒に行くか聞いてみた所、行く! とばっふばっふに尻尾を振りながら無言の返事を頂くのだった。
道案内を担う侍女の方が毛玉ちゃんたちに視線を向けてへなりと笑っていた。セレスティアさまと同族のお方だろうかと私は首を傾げるのだが、業務の邪魔をしては悪いとスルーを決め込んだ。
そうしてハイゼンベルグ公爵邸の庭へと出るのだが、その先にある筈の正門が見えなかった。本当に広いお屋敷だなあと周りに視線を向ける。丁寧に剪定されている木々や薔薇の花、季節の草花が綺麗に咲き誇っていた。私が見る限り花の品種は薔薇しかわからない。庭に植えられている木も木ということは分かるのだが、日本で良く見ていた松や杉ではないことは確実である。
「庭、広いね」
私が声を上げると肩の上に乗っているクロが周りを見渡しながら口を開く。
『広いねえ』
クロの声が聞こえると同時に毛玉ちゃんたちが先の見えない正門の方へと走り出した。雪さんと夜さんと華さんが『悪戯は駄目ですよ』『誰かを驚かすのもなりません』『直ぐ、戻ってくるのですよ』と声を掛けているのだが、毛玉ちゃんたち三頭はきちんと雪さんたちの言葉が聞こえているのかいないのか。飽きれば戻ってくるだろうと、私はクロからそっくり兄妹に視線を移す。
「ああ、凄いな」
「うん。迷子になりそう」
ジークとリンの言葉通り、庭は凄く手入れされているし、道を外れれば迷ってしまいそうである。私たちが迷えば公爵さまに大笑いされそうだ。あ、でも西と南の女神さまが一緒だから笑うのは我慢するかもしれないな。
公爵さまならどっちになるだろうと気になるが、十八歳にもなって迷子になり誰かに笑われるのは勘弁して欲しい。迷ってしまわないように気を付けようと、そっくり兄妹から視線を外せば花壇の中で極彩色の蝶が飛んでいる。
「てふてふが飛んでる。凄い色をしているけれど綺麗だね」
「姉御。それ、今の時代じゃあ通じねえぞ。ナイたちの顔を見ろ」
西の女神さまが仰ったてふてふってなんだろうと首を傾げていると、南の女神さまが突っ込みを入れた。どうやらてふてふは蝶々を差す古い言葉のようで、今の時代では廃れてしまったようである。
クロに知っているのと顔を向ければ『昔はそう呼んでいたねえ』と教えてくれ、西の女神さまが微妙な表情になる。
「え……なんだか胸が痛い」
まあ、言葉は移ろうものなので仕方ないといえば仕方ないし、分かっていたとしても使い慣れた言葉が口から出るものだ。そんなに気にしなくても良いのではと私が伝えると、西の女神さまはショボンとしている。
知らないことがあったなら覚えていけば良いだけの話である。落ち込んでいる西の女神さまを南の女神さまと私でどうにか宥めすかしていれば、薔薇園が見えてきた。
「薔薇は本当にお貴族さまに人気だね」
本当にどこのお屋敷でも薔薇が植えられて庭師の方が丹精込めて育てている。先日訪れた子爵領の領主邸の一角にも薔薇園があったし、ミナーヴァ子爵領の領主邸にアストライアー侯爵領の領主邸にも庭師の方が腕を振るっているそうだ。
「薔薇の種類も数千あるらしいな」
ジークの声に私は薔薇の種類を思い浮かべるが、花弁の色しか言えないなと苦笑いになった。趣味を極めると、ヴァイセンベルク辺境伯家で雇っている庭師の方が新品種を産み出しているようで、セレスティアさまに株分けして貰った黒薔薇が新品種で市場には出回っていないものである。
青薔薇が幻と言われるのはアルバトロス王国でもデフォで品種開発をしている方の最終目標だとか。花瓶に白薔薇を差し、水に銅貨を仕込んでおけば青くなりそうだけれど……切り花では価値は薄いだろう。やはり品種開発で青薔薇を産み出せば、一儲けできそうである。まあ、青でなくても赤、白、黄色に、桃色やオレンジに紫色にと薔薇園に咲き誇っているから十分楽しめる。
「紅茶に散らすくらいしか用途がない……」
リンが微妙な顔で呟いた。確かに時々紅茶の中に薔薇の花びらが添えられていることがある。以前、食用と勘違いして食べそうになり、侍女の方に慌てて止められたことがある。
刺身に付いている菊の花を間違って食べるような愚行を犯した私は割と恥ずかしかったのだが、アルバトロス王国のどこかでは間違えて薔薇の花びらを食べた方もいるに違いない。しかしリンは食べることにしか花に対して興味を抱いていないのだろうか。もしかして私の影響を受けているのかと彼女の顔を見上げる。
「薔薇風呂もあるよ、リン」
贅沢な女性貴族は美容のために薔薇風呂に入るのだとか。効果があるのかは知らないが、一時期流行っていたことがあると耳にしたことがある。私は薔薇の花は愛でるものだと考えているので、綺麗に咲いている花を千切ってお風呂に入れるのは少々頂けない。
レモン風呂とかもあるけれど、食べられるのにお風呂に入れてしまうのは勿体ない気持ちもある。もちろん、良い匂いがするしなんとなく肌がツルツルになるのは知っているけれど。
「でも食べられないよ、ナイ」
「確かに。食用の薔薇ってあるのかな?」
困り顔のリンに私が問いかけると、横からジークが声を上げた。
「極僅か、流通しているらしいぞ」
どうやら食用の薔薇は存在しているらしい。とはいえ大量に食べると、お腹を下すこともあるようだ。まだまだ改良が必要であり、開発陣は四苦八苦しているのだとか。食べられるようになれば貴族女性の間で流行るのではと考えているらしい。
「ジーク、詳しいね」
「なにかで読んだ記憶がある。なんだったか……」
ジークが微妙な顔になる。どうやら読んだ本の名前を忘れてしまったらしい。覚えていることが凄いのだが、ジークはまだ頭の中で本のタイトルを思い出そうとしているようだ。リンは無駄じゃないかなという表情で兄の顔を覗き込んでいる。私も私で悩んでいるジークの顔は珍しいと彼に視線を向けたままにしている。
「おーい。中、歩いてみようぜ」
「早く行こう」
薔薇園の中に入るアーチの側で南の女神さまと西の女神さまが私たちを呼ぶ。そうして中へ入れば色とりどりの薔薇の花が咲き乱れているのだった。
◇
――ナイは本当に美味そうに飯を食べる。
彼女は幼い頃から学んでいない所為か食事の所作はぎこちないが、ワシの判断では及第点だろうか。まあ彼女の隣で食べている西と南の女神さま方もカトラリーの使い方が上手いとは言い辛い。
我が家、ハイゼンベルグ公爵家に訪れるために、貴族の食事の所作をわざわざ学んできたそうだ。ワシの孫であるソフィーアに話を聞けば講師役はナイが主に担い、補助として孫とヴァイセンベルク辺境伯家の息女が付いていた。講師役を何故ナイにしたと盛大な抗議を入れたくなるが、女神相手にカトラリーの使い方を指導できる者など大陸に何人いるだろうか。そう思えば我が孫は真に面白……貴重な体験をした。
今は過去の話は置いておき、目の前で起こっていることに注力しなくては。
西の女神さまが我が家の領地を視察したいとナイと孫娘から連絡が入り、ワシは直ぐに構わないと返事をすることになる。西の女神さまが我が領地に訪れたとなれば、領地の経済が潤うことになるのは確実だ。
社交の場でも優位に立てることだろう。公爵位という家柄の所為か盾突く者が少なくて夜会は面白くないが、それならナイを見ていた方が愉快というものである。現に公爵領の領主邸にある食堂で女神さま二柱が食事に同席しているのだから。
我が妻は平常心を装っているが手元が微かに震えている。女神さま方の圧に押されているというよりは単純な緊張からくるもののようであった。ワシの興味に付き合わせてしまっているので、あとでなにか詫びの品でも渡すかと今度は息子に視線を向ける。
我が妻よりも緊張しているのが丸分かりで、その姿はどことなく孫娘のソフィーアに似ていた。彼の隣で夫人であるソフィーアの母親も硬くなっており、普段より食べる速度が遅くなっている。孫娘も参加しているのだが、彼女よりも婚約者であるリーム王国の第三王子のギドの方がガチガチだった。それでは料理の味など分かるまいと少し笑ってしまう。
確かに女神さまを前にすれば緊張するのかもしれないが、あまり緊張しすぎていても二柱さま方に失礼だろうとワシはタイミングを見計らい口を開いた。
「西の女神さま、南の女神さま、我が家の食事は口に合いますかな?」
ワシが声を上げると、西の女神さまと南の女神さまがこちらを向く。二柱さまはゆっくりとカトラリーを置き、膝上にあったナプキンを手に取って口元を拭った。
「うん。美味しい」
「ナイの家の飯も美味いけど、ここの料理も美味いな。少し魔素が低いのが難点か」
どうやら及第点は頂けているようである。柱の後ろに隠れてこちらを見ていた料理長が長々と安堵の息を吐いていた。良かったな女神さまに認められてとチラリと彼に視線をやると、帽子を脱いで小さく礼を執り調理場へと戻って行った。
ナイはワシと女神さまとの会話に耳を傾けているものの、食べ進めることの方が大事なようでナイフで小さく切った野菜をフォークの上に乗せて口に運んでいる。ゆっくりと咀嚼して料理の味を噛みしめているのは構わないが、もう少しこちらに意識を向けても良いのではなかろうか。
ナイの側ではいつも一緒にいるクロさまが果物を器用に脚で剥いて食べているし、床ではフェンリルとフソウの神獣と仔たち三頭がまったりと過ごしている。面白い状況なのに皆、揃いも揃って緊張し過ぎだ。ナイのように幸せそうに食事を摂れとは言わないが、もう少し肩の力を抜いても良いのではなかろうか。
「おや。子爵邸の料理人は我が家の料理長の弟子でした。ナイの屋敷で女神さま方を満足させているならば、我が家の料理長も喜びましょう」
西と南の女神さまがそうなのかと頷いて食事を進めているのだが、意識を殆ど食事に向けていたはずのナイがワシの顔を見ていた。どうやらナイは王都のミナーヴァ子爵邸の料理長が公爵家お抱えの料理長の弟子だと知らなかったようである。
ミナーヴァ子爵邸で働く者の経歴に目を通しているはずなのに忘れていたようである。全くとワシが呆れた顔を浮かべれば、ナイはバツの悪そうな顔をしてまたナイフで料理を切っている。
「そういえば、どうしてフランツはナイの後ろ盾になったの?」
西の女神さまがワシの名を呼べば、丁度ナイは食事を口に入れたタイミングだった。
「ぐふっ!」
「おい、ナイ。大丈夫かよ。汚ねえなぁ……ほら、拭いてやるから顔こっちに向けろ」
呆れた顔を浮かべた南の女神さまがナイに自分の方へと顔を向けさせて、ナプキンで口元を拭いている。女神さまになにをさせているのだと言いたくなるが、ナイだからこそできる代物なのだろう。さて、聞かれてしまえば面白おかしく皆に事実を伝えねばとワシは口元を伸ばすのだった。