1130:花の名前。
玄関先で挨拶を済ませて各々名乗りを上げ自己紹介が終わった。一先ず、旅の疲れを癒そうとアストライアー侯爵家一行は客室へと案内され、ゆっくり過ごしていてくれと公爵さまが言い残して部屋を出て行った。
王都のハイゼンベルグ公爵邸も広いけれど、領都にある領主邸は凄く……いや超絶広い。アストライアー侯爵家の領主邸も元は公爵位の方が住んでいたので随分と広いが、こちらの公爵邸の方が三割くらい広い気がする。
しかも比べた所も広いお屋敷なのだから三割という数字は随分とデカい。客室の窓から見える庭も凄く広くて、どこか外国の王宮を見ているようだった。エルとジョセとルカとジアは公爵邸の裏にある厩で過ごすことになっており、馬の皆さまに挨拶をすると言っていたのだが順調だろうか。
公爵さまが屋敷内であれば自由にして構わないとのことで、毛玉ちゃんたち三頭はさっそく屋敷内を探検してくると言って客室を出て行った。一応、誰かを驚かしたり迷惑を掛けては駄目だと伝えているので大丈夫なはず。ヴァナルと雪さんと夜さんと華さんは私と一緒の部屋でまったりするそうだ。ロゼさんもヴァナルのお腹の所でじっとしているから、移動は疲れたようだった。
そうして私に宛がわれた客室にはソフィーアさまとセレスティアさまとジークとリンと西と南の女神さまが集まっていた。荷解きは終わっているので、本当にまったりとしている最中である。用意してくれたお茶を頂きながら今日と明日の予定を聞いて、ソフィーアさまとセレスティアさまが席から立ち上がる。
「西の……いえ、ヴァルトルーデさま、ジルケさま、ナイ、今日一日は屋敷でゆっくりお過ごしください」
ソフィーアさまが深々と礼を執る。女神さまと同列に並べられるのはむず痒いが、最後に名を呼ばれたのでまだマシだ。おそらくソフィーアさまも意識して最後に私の名を呼んでくれたはず。
「ありがとう」
「あいよ」
西の女神さまと南の女神さまに宛てた緊急時用の名前は継続して呼ぶことになった。さま付けも不要と言っていたけれど、流石に身内ばかりがいる場所ではソフィーアさまも呼べないようである。
移動一日目の子爵領領主邸では結局彼らの前で女神さま用の名を口にすることはなかった。ただ寄り道して買い食いしていた時に女神さまたちはフラフラとどこか行ってしまいそうなので、名前があると普通に呼べるので便利であった。
私が女神さまたちの仮名を呼び捨てで呼んだのは致し方のないことだ。だって私は侯爵位持ちで私の名で移動していたのだから、私が一番偉いのに彼女たちにさま付けするってどういうことだとなってしまった結果である。もう公爵領に入ったので気にする必要はないと私はソフィーアさまの顔を見る。
「お気遣いありがとうございます。晩御飯、楽しみにしています」
私は再度ソフィーアさまと目を合わせると、彼女は小さく苦笑した。だって移動初日の子爵邸で出された料理は凄く美味しかったのだから、公爵家の料理人さんとあればプロ中のプロである。きっと沢山お料理を作って腕を上げて、公爵家の皆さまの好みにアレンジされていることだろう。やはり凄く楽しみだと笑えば、彼女とセレスティアさまが片眉を上げていた。
「料理長に伝えておこう。きっと気合が入る」
「気合が入るより、プレッシャーではないですか? まあハイゼンベルグ家の料理人ですもの。味は保証されているでしょうね」
お二人の言葉に苦笑いが零れた。料理人さんたちは職人だから料理を作ることに誇りを持っているはず。私の言葉一つで緊張するようなことはない。
クロとアズとネルも公爵家が提供する果物を楽しみにしているし、私も晩御飯は楽しみにしている。三年前なら緊張して残さず食べるだけで精一杯だったろうけれど、今ならお料理の味まで楽しめる。ふふふと私が笑っていると西の女神さまと南の女神さまもお二人へと視線を向けた。
「私も楽しみ」
「あたしも楽しみだな。南大陸でこっそり店に入って食ってきたけど、ナイの家の料理が一番美味かった。それより上ってどんなものか気になる」
女神さまに言われてしまえば、公爵家の料理人さんたちは超絶なプレッシャーを受けるのではと首を傾げる。ソフィーアさまも微妙な顔になるものの、流石に女神さまの言葉を否定はできないようだ。
「女神さまのご期待に応えられるかは分かりませんが……皆に伝えておきます」
「……大丈夫でしょうか?」
では、と言い残して部屋を去るソフィーアさまとセレスティアさまは次期公爵夫人と久方ぶりのお茶会に参加するとのことである。セレスティアさまも幼少期から面識があるようで、仲良くしているとかいないとか。
明日になると領地内の視察に赴くために今日しか時間がないとのことである。もう少し予定を長めに取っておいても良かった気がするが、滞在が長くなれば公爵家の負担が増す。きっと三泊四日くらいで丁度良いはず――それでも長い気もするが――だと、私はふうと息を吐く。
「しかし西の女神さまと南の女神さまは何故、案内された部屋ではなく、私の部屋にいるんですか?」
私が後ろを振り返ると西の女神さまと南の女神さまがソファーに深く腰を下ろして、くつろぎモードになっていた。
「一人は暇」
「同じく。ナイしか話し相手いねえしな。移動のお陰でソフィーアとセレスティアは随分とあたしらに慣れたみてえだが、他の連中だと緊張するからなあ」
確かに一人は暇だし、女神さまの話し相手を務められる方は少なそうである。教会に赴けば神父さま方が有難く女神さまの話を聞いてくれるだろうけれど、おそらく一方的に女神さまだけが語っているので話し合いにはならない。
もう移動の五日間で二柱さまと十分に会話を交わして話すネタはもうない。グイーさまはお酒を飲んで毎日グータラして幸せそうだが、テラさまに会えないことが寂しいと偶にぼやくとか、北と東の女神さまは面食いであるとか……聞いてはいけない家族事情まで知っている。暇だし、お茶を頂いて小腹を満たせたのだから晩餐会のため胃に隙間を空けておこうと私は二柱さまに向けて口を開く。
「庭に出てみませんか? 公爵さまは屋敷内の移動は問題ないと仰っていましたから」
図書室で読書も良いけれど、それだと南の女神さまが一時間も経てば飽きてしまう。西の女神さまは何時間でも引き籠もれるのだが、私も図書室でまったりと過ごすのは数時間が限界だ。ならば広い庭に出て花でも愛でようと考えたわけである。私には似合わないけれど、暇潰しにはなるはずだ。
「行ってみる。ナイの家の庭より凄く広いよね」
「噴水まであるしなあ。凄げえよ」
西の女神さまと南の女神さまが思い浮かべた王都のミナーヴァ子爵邸の庭と、目の前の窓から見えるハイゼンベルグ公爵領にある領主邸の庭を比べないで欲しい。お金と時間と人員を掛けているから、庭の隅々まで手が行き届いている。
もちろんミナーヴァ子爵邸の庭師の小父さまは真面目に働いてくれているし腕前も一流だが、やはり公爵家が雇う方となれば超一流の方なのだ。そもそも子爵邸は裏庭に家庭菜園があるという貴族のお屋敷として例外中の例外だもの。比べる行為がおかしいのである。
部屋に残ってくれていた公爵家の侍女の方にお願いをして、公爵さまに庭を散策したいと伝えて貰う。自由にして良いと許可を得ているが、勝手に移動すれば問題が起こるかもしれない。
なので侍女の方の帰りを待ってから部屋を出ようと女神さまと相談を済ませれば、割と直ぐに侍女の方が部屋に戻ってくる。
「ご当主さまに知らせて参りました。承知したとのことでございます」
侍女の方の声を聞いて私たちがソファーから立ち上がれば、ヴァナルと雪さんたちも一緒に庭に出るようですくっと立ち上がった。ヴァナルのお腹の所にすっぽりと納まっていたロゼさんはころころと絨毯の上を転がって私の足下にきた。
ふっと消えたのでロゼさんは私の影の中で庭を散策するようだ。クロが私の肩の上で『やる気があるのか、ないのか……ロゼは不思議だねえ』と声を零しているけれど、多分ロゼさんはなんとなく影の中に入っただけのような気がする。ロゼさんが消えたことに驚いた侍女の方が目を真ん丸に見開いていると、雪さんたちが彼女の足下にちょこんと座ってしっぽをゆっくり振っている。
『娘たちがご迷惑を掛けておりませんか?』
『妙なことをしていれば、遠慮なく叱ってくださいね』
『まだまだ仔供ですので悪さをしてしまいがちです』
雪さんと夜さんと華さんが侍女の方を見上げれば、彼女はひゃっと背筋を伸ばす。
「先程、神獣さまのお仔とすれ違いましたが、三頭の仔たちが仲良くならんで廊下を移動しておりました。すれ違う者に危害は加えてはいなかったので心配は無用かと」
侍女のお方が雪さんたちに向かって言葉を紡ぐ。緊張はしているけれど意思ははっきり伝えられるようだった。流石、公爵家が雇っている侍女の方だ。普通の侍女の方であれば緊張でなにも言えない可能性もあった。
でも、あの公爵さまを相手にしているのだから雪さんたちの相手なら難なく務められそうだ。だって公爵さまだし。とはいえ侍女の方がフソウの神獣さまと長く会話を交わすのは辛そうだったので、私は雪さんたちの隣に並んで彼女たちの頭を撫でる。目を細めながら私の手を雪さんたちは受け入れてくれていた。
「途中で毛玉ちゃんたちと合流できるかな……?」
途中で毛玉ちゃんたちと合流して一緒に庭に出れると良いのだけれど。雪さんたちの頭をひとしきり撫でていると、ヴァナルが片脚を上げて私の足をぺちぺち叩く。ヴァナルも撫でて欲しかったようで、空いている左手で彼の顔を撫でる。
「なにをしているんだろうね?」
「毛玉は好奇心、強いからなあ」
西の女神さまと南の女神さまの声を上げて、庭に行こうと私たちは部屋を出る。後ろにはジークとリンが一緒なので護衛は万全だ。公爵領でも邪竜殺しの英雄として噂が流れているようで、公爵領の街を移動していると領民の方たちからそっくり兄妹は指を指されていた。
二人が街中で人気者になっている姿を見るのは珍しいので、馬車の窓から彼らを見ていた私は少し誇らしかった。もう少しマトモな理由で竜退治をして欲しかった気持ちがあるものの、二つ名は二つ名である。顔が売れていれば有利に立てることが多いので悪いことはないだろう。
「ジークとリンは花の種類分かる?」
「図鑑で読んだ品種なら少しは」
「食べられるか、食べられないかの判断なら」
私の問いに答えてくれたそっくり兄妹の返事に案内役の侍女の方が微妙な顔になっていた。まあ貧民街出身だし、こんなものだよなと笑って庭へと連れて行って貰うのだった。






