1099:続・かちんこちん。
西の女神さまが以前大陸をウロウロしていた頃、赤子が生まれ抱かせて貰おうとお願いをすれば必ず泣かれたそうだ。それから苦手意識が染みついて小さい子供の前に立つ機会を減らしていったそうである。恐らく赤子は女神さまが発する圧に耐えられなかったのだろう。
現にユーリも大泣きしたのだから。でも泣かれたからと言って直ぐに撤退してしまう女神さまもどうなのだろうか。確かに親御さんに迷惑を掛ける可能性もあるのだから、第三者なら引いた方が賢明だが、彼女は女神さまである。大泣き状態でも抱っこをして『大きく育ちますように』と願えば、喜ばれたのではなかろうか。済んだことなので今更言っても仕方ないものがある。とはいえ引き籠もりの反動で西の女神さまは西大陸を闊歩する気満々だから、ユーリで慣れておいた方が良いのではと考えなくもない。
「抱いてみませんか?」
私は女神さまの足下で遊んでいるユーリに視線を向けると、直立不動のままの女神さまがどうにか口を開いた。
「む。怖い」
「首は据わっていますし、泣き止んでいるので大丈夫かと」
神妙な顔をしている女神さまに私は苦笑を浮かべると、クロが女神さまの肩の上で『大丈夫だよ~』と軽く声を上げる。これでユーリが泣いてしまえば西の女神さまのトラウマを更に深めてしまう可能性もあるので、無理強いはできないかと私は小さく息を吐いた。
「ユーリ。こっちにおいで」
私は絨毯の床にしゃがみ込んでユーリと視線を合わせる。彼女は少し考えたのち、手にしていた積み木を放り投げて私の方へとハイハイしてきた。短い距離だったけれど、呼べば彼女がきてくれることに感激しつつ私はユーリの脇に腕を回す。そうしてユーリを抱き上げて片方の腕は彼女のお尻の下へと回した。
ユーリは私の腕の中できょろきょろと周りを見渡しながら指を咥えていた。指を咥えることを止めさせたい気持ちもあるが、一歳くらいの子には早い気もする。でもしゃぶり癖がついたら……という気持ちもあるので悩ましいものだった。
彼女はジークとリンの姿を認めると『う~』と声を上げる。どうやらそっくり兄妹が気になるのか、手を伸ばしてなにかを訴えていた。ユーリ、ジークとリンではなく女神さまに興味を示すのは難しいのかと、私はユーリの視界に女神さまが映り込むように足を動かした。
「やー」
女神さまを視界に入れたユーリが妙な声を上げる。そうして女神さまが難しい表情をするため、二人の距離が縮まる気配がなかった。どうにも西の女神さまがユーリに対して苦手意識を抱いていることを、ユーリはきっちり認識しているようだ。これ以上、女神さまの赤子苦手意識が酷くなるのは不味いと判断して、私はユーリを乳母の方に預けて静かに部屋を出た。
「嫌われている」
部屋を出て直ぐ、女神さまの第一声だった。ジークとリンと私は女神さまを見て苦笑いを浮かべた。案外人間臭い所もあるのだなと、三人で顔を合わせる。しょぼんと落ち込んでいる女神さまにクロが『大丈夫だよ~』と励ましているのだが、女神さまは割とショックだったようで反応が薄かった。
「それは女神さまが苦手意識を持っているからかと。小さい子は大人が自分に向けている感情を読むことに長けていますよ」
「どうすれば良いの?」
私が赤子について語ると女神さまがばっと顔をこちらに向ける。ユーリだって初めて見た人……一柱に驚いて泣いただけだから、難しいことはなく要は慣れの問題だろう。毎日顔を突き合わせていれば嫌でも慣れる。
「もう少しユーリと関わる時間を増やしてみましょう。最初は泣いてしまいましたが、泣き止んで女神さまの存在を認めていたので、慣れれば問題なく一緒にいられるかと」
ユーリもユーリで一泣きすれば、あとはケロッとしていたのだ。明日、彼女が女神さまにどうのような反応を示すのかは分からないが、試す価値はあるはずである。それに魔力量の多いユーリで慣れておかないと、他の赤子に女神さまを会わせられない。苦手意識を克服するには荒治療が一番だろうと女神さまの顔を見上げる。
「赤子は赤子の期間が凄く短い……大丈夫かな……」
「お屋敷で過ごすなら毎日顔を合わせられますからね。きっと慣れてくれます」
心配そうな顔をしている女神さまに私は笑みを浮かべて、彼女に大丈夫だと言い聞かせるのだった。
――次の日。
また女神さまとユーリの部屋へと顔を出す。今日はアンファンも部屋にいたようで、西の女神さまを認めた瞬間凄い形相になった。私がアンファンに西の女神さまと紹介すると、南の女神さまではないことに安堵しつつきちんと挨拶をしていた。西の女神さまは十歳前後の子供にも苦手意識を抱いているようだが『よろしくね』と声を上げてホッとしているようだった。私はアンファンに気になることができたので、少し聞いてみようと口を開いた。
「アンファンは南大陸出身なので、南の女神さまが怖かったですか?」
「西の女神さまより感じる圧が強かったので、遠くから見ていることしかできませんでした」
アンファン曰く南の女神さまから放たれる圧よりも、西の女神さまから感じる圧の方が弱く感じるそうだ。アンファンが南大陸出身者ということをすっかり忘れていたことは申し訳ない限りである。思い出していれば南の女神さまと鉢合せしないように配慮できたはずだ。
私が謝るとアンファンは少し照れ臭そうに首を振る。以前の環境より良い暮らしをしているし、ユーリが無事に過ごして成長していることが嬉しいとのこと。最初こそアンファンは針鼠のように毛を立てていたけれど、最近は丸くなったものである。
子爵邸の大人組に混じってアレコレ学んでいるようだし、読み書きはマスターできて今は計算を勉強中なのだとか。サフィールの話では侍女の方に教えを請うて、ユーリの側付きになる勉強をしたいとか。
夢や目標があるのは良いことだ。誰かが言っていたけれど、目標があれば人は成長できるらしい。確かに緩慢に日常を過ごすよりも、なにか小さなことでも良いから目標を立てて進んで行けば毎日が充実しそうだ。
「アンファン……成長しましたね」
「サフィールさんのお陰です」
私が勝手に彼女の成長を喜んでいると、しれっとした顔でアンファンがサフィールのお陰だと少し胸を張っていた。確かに子供たちの成長はサフィールと託児所を任せている方たちのお陰だ。私一人では子供の面倒を見れないし専門知識も皆無である。
「末妹は不器用だから……怖がらせてごめん」
西の女神さまがアンファンに謝ると、謝罪を受けた本人がぎょっとした顔をしてぶんぶんと首を横に振った。アンファンは南大陸で聞いていた南の女神さま伝承を信じていたそうで、遠目で見ている限りは怖かったそうだ。でも危害を加えられていないし、貧民街にいた大人の方が怖かったと語る。
「アンファン。貧民街で暮らしていた頃の記憶は貴女にとって良いものではないはずです。でも過酷な環境で得た経験は必ず貴女の糧となるでしょう」
私の言葉にアンファンがゆっくりと頷く。少し説教の様になってしまうが彼女には伝えておきたい。アンファンは貧民街で生き延びるために人に言えないようなこともしてきたはずだ。彼女が成長して過去を悔やむことがあるかもしれない。
せめて自責の念に駆られて心が病んでしまわないようにと願うばかりだ。彼女にはユーリの侍女になるという目標があるから大丈夫だと信じたいけれど、嫌な記憶は突然フラッシュバックすることもある。
「過去を悔やむことがあるかもしれませんが、友人を沢山作ってくださいね。子爵邸にいると大人が多いのでアンファンには少し難しい環境ですが、託児所の子供たちもいます。きっとアンファンが大人になるにつれて、迷うことや困ったことがあれば良い相談相手になってくれるはずですから」
私の話を聞いている彼女は真面目な顔で聞いている。伝えた言葉の意味が全て伝わっているのか分からないけれど、せめて半分くらいは理解して欲しい。私もジークとリンとクレイグとサフィールがいたから貧民街から抜け出せた。
彼らがいなければ生きる意味なんてなかったし、早々に野垂れ死にしていただろう。アンファンにはこれから明るい未来が待っていて欲しい。もちろんユーリにも。
「すみません、あまりこのようなことを話す場ではないですね」
説教臭いことを始めたのは私なのに恥ずかしくなってきて、結局伝えることを止めてしまった。彼女に言いたいことは言えたので後悔はないけれど。早々にアンファンと話すのを止めて、私はユーリの下へと行き床にしゃがみ込む。
「ユーリ。女神さまに少しは慣れたかな?」
ユーリの小さな小さな手を握って、私は彼女と視線を合わせる。私の言った意味をユーリは理解していないのか、こてんと首を傾げてへにゃりと笑うだけである。なにが楽しかったのかは分からないけれど、昨日のようにユーリが西の女神さまの気配を感じて泣くことはなくなっていた。
「ナイ、私の扱いが適当」
「そんなことはないと思いますが……」
女神さまと私のやりとりに、ジークとリンはなにも言わず、アンファンも無言なのだが、乳母の方は『もう少し女神さまを敬っても良いのでは』と黙って心配をしているようだった。私は女神さまのことをきちんと扱っているはずなのに、ご本人から苦言を呈されるとは遺憾の意を表したい。とはいえ直接そんなことは言えない。
「では、どのように対応すれば?」
「…………やっぱり今のままで良い」
一先ず女神さまが望むことを聞いてみるのだが、彼女は片眉を上げながら少し考える素振りを見せて結局現状維持で構わないと告げた。女神さまの心境が掴み辛いなと首を傾げると、なんでもないから気にしないでと彼女が言葉をくれる。
私の側で遊んでいたユーリが絨毯に手をついてハイハイを始めると、女神さまの下へと近寄って彼女の足下で遊び始めた。女神さまはユーリが側に寄ったことで、凄く緊張しており、また直立不動になっていた。ユーリは将来大物になりそうだが、女神さまがユーリに慣れるのはまだ時間が掛かりそうだと私は苦笑いを浮かべた。
「ユーリ、可愛いのに」
アンファンが女神さまに聞こえないようにぼそりと呟いた。アンファンには女神さまがどうしてユーリを恐れているのか分からないようである。理由を説明しても良かったけれど、女神さまの過去を勝手に広める訳にはいかないので私たちはアンファンに伝えることを諦める。
ユーリの手が女神さまの足に触れると、ギギギと音が鳴りそうな勢いで女神さまがユーリを見下ろした。そうしてユーリと目が合えば、女神さまはぴゃっと彼女から視線を逸らす。暫くどころか一ケ月先も不安だなあと、私は小さく息を吐くのだった。






