1093:影響力。
西の女神さまとアストライアー侯爵が来賓室から先程去って行った。この場にいる私の叔父であるハイゼンベルグ公爵以外が、長い長い息を吐いて緊張を解いている。私も短く息を吐いて、心の臓の煩さを落ち着かせようと試みた。
アストライアー侯爵が神の島に赴いて、引き籠もっていた西の女神さまを部屋から出したと聞いた時は驚いたが、まさか女神さまが彼女の屋敷を訪れるとは。本当にアストライアー侯爵は規格外の人物であり、私の胃に負担を掛けてくれる。
もちろん彼女に悪気はないし、アルバトロス王国が発展し他国より優位に立てる状況だから文句などない。ないのだが驚かされるペースが早過ぎるため、もう少し頻度を落として欲しいと願わずにはいられなかった。
今日のことは私の長い人生の中で一番緊張し、一番驚いた出来事だなと、もう一度短く息を吐き、部屋にいる皆の顔を見た。王妃であるベアトリクスも、王太子である息子のゲルハルトも彼の妃であるツェツィーリアも、現第二王子であるライナルトも第一王女であるエルネスティーネも放心状態だ。
私の最側近である宰相も外務卿も内務卿も一様に魂が抜けた顔になっている。彼らの気持ちは理解できるから責める気はない。唯一面白そうに笑っている叔父上、ハイゼンベルグ公爵の肝が据わり過ぎなのだ。
もしかしてアストライアー侯爵が叔父上に助け出されていなければ、今現在起きていることはなかったのかもしれないと妙な考えが浮かぶ。しかし今のアルバトロス王国は歴代で一番、西大陸で名を馳せているし、元から友好的だったヴァンディリア王国、リーム王国と、アストライアー侯爵が切っ掛けを作り外交が始まった亜人連合国とアガレス帝国と共和国と神聖ミズガルズ大帝国との縁が強くなっている。妙なことを考えるのは止めようと、気分を変えるためにもう一度皆の顔を見た。
「どうしてアストライアー侯爵は普通に女神さまと話せるのだ……」
これが私の心からの本心である。西の女神さまはアストライアー侯爵の依頼により、ヴァレンシュタイン魔術師団副団長と魔術師ファウストが作った魔術具を身に着け『神力』を下げている状態だと聞いている。
それだというのに女神さまの神々しさや特別感は我々人間と一線を画すものであった。本来は私から口を開くべき所を、女神さまの威光に気圧されて喋ることができずにいた。私も叔父上のように割り切ってしまった方が良いのだろうかと彼に視線を向ける。
「ナイだからなあ」
叔父上は私に良い顔を向けて笑っている。そして他の面々が叔父上の態度に少し引いていた。
「公爵、それで済ませようとしていないか?」
叔父上は全てアストライアー侯爵だから、と笑い飛ばすつもりでいるらしい。仮にアストライアー侯爵がアルバトロス王国に不利益を齎すならば、叔父上は彼女を諫めるなり止めろと命を下すだろう。
彼女も叔父上の命には逆らわない。個人の実力ではアストライアー侯爵が勝っているのだが、叔父上には恩があるようで彼の命を忠実に守る。彼女は私の命令も守るのだが、おそらく叔父上の言葉より弱いだろう。まあ、アストライアー侯爵は叔父上にしか御せないので、彼には確りと彼女を監督して貰わねば。
「はは! そんなことはありませんぞ、陛下」
笑う余裕があるのならば、先程助けてくれても良かったのではと文句を言いたくなるが、あの場では私が主導すべきだったのだ。本当に私の力不足、いや、胆力不足だったなと痛感してしまう。
「しかし、西の女神さまに困れば頼ると最後に言われたが……我々を頼ることなどあるのだろうか」
私はまた短く息を吐く。アストライアー侯爵にできないことがあれば、我々を頼って欲しいと女神さまに願い出たものの、神という特別な存在が困ることがあるのだろうか。おそらくなんでもできる方だろうし、なんでも知っている方である。私の言葉は失礼だったかもしれない。
「おそらくないでしょうね。女神さまなりの我々に対しての気遣いだったのでは?」
宰相が苦笑いを浮かべながら答えてくれる。やはり女神さまが我々を頼ることはないだろうと一人納得する。
「ですが、アストライアー侯爵から女神さまに頼まれたと連絡が入るやもしれません」
「即応できるように、気を抜かない方が良いのかもしれませんね」
内務卿と外務卿が真面目な顔で告げた。確かに女神さまからではなく、アストライアー侯爵からなにかしらお願いが奏上されるかもしれない。その時は我々は全力で女神さまに失礼のないように行動を起こさなければ。
せめて西の女神さまの人となりがアストライアー侯爵から報告が上がれば良いのだが、今の所はこれと言ったものはなかった。南の女神さまは食べ物に興味を示して、美味しい品に目がないと報告で知っているのだが。女神さまがアストライアー侯爵の下で過ごす時間が長くなれば、性格を知ることになろう。本当に歴代の西大陸各国の王の中で神の対応を迫られた者は何人いるのだろうか。
またしても短く息を吐くと、機を伺っていた王太子であるゲルハルトがおずおずと手を挙げる。私はどうしたと彼に頷いた。
「へ、陛下。仮の話、仮の話です。陛下が退位されたあと跡を継げば、女神さまのお相手は私が務めることに?」
口元を引き攣らせながら私の長子が問う。
「もちろんだ。アルバトロス王として失礼のないようにな」
息子よ、こんな言葉しか贈れない私を笑ってくれ。ゲルハルトであれば西の女神さまとも問題なく面会できるだろう。三年前、亜人連合国に赴いて修羅場を潜ってきたのだから。今回……いや、未来の息子は立派にアルバトロス王として務めを果たしてくれるはず。
そしてアストライアー侯爵とも付き合いが続いていくはずだから、建国祭の時には彼女からの贈り物に気を付けろ。彼女は貴族位を得てから毎年私と王族へ献上品を贈ってくれるが、とんでもない代物であることが多い。初めての時は本当に焦った。亜人連合国のドワーフが本気を出して鍛えた剣だったのだ。次の年から少し抑えられた品になってはいるが、それでも市場価値は随分と高い物である。
「ツェツィーリア……私と一緒に頑張ってくれるかい?」
ゲルハルトが自身の妃であるツェツィーリアに声を掛けた。彼女は少し困惑しながら口を開く。
「が、頑張りますわ、殿下」
ツェツィーリアはアストライアー侯爵に願い出て妹の傷跡を治して貰った過去がある。侯爵は治すことはできなかったが、別の者、アリア・フライハイト男爵令嬢が治していた。
侯爵が治すことはなかったものの、いろいろな条件が重なってミナーヴァ子爵邸へと赴いたのだからアストライアー侯爵とは顔見知りである。上手く縁を取り持つことができるなら、彼女にも、また彼女の母国にも益を齎してくれるはず。
彼女の母国であるマグデレーベン王国は酪農が盛んで乳製品が有名だ。それを彼女から聞きつけた侯爵がチーズを取り寄せているとか。美味しいチーズを紹介したのが確か、ツェツィーリアだったはず。侯爵は割と小さなことでも覚えているから、悪いようにはしまい。私はこれからも世話になるであろう部屋の者たちに、よろしく頼むと伝えて部屋を後にするのだった。
◇
女神さまと一緒に元来た道を戻る。魔術師団の隊舎前には副団長さまと猫背さんに数人の魔術師さんが立っていた。私たちに気が付くと彼らは距離があるというのに丁寧な礼を執っている。そうして彼らの下に辿り着けば副団長さまと猫背さんが半歩前に出てもう一度礼を執った。
「女神さま、アストライアー侯爵閣下、よくお戻りくださいました」
副団長さまが頭を上げてから言葉を紡いだ。猫背さんは対応を副団長さまに任せて黙って見守るようである。
「ん」
「お待たせしました。魔術はどこで習いますか?」
女神さまが凄く短い返事をしたので、私はこれからどこで魔術を女神さまから習うのだろうと聞いてみる。女神さまが教えてくれる魔術だから、凄い威力や効果がありそうだ。生半可な施設だと壊れてしまいそうだし、若干魔術師団が使用している訓練場でも怪しそうである。副団長さまは私の言葉に『よくぞ聞いてくださいました!』と言いたそうな顔をしながら口を開く。
「その件を相談したくて、こちらで待っておりました。座学だけなら応接室で、実技があるならば訓練場で行った方が良いでしょう。どちらがよろしいでしょうか?」
ふふふと笑みを深める副団長さまに私は楽しそうだなと普通の感想を抱いてしまうが、今は女神さまに話を聞かなければならないので私は彼女と視線を合わせた。
「女神さま、今日はどのような形を取るのですか?」
「君たちがどれだけ魔術を使いこなせるか、によるかな」
「副団長さまは攻撃魔術であればアルバトロス王国随一の腕前かと。ファウストさまは術式開発に特化された魔術師ですね」
どうして私が女神さまと話をしているのだろうか。本来は副団長さまと猫背さんが報酬の代わりに女神さまから魔術を教わるという話だったのに。私は女神さまの付き添いという形で登城したのに、通訳……ではないけれど通訳の方の真似事をしている。
「ナイは?」
「私は魔力量に任せた治癒と身体強化が基本です。身に危険が迫れば攻撃魔術を使いますが」
私は治癒が基本の聖女だし、身を守るのは騎士と軍人の方々の仕事である。
「みんな、魔術は使えそうだから実地かな」
女神さまの声に副団長さまが良い顔になる。どうやら講義を聞くよりも実地で実践の方が彼の望みであったらしい。猫背さんも嬉しそうな顔をしているので、魔術を使うこと自体が楽しいようだ。そして副団長さまと猫背さんの後ろに控えている魔術師の方々が、自分たちも参加して良いのだろうかと迷った顔をしている。私は仕方ないかとまた顔を上げ女神さまと視線を合わせた。
「あと他の方が女神さまの講義を聞くのは駄目ですか?」
「問題ないよ。隠すようなものではないからね」
女神さまからあっさりと了承を頂けた。ちょっと肩透かしのような気もするが、女神さま的には隠すことでもないらしい。そういえば魔導書も秘して欲しいとは言われなかったし、彼女にとって魔術は身近にあるものなのだろう。
「もう一つ聞いても良いですか?」
私の声に女神さまが頭の上に疑問符を浮かべた。
「ジークとリン、魔力を身体強化に使っている方も女神さまの話を聞けば、今より強くなれるのでしょうか?」
「あ、そっか。昔と違って魔力を身体に回している人が多くなっているんだった……効果はあるのか分からないけれど、助言ならできるかな?」
私の疑問に女神さまは疑問形で返事をくれる。ジークとリンに効果があるのか分からないけれど、なにか新しいことを覚えられたら良いなと副団長さまと猫背さんと魔術師の方数名に女神さまとアストライアー侯爵家一行は訓練場に移動するのだった。






