1087:変化の仕方。
権太くんの西の女神さまに渡した笛は本物だったようで、彼女曰くまだ消えていないらしい。女神さまは葉っぱに戻ることを期待して彼から貰った笛をじっと見つめていたのだが、一向に戻る気配がない。
権太くんは笛をお土産として渡したかったものの、笛は一本しか持っていなかった。でも女神さまと私に渡したい。それなら一本は笛に擬態させれば解決すると考えたのだろう。そして擬態させた一本は私に渡せば問題ないと考えたようである。可愛らしい悪戯だから問題はないけれど、なんだか女神さまと扱いの差を感じてしまった。でもまあ妖狐の彼からすればただの人間よりも、神さまと仲良くしたいのは当然で。頂けただけマシである。
松風と早風がいないことに慣れぬまま、フソウから戻って二日が経っていた。
今日の午前中は執務を執り行って午後からは自由時間だ。ジークはエーリヒさまと緑髪くんとお昼から遊びに行く予定だ。執務室に護衛として就いているジークの顔を見て早く執務を終わらせねばと気合を入れる。
お仕事を真面目に頑張って、領地の方々やアストライアー侯爵家の皆さまが潤うようにしなければとピカピカに磨かれている執務机に視線を向けた。カリカリと書類にサインをいれて印を押す。家宰さまとソフィーアさまとセレスティアさまは優秀な方たちなのでざっと目を通せば構わないが、大事な内容や決裁が必要な物には必ず目を通していた。
特に問題はなく、私が発案している新規耕作地と灌漑設備は充足しているし、溜池の新規設置も人手が確保でき次第開始されるようだ。あとはアストライアー侯爵領の領都の発展である。
なにか商業施設でも作るかと考えてはいるものの、農業が主体の領地が栄えるには少々難しい課題となっていた。執務室にいるお三方は私が当主であったなら勝手に栄えていくとおっしゃるが、なにか手を出してみたい気持ちがある。食べ物関係のお店を出店しても良いけれどアルバトロス人と私の味覚が合うとは限らない。現に私が美味しい日本食を紹介しても、彼らの口に合わないことが多々あった。
なので食べ物関係以外のお店を考えているのだが、なにも思いつかないでいる。機械関係の伝手もないし、鍛冶の知識もない。馬産地はハイゼンベルグ公爵領で担っているので被るのは控えたい。
私が難しい顔をしているとクロが私を覗き込んで顔をすりすりしてきた。ついでに尻尾で背中をてしてし叩いている。一先ず深く考えるのは止めようと家宰さまに私は視線を向けた。
「聖王国の今現在はどうなっているのですか?」
フィーネさまから頻繁に手紙を頂いているものの、彼女は聖王国上層部と関わりを断っている。もちろん先々々代の教皇さま――名前を聞いたけれど忘れた。シュヴァなんとかさんだった気がする――や教皇猊下から内情を聞くことができるだろうけれど、伏せられている情報もあるはず。
アストライアー侯爵家として密偵を送り込んでいるから、家宰さまがフィーネさまとは別の情報を掴んでいるかもしれないと聞いてみたのだ。
「聖王国上層部では西の女神さまがご当主さまの家に滞在していらっしゃると噂が広まっているようです。教皇猊下が諫めてくれているようですが、妙なことを考える方がいそうなのがなんとも……」
家宰さまは困った表情で私の質問に答えてくれる。ソフィーアさまとセレスティアさまは仕方ないことだが、厄介事だけは持ち込んでくれるなよという雰囲気だ。情報統制はお願いしてあるものの、人の口に戸は立てられないため女神さまの噂が流れることは覚悟していた。
「女神さまが目的で子爵邸を訪ねてきた方がいれば、門前払いでお願いします。女神さまには可能性として説明しておいたのですが、崇められるのは好きではないとのことだったので」
むうと妙な顔になるのが分かる。おそらく聖王国は西の女神さまが引き籠もってから女神さまの崇拝を始めたのではないだろうか。彼女が引き籠もりを開始しなければ別の形で女神さまが讃えられていたのだろう。
宗教として女神さまを崇めたのは悪手だったようだが、今生きている方たちには関係のないことである。女神さま的には『尊重してくれるのは有難いけれど、過剰過ぎるのは苦手』と仰っていた。
そうなると教会で卒倒しかけた方がいたのは不愉快だったのではと問えば、一応成り立ちは理解しているから諦めたとのこと。グイーさまの力を抑える方法と魔術具で女神さまの神力はマシになっているが、彼女が醸し出す雰囲気は半端ないものだ。普通の方が見れば尋常ではないお方と直ぐに判断できるから、街の中に出たら大変なことになりそうである。今の所、アルバトロス王都を見て回りたいと仰らないことは私にとって救いだった。
「聖王国の意義が……」
「飛んでいませんか、ナイ」
ソフィーアさまとセレスティアさまが凄く微妙な顔で問いかける。確かに聖王国の意義が吹き飛んでいるけれど、千年以上信仰が続いているなら本物なのだろう。私はさっぱり興味が沸かないけれど、心から女神さまへの信仰を向けている方を馬鹿にできる道理はないのだから。
「確かに意味や意義は薄くなっていますが、大聖堂は一般の方たちの心の拠り所ですから。聖王国上層部の方には馬車馬の如く頑張って頂かないと」
心の拠り所を女神さまは無下に潰す気はないとも仰っていたのだから、多分きっと大丈夫だ。聖王国の神職者が腐っていたことには怒るかも知れないが。あれ、でも女神さまからの鉄槌が下れば心を入れ替えてくれる可能性もあるのか。腐った神職者の方へ女神さまの鉄槌が下れば、今度こそ西大陸全土の皆さまから聖王国が見放されそうである。そうなりませんようにと心の中で手を合わせて、私はもう一度口を開いた。
「聖王国には申し訳ないのですが、彼の国より自領地に目を向けないと」
私が話題に上げたので、その台詞はないだろうとツッコミが入りそうだ。
「それは、当然ですね」
「だな」
「ですわね」
家宰さまとソフィーアさまとセレスティアさまから同意を頂けた。そうしてまたいつものメンバーで執務に取り掛かり、本日の執務を終える。ふうと息を吐いてお互いに『お疲れさまでした』と声を掛け合って執務室を後にする。部屋を出て廊下をジークとリンと私で歩くなり、後ろを振り返り背の高いジークを見上げた。
「ジーク、時間は大丈夫?」
約束の時間に遅れるのは失礼にあたるし、通信機器が発展していないからお互いに連絡を取りづらい。スマホがあれば簡単に連絡を取って伝えられるのだが、遅れる旨を直ぐに伝えられる日がくるのは何百年後だろうか。
「ちゃんと余裕はある。そんなに心配するな」
ジークは私の顔を見下ろして小さく笑う。お互いの部屋に一度戻って時間を潰しジークの見送りをするため、私とリンは玄関先へと向かう。自室でまったりしていたヴァナルと雪さんと夜さんと華さんと楓ちゃんと椿ちゃんと桜ちゃんも一緒にジークのお見送りをするそうだ。
暫くすると私服に着替えたジークが階段を降りてきた。学院生時代より落ち着いた雰囲気の服を着るようになっている。リンも私も同様に落ち着いた色を好んでいるし、クレイグとサフィールも派手な服は好んでいない。もしかすれば幼馴染組の特徴なのかもしれない。
「いってらっしゃい、ジーク。気を付けてね」
「兄さん、楽しんできて」
リンと私が玄関前でジークに声を掛ければ『子ども扱いするな』と言いたげに彼は苦笑いを浮かべていた。確かに玄関前での見送りはやり過ぎかもしれないが、まあ偶には良いだろう。
アズも一緒にジークと遊びに出掛けるようで、騒ぎにならなければ良いなと願う。扉を開けてお屋敷から出て行くジークの背を見ていれば、蝶番の音が鳴り響きながらぱたんと扉が閉まる。さて、と私は横に立つ彼女へと視線を向けた。
「リン、なにかして遊ぼう」
私がリンに顔を向けると彼女がへにゃりと笑う。西の女神さまは図書室に引き籠っているのだが、そろそろ読む本がないとのことだから、許可を頂ければお城の図書館にでも案内しようと考えている。
「ユーリの所に行かないの?」
「時間があれば行くけれど、今はリンと一緒にいたい。邸の中限定になるけれど、どこかでゆっくりしようよ」
リンと一緒に過ごす時間は減っているし、二人になるのはお風呂と一緒に寝た時くらいだ。偶には良いだろと提案してみるが、外に私が出れば沢山の護衛を就けなければならないので子爵邸内限定だけれども。割と広いのでいろいろと回ってみるのも楽しいだろうか。
「じゃあ、裏庭の畑に行こう。最近、野菜をディップ? して食べるのが美味しい」
リンは最近お野菜を切っていろいろな種類のタレに付けて食べるのがマイブームになっているようだ。裏庭の家庭菜園で採れたお野菜は美味しいし、ディップすることによりさらに味を引き立てる。
きゅうりさんは夏野菜だから今の時期に無理だけれど、他のお野菜さんが実っているはず。トマトさんにお塩を振って食べるのも好きだけれど、これまたトマトさんは夏野菜である。晩秋に収穫できるお野菜さんってなにがあっただろうか。さつまいもさんとかぼちゃさんくらいしか思いつかないなと苦笑いを浮かべてリンをもう一度見上げた。
「良いね。料理長さんにお願いして何種類か貰おうか」
「うん」
私の声にリンが頷くと、今まで黙って見守っていたクロが口を開く。
『仲が良いねえ。良いことだよ~』
嬉しそうなクロの声に反応して、ネルがリンの肩の上から私の肩に飛び乗ってクロと並んだ。狭くないか心配になるが、ネルは機嫌良くクロと顔をぐりぐりと擦り付け合っている。
「なんだろう、ネルはクロと仲が良いって言いたいのかな?」
「みたいだね」
私とリンがふふふと笑う。まだぐりぐり攻撃を続けているネルにクロが長い尻尾をだらんと伸ばしてぬうと唸る。
『ネル、力が強いよ~加減してぇ』
困り果てた声を上げるクロは珍しいと私とリンが眺めていると、足元でヴァナルが片脚を上げてちょんと私に触れた。
『ヴァナルも』
どうやら構って欲しかったようで、私はヴァナルの片脚を掴んで握手をする。それだけでは足りないかと今度は手を離して彼の首元を撫でると、目を細めながら気持ち良さそうな声が漏れている。
私は私でヴァナルのもふもふを堪能しているので割と楽しい。その様子を見ていた雪さんたちと楓ちゃんたちも参加して手が足りなくなる。リンにも協力をお願いして玄関先でモフっていると使用人の方たちが、小さく笑いながら玄関ホールを過ぎて行く。ちょっと恥ずかしいかなとモフるのを止めると、リンが三頭の毛玉ちゃんたちに視線を向けた。
「そういえば戻ってきてからカエデとツバキとサクラは人の形になっていないね?」
『割と難しいそうですよ』
『坊の手解きがなければいけないようです』
『坊の手を借りず、彼女たちが変化できるようになるのはいつでしょうか?』
ふふふと余裕の笑みを浮かべて雪さんたちは三頭の毛玉ちゃんたちを見た。自力で変化できないことを悔しがっているのか、桜ちゃんがぴーと鼻を鳴らして走り出し、その後ろと楓ちゃんと椿ちゃんが追いかけていく。そのうち戻ってくるだろうと、リンと私は裏庭に出て取れた新鮮なお野菜さんをおやつ替わりに食べた。凄く美味しかったけれど昼食前だったので、少しばかり食べ過ぎたのは内緒だ。