1073:変な子。
毛玉ちゃんたちがフソウにお泊り体験に行くまで、あと一週間。
そういえば西の女神さまとユーリの顔合わせを済ませていないなあと思い至り、私は女神さまに会ってみませんかと申し出た。でも女神さまは何故か渋い顔を浮かべたので、私がどうしたのですかと問えば『小さい子は弱いから』とぼそりと声を零す。
確かに生まれたばかりの赤子は凄く儚い存在かも知れないが、ユーリは約一歳となるから女神さまの心配は不要ではと伝えると『それなら会う』と女神さまは承諾をくれたのだった。しかしまあ、女神さまという特別な存在なのに人間の赤子や子供に苦手意識を持っているとは。大昔になにかあったのかもしれないなと私は考えるが、聞くのは野暮なので止めておいた
西の女神さまと一緒にジークとリンと私はユーリの部屋に向かう。廊下の窓から差し込む光が眩しくて目を細めていると、クロが大丈夫と言わんばかりに顔を擦り付けてくる。
私の近くを歩く毛玉ちゃんたちはユーリの部屋に行くと分かったようで、彼女となにをして遊ぶか考えているようだった。ロゼさんは私の影の中でまったり過ごし、ヴァナルと雪さんと夜さんと華さんは仲良く並んで歩いている。
女神さまは何故か私の後ろを歩いていた。しかもジークとリンより後ろである。彼女曰く、先頭は誰かを導いているようで嫌だとのこと。真面目に働いていた時代のツケが今になって響いているのだろうか。社畜……ではないけれど、女神さまが持つ嫌な記憶が少しでもマシになれば良いのだが。
ユーリの部屋の前に辿り着き、いつも通りの手順を踏んで部屋の中へと入った。乳母さんが女神さまの顔を見て驚いたものの、直ぐに鳴りを潜めさせていた。ユーリは床の上で乳母さんと一緒に玩具で遊んでいたようである。
先日、お土産として渡したでんでん太鼓も確りとあったので少し嬉しかった。ユーリは私たちが部屋に訪れたことを理解しているようで、両腕を前に出して床を突き立ち上がろうと試みている。ただ、まだ力が足りなくて自力で立つまでには至っていない。つかまり立ちはできるけれど、自力で立つのはもう少し先のようだ。
私はユーリの下へしゃがみ込んで腕を差し出せば、彼女が私の腕を掴んでどうにか立ち上がることができたのだった。
「ユーリ、遊んで貰っていたの?」
私がユーリに言葉を掛けても『あー』とか『うー』としか言ってくれない。乳母さんの話によれば単語をいくつか覚えているようで『ご飯』はもう少しでマスターするとのこと。
普通はパパ、ママ辺りのことばを真っ先に覚えそうだけれど……彼女を取り巻く環境が特殊だから致し方ない。普遍的な子供時代を過ごして欲しいけれど、侯爵家で預かっているという時点で無理なことだろう。
ごめんねと言いそうになるのをぐっと堪えて、私はユーリの脇に手を差しこんで抱き上げた。彼女は私の胸の内など知らず、急に高くなった視線に喜んでキャッキャと声を上げている。どうか、これからも無事に彼女が大きく育ってくれますようにと願いながら、私は西の女神さまの方へと向く。
「ユーリ。紹介が遅くなったけれど、西の女神さまだよ。凄い方だから粗相のないようにね」
ユーリは西の女神さまよりも、私の肩の上に乗っているクロの方が気になるようだ。クロに視線を向けて両手を伸ばして、バチンとクロの顔を引っ叩く。
『ぶふっ! ユーリはいつもボクの顔を手で挟むね……』
彼女の力は弱いからクロは痛くないだろうけれど、毎度のこととなっていた。クロは怒るでもなくユーリになされるがままだ。クロに命の危険が迫っているならクロは避難するはずと、私はクロの言葉にスルーを決め込んだ。
毛玉ちゃんたちは今日は女神さまとユーリの顔見世と理解しているようで、いつものように『ユーリ、ユーリ!』と寄ってこない。ヴァナルと雪さんたちの横に並んで、ばふばふ尻尾を振っているだけ。凄く珍しいけれど、時間が経てば我慢できずにこっちにきそうだなと苦笑いしていると、女神さまはユーリをじっと見ていて微動だにしない。
「女神さま?」
「ん?」
一体どうしたと私が西の女神さまに声を掛ける。返事はきたので生きてはいるようだ。
「えっと、ユーリは喋ることはできませんが、名乗って頂けると助かります」
せっかくの顔見世だし、名乗って頂けると助かる。亜人連合国の皆さまみたいに気を許した方にしか名乗らないわけではないはず。だってグイーさまは自ら名乗り出ていたのだから。
「名乗り? 敬称はあるけれど、私に名前はないから名乗れないね」
女神さまがきょとんとした顔で凄いことを教えてくれた。そういえば名前を聞く機会もなかったし、西の女神さまで通っているから彼女の名前を気に留めていなかった。
「女神さま、グイーさまに名前を頂いていないのですか?」
「うん」
凄く軽い調子で女神さまが頷いた。いや、うん。ねえ、グイーさま、自身の娘に名前を付けていないって一体全体どういうことだろうか。そりゃ世の中には自分の子供が嫌いで仕方なくて、暴力に訴えたり育児放棄する親とかいるし、出生届をださないままの親とかいるけれど……でも、グイーさまは自分の娘が引き籠もっていることを心配して、私たちに頭を下げた。
だから情がないわけではないだろうに、どうして自身の娘さんたちに名前を与えていないのだろうか。そりゃ神さまという特別な存在だから、人間のルールに囚われる必要はないけれど。
「………………」
むむむと頭の中でグイーさまに抗議をしていると、いつの間にか私は歯噛みしていた。
「うわ、凄い魔力」
珍しく女神さまが目を見開きながら驚いている。おそらく魔術具で女神さまの力が抑えられているから、私の魔力が相対的に多いように感じているだけだろう。人間が神さまに勝てる道理はないのだから。
『ナイ、もしかして女神さまに名前を付ける羽目になりそうって考えているかな。まあ、ボクは魔力を貰えるなら良いけれど』
クロは私の肩の上から女神さまの肩の上に移動して、女神さまと『怒っているの?』『怒っているというか、面倒に巻き込まれそうって考えているんじゃないかなあ』と言葉を交わしていた。
面倒に巻き込まれるつもりはないし、そもそも女神さまの名前を付けるのは私ではなく、創造神たるグイーさましかいない。ちょっとグイーさまどうなっているのですか、と念を飛ばそうとしていると、部屋の一か所がぱあっと明るくなる。
『ちょっと、ちょっと! どうして魔力が溢れているのかしら!? 私にもちょーだい! って、女神さまぁああ!?』
明るくなった所からお婆さまが姿を現して凄く嬉しそうな顔を浮かべていたのだが、女神さまの姿を確認するなりジークの頭の後ろに隠れて女神さまを見下ろしている。何故かロゼさんが私の影の中から出てきて、身体をぽよんぽよんと動かしていた。
ジークはお婆さまの突飛な行動に驚きつつも特に問題はないようだ。彼の短く切っている髪をお婆さまの手が握り込んでいる気がするけれど、禿げたらきっと毛生えの魔法を施してくれるはず。
リンはジークの隣で私と女神さまのやり取りを見ているだけだった。私はお婆さまの姿を見て目を細めるものの、そう遠くない未来に訪れそうな名付けというイベントを回避しなければと、魔力を必死に練っている。
「でも、ナイもグリフォンたちに名前を付けていないから、父さんのこと言えない」
「ぐふっ!」
女神さまの鋭い言葉が私の胸に深く刺さる。練り練りしていた魔力がふっと霧散したのが分かる。確かに私はグリフォンさんから名付けをお願いされているけれど、ソレを先延ばしにしていた。
だって、グリフォンさんとグリ坊さんたち四頭とポポカさんたち五羽の名前となれば、全部で十個は考えなくてはならない。フィーネさまを巻き込むから一個は確実に減るけれど、あと九つも考えなければいけないのだから頭がパンクしそうである。こうなったら女神さまに名前を付けてくださいとグイーさまに進言するついでに、グリフォンさんたちの名前も贈ってくださいと願い出れば良いのではなかろうか。
「グリフォンからお願いされたんでしょ。ちゃんとナイが考えて付けてあげなきゃ駄目だよ。坊たちは他の人でも良いかもしれないけれど」
「うっ!」
女神さまが凄く真面目な顔で至極真っ当なことを言った。ぐうの音も出ない正論に私は床の上で膝を抱えて、絨毯に『の』の字を書き始めるのだった。
◇
――変な子だ。
ナイと呼ばれる少女が膝を抱えて絨毯の上に指先でなにかを描いている。描いているものに意味があるのか分からないけれど、赤毛の双子であるジークフリードとジークリンデが大丈夫かと心配そうに見下ろしていた。
私の肩の上に乗っている仔、クロは面白そうな様子でナイを見下ろして『拗ねちゃったねえ』と呟いている。当の本人は未だに絨毯になにかを描いていて、毛玉たちがナイを取り囲んですんすん匂いを嗅ぎながら、彼女の頭に脚を置いたり、頬を舐めてみたりして興味を引こうとしている。
ユーリと呼ばれている黒髪黒目の小さな小さな女の子が四つん這いでナイに近づいて手を延ばそうとしていた。ユーリの手はナイに届かないまま、絨毯の上にペタンと落ちる。ユーリはペタンと落ちた自分の手をじっと見て、目尻に涙を溜め始めた。どうやら彼女が思い描いた行動ができず、言葉の代わりに『泣く』という行為で感情を訴えようとしている。
「名前付けるの大変なんだよ……みんな気に入ってくれているからまだ良いけれど、心のどこかでダサいとか思われていたら、私立ち直れない」
ナイがぼそりと呟いて、泣きそうになっているユーリに気が付いた。ナイはすかさずユーリを抱き抱えて、大丈夫と言うようにユーリの小さな背に手を当ててゆっくりと手を上下に動かしている。ユーリはユーリでナイの肩口に顔を埋めて、そのまま目を閉じていた。
『ナイは深く考えすぎじゃないかなあ』
「じゃあ、クロが考えてくれる?」
クロの言葉にナイが口を伸ばして妙な顔を浮かべている。彼女は人間だというのに、私が近くにいても自然体で振舞っている。普通は私の圧に驚くし、西の女神だと名乗れば頭を垂れて視線を合わそうともしない人間がほとんどなのに。
それにあの大きな白銀の竜の生まれ変わりであるクロとも普通に喋っている。竜は幻想種と呼ばれて人間から恐れられているのに。
『ボクが? んー、ボクもナイと一緒に考えるから、グリフォンたちに名前を贈ろう』
クロはあの大きな白銀の竜の生まれ変わりだ。大地から産まれ出た竜の最後は大地に還るのが普通である。でも、こうして生まれ変わっているのは原因があるからだ。
クロから経緯を聞いて殺意が湧いたけれど、クロ自身気にしていないと言っていたから、私も気にしないでおこうと決めた。それにナイがいなければクロは生まれ変わることができなかったと言っていたから、彼女には感謝している。
「名付けからは逃げられないのか……」
がくりと肩を落とした彼女が私の肩の上にいるクロに視線を合わせた。黒髪黒目の子は西大陸では珍しくなっている。私が引き籠もっていた数千年の間に、西大陸の古代人は東大陸からの移入者によって混血化が進んだようだ。妹たちとはお互いの大陸に手を出さないと取り決めをしているが、取り決めたルールが人間には適用されていない。自然の流れで起きてしまったことだから、西大陸の古代人がいなくなったことは運命だったのだろう。
そういえばユーリも西大陸では珍しい黒髪黒目だと、私は寝ているユーリに視線を向けた。でも、あれ? 南の妹の匂いがするような。でも西の匂いも微かにする。不思議な子だなあと首を傾げていると、クロが私の肩から飛び立ってナイの肩へと移った。
『頑張ろう、ナイ』
「うん、頑張る。それに嫌々付けた名前を贈られても嬉しくないしね。フィーネさまを巻き込むんだし、クロも巻き込んだから、他の人も巻き込もう」
少し残念だし、クロがナイの顔に顔を擦り付けている姿を羨ましいと嫉妬してしまいそうだった。クロは私を慮ってくれているようで、顔をすりすりと擦り付けたりはしないし、長い尻尾で背中を叩くこともない。どうすればクロにお願いできるのだろうかと悩んでいると、ナイが私の方へと近づいてくる。どうしたのだろうと私が首を傾げると、へらりと彼女が笑う。
「よろしければ西の女神さまもグリフォンさんたちの名前を考えてください」
眠っているユーリを抱えたままナイが私に告げた。もしかして私も巻き込まれてしまったのだろうか。普通の人間は私を巻き込んだりしないのに……目の前の背の小さな黒髪黒目の子は本当に変な子だ。でも、まあ……悪くないし面白いと、私はナイに良いよと告げるのだった。






