1067:ご挨拶をば。
妖狐の幼仔が雪さんと夜さんと華さんの手に――咥えた口に――よって、畳の上にぽいっと落とされた。そのままの勢いで男の仔は畳に尻餅を付き痛みで目が覚めた。
『痛て!』
男の仔は畳の上に落とされて、お尻を撫でながら目尻に涙を溜めて雪さんたちを睨んでいる。フソウの皆さまは男の仔に驚いているけれど、クロやヴァナルにエルたちを見た時の驚き程ではない。
それにひそひそと『また悪戯をしたのか』『飽きないな』『母親よりマシだが』と顔を見合わせながら話していた。どうやら男の仔はフソウの方々たちには馴染み深いようである。悪戯が過ぎているようだから、迷惑を掛けられているという雰囲気が強い気がした。
アルバトロスのメンバーは一人を除いて、またなにか現れたぞという雰囲気をアリアリと醸し出していた。懐疑な顔をしているが雪さんたちが男の仔を捕まえてきたから、脅威ではないと判断しているようである。
ジークとリンも男の仔は脅威に値しないと判断しているものの、私との距離を少し詰めている。雪さんたちが大丈夫ですよと言いたげだけれど、護衛として側に控えていることも彼女たちは理解してくれていた。
だからなにも言わないし、男の仔の方へと視線を向けて再度悪戯しないようにと見守っている。ヴァナルは宴会場に戻ってきたが、男の仔に怖がられて少し凹んでいた。その姿を見た毛玉ちゃんたちが彼を慰めているけれど、直ぐに飽きてこちらへと戻ってくる。ヴァナルは大丈夫かと気になるものの、力の差が如実に分かる野生の性だろうし男の仔も悪気はなかったはずである。
『クロさんとアズさんとネルさんはまだ寝ておられますか?』
「先程、クロが一度目を覚ましましたが、まだ眠いようですね」
雪さんの問いに私が答えて。クロは未だに西の女神さまの膝の上ですぴすぴ寝息を立てている。酔い覚ましの術を施したし、クロは竜だから直ぐにアルコールなんて飛ばしそうだけれど眠ったままである。アズとネルもジークとリンの腕の中で眠っていたのだが、いつの間にかソフィーアさまとセレスティアさまが預かってくれている。
もしかしたら男の仔の力が強かったのかもしれないなと、私は彼に視線を向ける。二本生えた尻尾は将来的に、九本になって周りの皆さまから九尾の狐と呼ばれるようになるかもしれない。フソウにもまだ凄い仔がいたのだなあと感心していると夜さんと華さんが、女神さまの膝の上で寝ているクロに視線を向ける。
『無理矢理に起こすのは失礼ですし……』
『今少し待ちましょうか。さて、坊。ナイさんに事の経緯を説明なさい』
雪さんたちは寝ているクロを無理矢理に起こすのは申し訳ないようだ。一先ず、フソウを詳しく知らない私たちに何故こうなったのか男の仔に説明を求めた。
『なんで女子にオイラがしたことを説明せなあかんねん!』
男の仔は私を睨んでいるけれど、世界地図を描いてしまった単衣を着たままだから少し絵面が締まらない。男の仔は日本人離れしている顔立ちだし、髪色は銀で目は琥珀をあしらったような色だから、成長すれば凄い美丈夫になりそうだ。ぷりぷりと怒っている男の仔に私は苦笑いを浮かべて、一つの可能性を告げるべく口を開いた。
「えっと、君がクロたちに敵意があって悪戯を施したなら亜人連合国の皆さま……竜の方々が君に報復をとフソウの地に舞い降りることになるかもしれないので、説明してくれると嬉しいです」
私は怒っていないので問題ない。クロとアズとネルは酔いによって寝ているだけなのだから。どういう経緯かは分からないけれど、帝さまとナガノブさま曰く男の仔の悪戯に手を焼いているようだ。
フソウ国とアストライアー侯爵家では問題ないと取り付けたが、亜人連合国の皆さま、主に竜の方々が男の仔に対してどう捉えるのかは未知数だ。多分、クロが目覚めれば大丈夫だし、クロが経緯を説明してくれるから大事にはならない。
でも、フソウ国も男の仔に手を焼いている現状は如何なものかと思うし、雪さんたちも男の仔の面倒を見ている。少しお灸をすえる、という訳ではないが、世の中には怖い者が沢山いるよと知っておいても良いのかもしれない。
『竜がようさんおるはずないやろ! 嘘吐いても、オイラは騙されせーへんからな!』
男の仔が尻尾を立てて威勢よく私に声を上げた。私たちがフソウの上空を飛竜便で飛んでいたことを、男の仔は見たことがないようだ。竜のお方は確実に数を増やしているし、ワイバーンさんたちもアルバトロス城で卵が孵り順調に育っている。現状を理解してくれていないことは残念だけれど、男の仔が知らないのだから仕方ない。
『相変わらず威勢だけは良いですねえ』
『怖いことがあると、直ぐ泣く仔ですのに』
『ナイさんにお願いして、坊を亜人連合国に連れて行って貰いましょうか……』
雪さんと夜さんと華さんがむむむと唸ったあと困った顔になった。雪さんたちの実の仔はさほど手が掛からず大きくなったので、妖狐の男の仔の悪戯振りには敵わないようだ。
その実の仔はおもむろに男の仔に近寄って、またすんすん鼻を鳴らして匂いを嗅いでいる。男の仔は五頭の勢いに押されながら『やめーや!』『オイラを食っても美味ないからな!』と必死の声を上げている。毛玉ちゃんたちの方が幼いだろうに、男の仔が苦手意識を持っているとはこれ如何にと考えるけれど、今の状況は少し宜しくないだろう。
「毛玉ちゃんたち、男の仔が嫌がっているから止めて貰えると」
私が毛玉ちゃんたちに声を掛ければ、彼らは少し残念そうにしつつも匂いを嗅ぐことを止めてくれた。男の仔はほっと息を吐き、私は濡れた単衣の匂いを嗅ぎ続けるのもどうかと考えていたので良かったと安堵する。
つまらないと言いたげに毛玉ちゃんたちが私の横に伏せをして並んだ。ばっふばふと尻尾を振っているので男の仔に対する興味を失っていない。許可が降りれば直ぐに彼の下へ行って『遊ぼう!』と毛玉ちゃんたちは言い出しそうな勢いだ。
「えっと……フソウ国ではありませんが、西大陸にある亜人連合国という国には多くの竜の方が住まわれています。なので私は嘘を吐いていません」
私は毛玉ちゃんたちの隣で男の仔の誤った認識を説こうと言葉を紡ぐ。私だけの言葉では弱いかと雪さんたちに視線を送った。
『ええ。私たちも驚いたものです』
『大きな方から小さな方まで沢山住まわれておりますよ』
『機会があれば坊にも見て頂きたいですね』
雪さんたちの言葉を補足するためか、帝さまとナガノブさまも顔をこちらへと向ける。
「本当ですよ。ナイは嘘を吐いておりません」
「ああ、竜を見ることは一生ないだろうと諦めておったが、実際に目に見ることができている。それも一度ではない。何度もだからな」
帝さまとナガノブさまが小さい子を諭すような優しい顔になっていた。フソウ国では男の仔は厄介者ではないようだ。厄介者であればお二人は優しい顔なんて浮かべない。為政者として厳しい態度を取り、悪戯が酷ければ討伐命令を下さなければならない立場である。
男の仔のお母さまも悪戯で随分とフソウ国に脅威を与えていたようだけれど、許容範囲だったのだろうか。それとも人間では手に負えないと、天災扱いだったのか。いずれにせよ、男の仔が優しく常識ある仔に育てば、フソウの新な守り手になる可能性もある。帝さまとナガノブさまは将来を見据えて、男の仔と仲良くなりたいのかもしれない。私が男の仔に視線を向けると、彼がぷいっと私から視線を逸らして足を組む。
『……むぅ! 女子より、オイラが嘘言うたみたいやんけ!』
ぷーと片頬を膨らませて男の仔は拗ねていた。どうやら自分の仕出かした悪戯が、ここまで大事になるとは考えていなかったのだろう。女神さまの膝の上で寝ているクロがピクリと脚を動かした。
もう直ぐ起きるかなと私が視線を向けると、女神さまがクロの顎の下を指先で撫でている。クロは今度は身体をピクリと動かして顔を上げ首を傾げた。今の状況が掴めていないのか、まだ覚醒しきっていないのか。ふいに雪さんたちが男の仔の側に半歩近寄り畳にお尻を落とす。
『嘘を吐いたなどとは申しておりません』
『ただ、坊は広い世界を知らぬだけ』
『これから沢山学び、沢山知っていけば良いのです』
彼女たちの言う通り、男の仔はこれから経験を積めば良いだけ。帝さまとナガノブさまも協力してくれるだろうし、悲観するようなことはないだろう。悪戯が過ぎれば亜人連合国の竜の皆さまに再教育をお願いすれば良いのではなかろうか。竜式のスパルタ教育となりそうなので、凄く真面目な男の仔になって戻ってきそうだ。雪さんたちの言葉に男の仔がしゅんと肩を落とした。
『……だって仕方ないやん。母ちゃん死んでしもうたし……父ちゃんはどこにおるか知らんし、顔も知らへんねん』
男の仔の母親である妖狐は命を落としたと聞いているから、彼に同情はすれど驚くことはない。ただ彼の言葉から察するに父親がどこかで生きているようだ。とはいえ顔も知らないようだし、探し当てるのは至難の業だろう。帝さまとナガノブさまが男の仔の発言に驚いていると、クロが女神さまの膝から降りてぷるぷると顔を振り完全覚醒した。
『ボク、寝てた?』
「うん。気持ち良さそうに寝ていたよ」
『美味しい果物を食べていたら、なんだか気持ち良くなっちゃって』
クロは女神さまに問い、彼女も律儀に答えている。くあっと大きな口を開けて欠伸をするクロを見た女神さまは目を細めていた。そうしてクロが目覚めたことによって男の仔がポカンと大きな口を開けて驚いた。動いている竜を見るのは初めてなのか、クロという存在に驚いているのか、どちらか分からないけれど。
『ボクと一緒に食べてたアズとネルは?』
クロがこてんと首を傾げて私の方を見る。そうしてクロは脚を少し折り曲げて翼を広げて、空へと飛び立ち私の肩の上に乗る。女神さまが『残念』と苦笑いを零しているので、今度クロに女神さまの相手をよろしくお願いしますと頼んでみよう。アズとネルは未だにご令嬢さまの腕の中で寝息を立てている。彼らよりクロの方が早く酔いが覚めたようだった。
「ソフィーアさまとセレスティアさまの所にいるよ。酔い醒ましの魔術を掛けたんだけれど、クロより効きが弱いのかも」
私はクロとアズとネルに同じ術を同じ魔力量で施したのだが、やはり効果は個体によって差が出てしまうようである。同じ魔術を同じ効果量で施すことは滅多にないので勉強になった。
アズとネルはそのうち目覚めるだろうと、クロに事の経緯を話せば『そんなこともあるんだねえ』と呑気に口にする。私は帝さまから平謝りを受けていたし、ナガノブさまからも謝罪を頂いたのでクロにはもう少しお二人のご心労を考えて欲しいものである。
『君が妖狐の仔供なの? ボクはクロ。よろしくね』
クロが私の肩の上から飛び立って、今度は男の仔の前に降りた。畳の上で首を下げて、今後とも宜しくねと告げている。男の仔はクロに話しかけられると考えていなかったようで、口をはくはくしながら言葉が出せない状況に陥っていた。私は男の仔を心配しつつ彼らの様子を見守る。
『緊張しているのかなあ。ボク、みんなと沢山お喋りしたいから驚かないで欲しいよ。あれ、どうして服が濡れているの?』
こてんと首を傾げるクロの言葉に男の仔がまた目尻に涙を貯め込んでいる。本当に涙腺の弱い男の仔だと眺めていると、クロが少し慌てた様子になる。
『え、え? ボク、君が悲しむことを言っちゃった? どうして涙目になっているの? 大丈夫?』
男の仔は『好きで漏らした訳じゃない』とクロに反論をしているが、男の仔が世界地図を描くことになった経緯をクロは知らないためオロオロと狼狽えている。珍しい姿を見たなと感心していれば、丁度雪さんたちがお願いしていた男の仔用の服が届くのだった。






