1043:【前】日常に戻る。
――ナイ、悪い……。
南の女神さまの声が聞こえたような気がして目が覚めた。子爵邸の自室のベッドの上で身体を起こし、髪の毛が凄い跳ねているなあと寝ぼけ眼で感じつつベッドの上から降りようとする。
でも降りて一人で勝手にごそごそすると侍女さんが青い顔をするので思い止まった。私が目が覚めたことにクロとロゼさんととヴァナルと雪さんと夜さんと華さんと毛玉ちゃんたちが気付いて、むくりと顔だけを起こす。彼らは私がベッドから降りないことを知っているので、もう一度顔を戻して二度寝を敢行したり、毛玉ちゃんたちは早く起きようとベッドの側まで寄ってくる。クロも顔を上げて私と視線を合わせた。
『おはよう、ナイ。良く眠れた?』
「うん。今日から通常業務だね。冬も近いし寒くなる前にいろいろと済ませておきたいかな」
クロがおはようの挨拶を投げて、私も挨拶を返せばクロは嬉しそうに目を細める。ベッドの側で毛玉ちゃんたちが早く降りて相手をしてとくるくる回っているので、私は呼び鈴を手に取って鳴らし侍女さんを待つ。
待っている間はベッドの端に腰を掛け、毛玉ちゃんたちの相手を務める。ぐりぐりと私の足に顔を擦り付けたり、早く撫でろと前脚を片方上げてふくらはぎをタッチしていた。私の腕は二本しかないのでご容赦くださいと言いながら毛玉ちゃんたちの相手をしていると、扉の向こうからノックと声が響く。どうぞと伝えれば、騎士爵家出身の侍女さんが顔を出し丁寧な礼を執りながら声を上げる。
「ご当主さま、おはようございます」
私付きの侍女さんの間では、来年春に侯爵邸へと移動するため強かな凌ぎ合いが発生しているとか。目に見えるいじめや嫌がらせがあれば直ぐに止めて欲しいと、家宰さまと侍女長さまにお願いしているので今の所問題はない。
下働きの皆さまの間でも侯爵邸行きの切符を得ようとやる気になっている方が多いのだとか。侯爵位を賜って子爵邸で働く皆さまのお給金は上げてあるし、侯爵邸へと移動しても特にお賃金は変わらない。子爵邸で働く方がだだっぴろい侯爵邸で働くより楽なので、躍起になっていることが不思議だった。クロや幻獣が目的の方は侯爵邸の方が魅力的だろうけれど……。
「おはようございます。着替えをお願いしても良いですか? あと、朝食はいつも通りの時間にお願いしますとお伝えを」
「承知致しました」
私が用件を伝えれば早々と着替えが始まる。神さまの島から戻って数日が経ち、今日は侯爵家当主として午前中に執務を行い、お昼にはフィーネさまが聖王国へと戻るためアルバトロス城へとお見送りに行く。
神さまの島に赴いたことは北大陸のミズガルズ神聖大帝国には露見しているため、今更の情報だろうと問い合わせがあった国には、アストライアー侯爵家とアルバトロス王国の関係者に聖王国の大聖女フィーネが向かい神と会話を交わしていると伝えている。亜人連合国の皆さまは黙っておいて欲しいとのことで情報は伏せている。
「ありがとうございます。時間までユーリの所に顔を出してきますね」
「はい。ではお食事の用意ができましたら、お呼びに上がります」
私は侍女さんにお願いしますと告げれば、しずしずと部屋から下がって行った。私はクロとロゼさんとヴァナルと雪さんたちと毛玉ちゃんたちにユーリの所に行ってくると伝えれば、クロは私の肩の上に飛び乗り、ロゼさんは私の影の中へ、毛玉ちゃんたちは私の後ろにぴったりと付き、ヴァナルと雪さんは部屋でまったりするそうだ。
廊下に出てユーリの部屋を目指そうと歩いていると朝から働いている皆さまが端に寄る。私はおはようございますと声を掛けて、彼らの邪魔にならないように足を進めた。直ぐにジークとリンが部屋から出てきて私と合流し、一緒にユーリの部屋に行こうとなる。どうやら朝ご飯前に私がウロウロし始めたことが珍しかったようだ。
時間ができればユーリとなるべく顔を合わせるようにしているが、どうしても家から出払って数日会えないこともある。顔を忘れ去られやしないかと正直不安になることは度々あるし、顔を合わせてユーリが大泣きすればショックが大きい。
そんなこんなでマメにユーリの部屋に赴いているのだが、私の行動は水商売の女性に入れ込む男性の行動に似ているように思えてならない。邪な気持ちは一切ないけれど、出かける度にお土産を買ってユーリに渡していることが水商売の女性に入れ込む男性に見えるのだ。水商売の男性に入れ込む女性となると、ちょっと意味合いが変わってくる気がする。まあ、これはどうでも良いことか。
ユーリの部屋の前に三人で辿り着き、私が部屋をノックすると乳母さんのどうぞという声が聞こえる。ユーリの基本的なお世話は乳母さん任せなので、随分と楽をさせて頂いていた。
おそらく当主と聖女を担いながらユーリの面倒をみるのは至難の業なので、お貴族さまの赤子や小さい子供は乳母さんが面倒をみてくれるシステムは正直有難い。ドアノブに手を掛けて扉を開ければ、ベビーベッドの上で寝ているユーリの姿が見える。
「おはようございます。ユーリは起きていますか?」
私は声量を落として乳母さんに声を掛けた。
「おはようございます、ご当主さま。はい、既に目を覚ましておられますよ」
ユーリが寝ていれば顔だけ見て部屋に戻ろうと考えていたのだが、どうやらタイミングは良かったご様子。にこりと笑みを携えている乳母さんにお疲れさまですと声を掛けて、ベッドの近くに寄って私が顔を覗き込ませると、ユーリが両手を伸ばしてきた。
私はユーリの脇の間に手を入れて抱き上げると、毛玉ちゃんたちがユーリを見せろと催促する。ユーリを落とさないように床に腰を下ろして毛玉ちゃんたちに託せば、すんすん鼻を鳴らしながら匂いを嗅いでユーリの存在を確かめたり、顔を覗き込んで首を傾げてみたり、手や足を鼻先で突っついてみたりと忙しい。
毛玉ちゃんたちはユーリが自分たちより弱い存在であり、守るべき者だと認知している。ヴァナルと雪さんたちが毛玉ちゃんたちにユーリに無茶をしては駄目と教えてくれていたけれど、彼ら五頭は最初からユーリとは友好な関係を築いている。ユーリがどう捉えているかは不明だけれど、確実に毛玉ちゃんたちは彼女のことを群れの仲間と認識しているようだった。
「可愛いよねえ」
私がユーリと毛玉ちゃんたちを見つつにやにやしながら惚気れば、椿ちゃんと楓ちゃんと桜ちゃんは『どっちのこと!?』と首を傾げ、松風と早風は首を傾げている。どっちも可愛いよと告げれば毛玉ちゃんたちは納得したのか、ユーリの匂いをくんくん嗅いで、時折ふごっと妙な鼻声を上げながらユーリとじゃれ合っていた。そろそろユーリを回収しなければ毛玉ちゃんたちの涎塗れになると、私は彼女を抱き上げて頬と頬を擦り付ける。
柔らかくもちもちとしたユーリの肌と少し高い体温が伝われば、小さな子供特有の匂いも私の鼻腔をくすぐる。私の肩にクロが乗っている逆側にユーリの顔を持ってきて、彼女と視線を合わせる。
「あーう」
声になっていない声を上げたユーリを見ていると、リンも抱きたいと両腕を伸ばしてきた。私はユーリを彼女に預けてふうと息を吐く。
「重くなっているから長く抱き上げると腕が疲れるね」
私はユーリを抱き上げていた感想を述べ苦笑いを浮かべる。ユーリを預かってから割と時間が経っており体重も随分と増えた。動く範囲も広くなっているので、片時も目が離せない。
子を持つ世のお母さま方の大変さが凄く理解できるが、私たちは乳母さんたちにお世話を任せている所があるので本当の苦労は十分の一くらいしか分かっていないだろうか。授乳にトイレに夜泣きや体調管理、上げればキリがないけれど心配事やすべきことが凄く多いのだ。でも、大変な代わりに子供の成長は素直に愛おしいし、将来ユーリがどんな道に進むのかも楽しみである。
「確かに保護した頃より随分と大きくなったな」
ジークが腕を組んでリンが抱き上げたユーリの顔を覗き込む。ジークは孤児院で小さい子供の面倒を見慣れているのか、ユーリに苦手意識を持っていない。
彼女を見る瞳は優しいし、困ったことがあればそっと隣に寄り添って解決のために一緒に悩んでくれるタイプである。物静かであまり喋らないけれど誰かの感情の機微に聡いのだ。私が迷っていると『どうした?』と声を掛けられることが多かったように記憶している。
「ね。髪も伸びたし顔立ちもはっきりしてきた。やっぱりナイに似ている」
リンも子供に苦手意識はないので良いお母さんになりそうだ。まだ相手がいないので、夢想するのは駄目かもしれないが。ユーリはお目眼くりくりで凄く可愛らしい顔立ちをしている。時折、へらりと笑う姿が破壊力抜群で、リンと一緒に『可愛い』と悦に浸ることもあった。将来は美人さんに育ってモテモテになって欲しいと願うものの、妙な男が近寄ってこないかという心配もある。
「リン、ユーリに変な輩が引っ付いたらぶっ飛ばそうね」
ユーリに変な輩が湧けば私が散らすのはもちろんだし、子爵邸で働く皆さまにも変な人が迷惑を掛けているなら睨みを利かす。アンファンに悪意がある人が手を出すならば、私は彼女を守りきるし、以前保護したテオとレナだって頼られればもちろん助ける。まあ、テオとレナはジークとリンが面倒を見ているので、ジークとリンの意見を取り入れてからだけれども。私はユーリと抱き上げているリンと視線を合わせて、ぷにぷにのユーリの頬を軽く揉む。
「もちろん」
「ナイ、リン。気持ちは分かるが、やり過ぎるなよ」
リンと私の過激な発言にジークは片眉を上げてなんとも言えない表情を浮かべていた。感情で生きている女性よりも理性を働かせる男性の方が、この辺りは理性的である。リンと私が暴走したならば、ジークが止めてくれる。ジークで無理なら誰も止められないかもしれない。クレイグとサフィールも頼りにしているけれど、力ならやはりジークが秀でているので私たちの行動を止めるなら彼が適任である。
「多分。気を付けるけれど……うーん、難しそう?」
私は首を傾げながらリンからユーリを引き受ける。暫くユーリを抱き上げて本当に大きくなったなあと実感していると、ふと試したいことができた。
「ジーク、ユーリを抱いてみて」
「それは構わないが……」
私の言葉にジークが不思議そうな顔を浮かべるけれど、はいとユーリを渡せば彼の腕と手が伸びてきた。両手でユーリを抱えて彼女の身体が安定すると、ジークは片腕を離した。
「やっぱりジークの腕の中だとユーリはまだまだ小さいねえ」
なんとなくジークがユーリを抱けば小さく見えそうだったので彼に彼女を預けてみたわけだが、やはり背の高いジークが赤子を抱けば小さく見える。私がユーリを抱けば結構大きく見える――鏡で確認済み――のだが、男の人の腕の中だとユーリは小さい。偉丈夫な公爵さまがユーリを抱けば更に小さく見えるなと想像すれば少し可笑しくなる。
「そうか?」
「うん」
私たちのやり取りを暫く眺めていた毛玉ちゃんたちが、ユーリを独占するなと騒ぎ始める。それと同時に侍女の方がユーリの部屋に顔を出し、朝ご飯の用意ができたと知らせてくれるのだった。
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