1040:薄い。
私は女神さまの圧からみんなを守るために六節の魔術を詠唱したが、流石に無傷とはいかなかったようで鼻血が垂れた。リンが貸してくれたハンカチを鼻に当てて止血をしている所で、血の量は随分と収まっている。口の中に鉄の臭いが広がって少々不快感があるが、みんなが無事で本当に良かった。他の方々は私を心配しているけれど、神さまたちと話しているところに割って入ることができないらしい。
女神さまの圧はかなり凄かったので生身だと問題が起きていた気がする。副団長さまと猫背さんは凄いと感心している――西の女神さまなのか私なのか、どちらだろう――し、亜人連合国の皆さまも目を丸くして固まっている。グイーさまも妙な顔を浮かべて西の女神さまを見ているし、三女神さまは長姉には逆らえないという顔をしていた。
鼻血が出た私に気付いた西の女神さまは儚い雰囲気のまま、私の下へとやってくる。肩の上にいるクロが申し訳なさそうにしながら、視線を西の女神さまと私の間を行き来させている。
「大丈夫? 私は感情が薄いって母さんに言われていたけれど、彼のことになると心が荒れるみたい。どうしてだろう……」
やはり身長差が酷いといつもの感想を抱きながら西の女神さまの顔を見上げると、鼻血が口の中に流れ込みそうになる。私の視線を彼女の胸の辺りへ変えると、立派なメロンもしくは西瓜があった。
世の中は不条理だと嘆いていると、西の女神さまが不思議そうに小さく首を傾げた。いかん、余計なことを考えていると私の心の内を皆さまに聞かれる羽目になる。私が私のナイムネを嘆いていることを知っているのはリンだけで良い。
「平気です。もう直ぐ鼻血も止まるかと」
私の後ろでリンが西の女神さまに抗議の視線を向けている。どうにも私に無茶をさせたことが気に入らないようだ。ジークも私の後ろで気を張っているようだし、本当にそっくり兄妹は私に対して甘いというか。甘いけれど、有難いことである。だからこそ自分になにがあっても彼らを守ると誓えるのだから。
「でも私の圧に抗う術を持っている人間がいるなんて……驚いた」
西の女神さまの言葉にグイーさまと三女神さまもうんうんと頷いている。いや、女神さまの圧は本当に尋常ではなかったので、死んでしまうと感じれば真剣になるというものだ。周りの皆さまも守らなければならなかったし、生きていて本当に良かったと安堵している。
「数千年の間に魔術が進化したのかもしれませんね」
私は苦笑いを浮かべると、副団長さまと猫背さんが『もっと魔術について突っ込んだ話をしてください!』『大昔の魔術形態、知りたい!』と西の女神さまと私の話を聞き逃さないようにと気を張っている。
本当に魔術に関して愚直だなと感心していれば、毛玉ちゃんたちがこちらにきたそうに鼻を鳴らしている。いつもであれば私は『おいで』と毛玉ちゃんたちを誘うのだが、西の女神さまは毛むくじゃらの生き物は平気だろうか。どうしようか迷っていると、西の女神さまがしゃがみ込んで毛玉ちゃんたちに視線を向けた。毛玉ちゃんたちは知らない人が自分たちに興味を持っていると分かるのだが、いつも私が呼んでいるのに今回は呼ばれないので少々混乱しているようだった。ぴーと鼻を鳴らしてヴァナルと雪さんと夜さんと華さんの間を行ったり来たりしている。
「彼らをこちらに呼んでも良いですか?」
ピーピー鼻を鳴らしている毛玉ちゃんたちを放っておくわけにもいかず、西の女神さまに許可を得るのだが大丈夫だろうか。
「もちろん。初めて見る仔たちだね」
西の女神さまは表情を変えないけれど、ほんの少しだけ口元が伸びている。私は毛玉ちゃんたちにこちらにおいでと手招きすれば、桜ちゃんが一番最初に気付いてぴゅーと走ってくる。
桜ちゃんは西の女神さまの前で急ブレーキを掛け、そのまま地面に伏せて寝転がりお腹をパッカーンさせるのだった。そうして遅れてきた椿ちゃんと楓ちゃんもお腹を見せ、松風と早風までお腹を披露した。
「そこにいるフェンリルとケルベロスの仔供です。無事に五頭産まれ、大きく育ってくれました」
私が西の女神さまに説明すると彼女はヴァナルと雪さんたちの方へと視線を向ける。視線を受けたヴァナルと雪さんたちはゆっくりと腰を上げて、こちらに近づいてきた。
「どうして人間が世話をしているの? 気高い仔たちが人間の下にいるなんて信じられない」
西の女神さまはヴァナルと雪さんたちに顔を向け、両手は毛玉ちゃんたちのお腹に置いてなでなでしている。器用だなあと感心していると、お腹を撫でられた桜ちゃんは気持ちよかったのか、長い舌をだらんと出しながら背中を捩っていた。
もう片方の手で撫でられている椿ちゃんは楓ちゃんに場所を変われと追い出され、ぴーと鼻を鳴らしている。松風と早風は順番待ちをするようで、お腹を見せたままじっとしていた。女神さまの手が早風と松風を撫でるまで、私が代わりに撫でようとゆっくりと手を伸ばす。
松風と早風のお腹を撫でているとエル一家とグリフォンさんにクロとロゼさんの視線が私に刺さっているのは気の所為だろうか。まあ、撫でて欲しいならそのうちくるだろうと、松風と早風のぽよぽよのお腹の柔らかさを堪能する。
『主は群れの長だから』
ヴァナルはドヤと女神さまに顔を向ければ、雪さんと夜さんと華さんがヴァナルのあとに続く。
『番さまの長ですもの。従うのは当然かと』
『仔たちもナイさんのお屋敷ですくすく育っていますから、問題ありません』
『自由を許してくださっておりますものね』
現状に不満はないと雪さんたちは西の女神さまに伝えてくれる。なるほどと頷いた西の女神さまは私の肩の上にいるクロへと視線を変えた。
「君は小さいのに魔力の内包量がとんでもない気がする。前の君より多いんじゃない?」
『ナイの側にいると魔力と魔素に困らないからねえ。確かに前のボクより強くなれるかなあ』
今度はクロが女神さまの言葉にドヤと胸を張る。ご意見番さまの全盛期の姿を知らないのでクロの凄さがイマイチ分からないが、亜人連合国の皆さまがクロを敬っている時点で凄い存在なのだろう。
ディアンさまもベリルさまもダリア姉さんもアイリス姉さんもかなり強い部類である。副団長さまが彼らに勝てるのかと問われれば、どうだろうと首を捻らなきゃいけない。人間で一番高火力であろう副団長さまに敵う方などほんの一握りである。
そう考えれば亜人連合国とアルバトロス王国は凄い戦力を有している。ハイゼンベルグ公爵さまのような方が王位に就いていれば大陸全統治とか東と北と南の統一も視野に入れそうだ。今の陛下が温和な方で良かったし、次代である王太子殿下も平和路線を標榜しているからアルバトロス王国から争いを仕掛けることはない。私が頭の中でいろいろと考えていれば、ふいに視線が突き刺さる。
「貴女は人間なの?」
視線の正体は西の女神さまのものだった。人間かと問われるけれど、人間だとしか答えようがない。
「人間です。人間の枠の外に収まりたくないです」
魔力量はとんでもなく多いのかもしれないが、私は人間である。人間と認知しているならば人間以外の何者でもないはず。魔力が変質していつの間にか神さまになっていたとか、冗談は止めて欲しい。
西の女神さまは『本当かな』と疑いの視線を私に向けていた。じーと見ても私は人間から宇宙人に変わることはないよと言いたいけれどぐっと言葉を堪える。ふいに影が差して顔を見上げるとグイーさまが私たちの側に立っていた。
「おーい、娘よ。盛り上がっている所を悪いのだが、儂らとも話をしてくれい」
「ええ……」
西の女神さまが嫌そうな顔になる。なんだか思春期の女の子に嫌われている父親の図を垣間見た気がするが、女神さまに思春期はあるのだろうか。当の昔に過ぎている気がするし、グイーさまも父親というよりはお爺さんという年齢では。いや精神的に若ければ良いのかと、くるくると頭の中で考えてみるものの何万年も生きている方の人生を図るには、私の知識が足りなさ過ぎた。
「嫌そうな顔をするでない。儂らを心配させておったのだ。言い訳の一つでも聞かせろ」
グイーさまが西の女神さまの首根っこを掴んでずるずると引き摺りって玄関の方へと歩いて行く。お腹を撫でられていた毛玉ちゃんたちは驚いて、ひゅばっと地面から立ち上がった。私たちはどうして良いのか分からず、グイーさまの背を見るだけである。南の女神さまと東と北の女神さまはなにも言わずに、グイーさまの後ろを着いて行くだけだ。
どうしましょうと周りの皆さまの顔を見れば『ここで待っているしかない』というのが答えのようで、私も彼らと同じ意見であった。
「ナイも皆もこっちへこい。皆に心配を掛けさせたのだ。引き籠もっていた理由を知っておくべきだろう」
ふいにグイーさまが立ち止まり、後ろを振り返って私たちに声を掛けた。彼は家庭内の問題を外に持ち出したことを気にしてくれているようで、西の女神さまが引き籠もっていた理由を聞いても良いようだ。
当の本人は歩く気はないらしくグイーさまに首根っこを掴まれたまま地面を引き摺られている。シュールな絵面に驚きたくなるものの、きっちりとしているよりは気は楽だ。最初こそ西の女神さまに敵意を向けられたけれど、悪気はなかったようなので抗議する気はない。
「えっと、呼ばれているので……皆さま、行きましょうか」
私は後ろに控えていた皆さまへと身体を向けて、グイーさまたちの方へと歩いて行く。私の直ぐ後ろにジークとリンがいて、その少し後ろに亜人連合国の皆さまが、その後ろにソフィーアさまとセレスティアさまが歩き、更に後ろにフィーネさまとアリアさまとロザリンデさまが。
更にその後を副団長さまと猫背さんにエーリヒさまと緑髪くんに外務部の方や護衛の皆さまがゾロゾロと歩いてくる。毛玉ちゃんたちとヴァナルと雪さんたちにエル一家とグリフォンさんも着いてくるが、ヴァナル一家以外は外で待機がベストだろう。
天馬さまたちとグリフォンさんたちは身体が大きいので、広いお屋敷と言えど中に入るのは無理がある。エル一家とグリフォンさんには待っててねと言い残し、私たちは神さまのお屋敷の中へと入り、案内された部屋へと通された。
おそらく客室なのだろう。広い部屋には一緒に神の島に訪れたメンバーが余裕で入れた。そうしてグイーさまが上座に腰を下ろして、西の女神さまが彼の席に一番近い場所に座る。続いて南の女神さまと北と東の女神さまも応接用の椅子に腰を下ろし、何故か私だけ北の女神さまと東の女神さまに手招きされるので、グイーさまに視線を向けると一つ頷き問題ないと教えてくれた。
仕方なく北と東の女神さまの間にちょこんと私は腰を下ろして、当事者でもないのに……いや、当事者か。一応、引き籠もり解消に手を出したのだから。家族でもないのにと首を傾げながら、神さまたちの緊急会議に加わることになる。
「さて、数千年引き籠っていた理由を教えて貰おうか?」
グイーさまが腕を組んで真剣な眼差しで西の女神さまに問う。西の女神さまは静々と西大陸の人間はもう自身の手を離れたこと、それによって管理がつまらなくなったことを上げ引き籠もりになったと教えてくれた。外に興味を持って出てきたのはご意見番さまの生まれ変わりを見つけたからだとも教えてくれる。私はクロに視線を向けると、こてんと首を傾げるだけだ。
とりあえず西の女神さまの引き籠もりは解消されたようだから、あとは元通りに過ごして頂ければ西大陸消滅はなくなるのだろうと私は安堵の息を吐くのだった。






