1027:偶には息抜きを。
私の目の前には麦畑が一面に広がっている。凄く遠くに山が見えているのだが、そこまで遮るものが一切ない。視界の端に禁忌の森が映り込んでいるけれど知らないフリをしている。本当に元バーコーツ公爵領は小麦の一大産地なのだなと私は隣にいる方を見た。
「凄く広いですね……流石、侯爵領です!」
フィーネさまが感嘆の声を上げ、眼前にあるとても広い作地面積の小麦を見て目を細めていた。私の後ろに控えているソフィーアさまとセレスティアさまは『確かに広いが……』『広いだけですものねえ。元バーコーツ領は』とフィーネさまに伝えたそうな雰囲気を醸し出している。
確かに元バーコーツ領、現アストライアー侯爵領は土地こそ広いものの、小麦の生産地ということで領都も他の侯爵家や公爵家の領都と比べると、こじんまりしている。やたらと領主邸だけは広いのだが、街の規模は『街』というより『町』という雰囲気だ。
一応、代官さまには灌漑工事と新規作付け面積を増やすことと共に領都の発展をと伝えている。とはいえどう発展させるかは領主の判断が必要だ。新たな産業として、軍馬の生産、鍛冶や陶芸……と頭を捻っているものの、実入りの良い職や生産品なんて簡単に思いつかない。ゆっくりで良いことだけれど、領地の皆さまの懐が潤えば領主である私の懐も潤う。どうにかしてなにか考えださないといけないなあと、常に頭のどこかで考えている最中だった。
「広いですよねえ……」
私はフィーネさまから視線を外して真っ直ぐ前を見る。秋収穫の小麦が黄金色に輝いて風に穂を揺らしていた。どうしてアルバトロス王都の子爵邸にいるはずの彼女がアストライアー侯爵領に赴いているのかというと、単に皆さまが暇だったからである。
聖王国の状況は教皇猊下が頑張ってどうにかなっている様子である。ただ今回、各国に黒衣の枢機卿さまがやらかしたことが広がり、大聖堂に訪れる信徒さんの数が減っているそうだ。
何故か、アルバトロス王国のアストライアー侯爵には喧嘩を売るなという噂が市井にまで流れているようで、私は頭を抱えてしまいそうになった。子爵邸の皆さまは『ようやくか』という顔で、困っている私を見下ろしていたけれど。
本当に黒衣の枢機卿さまは余計なことをしてくれた。やはり大聖堂を彼の目の前で破壊しておけば良かったと考えるものの、教皇猊下が頑張っているのでできなくなってしまったのは残念である。
今回、フィーネさまがアストライアー侯爵領を見学することになったので、アリアさまとロザリンデさまも一緒である。フィーネさまを挟んだ反対側に二人も立っていて、超広い小麦畑に目を細めていた。
「ナイさま。毛玉ちゃんたちが走り去っていきましたが、放っておいて良いのですか?」
アリアさまが心配そうに私を見ながら問いかけると、私たちの側にいたヴァナルが腰を上げ彼女の隣に腰を下ろす。
『そのうち戻る。心配いらない』
ヴァナルの言う通り、毛玉ちゃんたちは何度かアストライアー侯爵領に訪れているので土地勘が身に付いている。延々と続いている真っ直ぐな農道を五頭みんなで駆けていったのだが、直ぐに戻ってくるはずだ。
毛玉ちゃんたちは聖王国からヴァナルと雪さんと夜さんと華さんが戻ってきた時は、寂しくて彼らにぴったりとくっ付いていた。時間が経ち寂しさが紛れたのか、毛玉ちゃんたちの行動は以前より範囲が広くなっている。もしかして親離れ、仔離れの時期が近づいているのだろうか。本当に仔の成長は早いものである。ユーリも毛玉ちゃんたちもグリフォンさんたちや竜の仔たちも問題なく成長している。
「迷子になりませんの?」
ロザリンデさまがアリアさまの隣で首を傾げた。今度は雪さんたちが立ちあがり、ヴァナルの隣に腰を下ろす。そうして彼女たちはロザリンデさまの顔を見上げた。
『鼻が良いので、迷子になれば匂いで戻れますよ』
『仔たちも大きくなりましたねえ』
『そろそろわたしたちは必要ないのでしょう』
返ってきた答えにロザリンデさまは安堵の息を吐いている。毛玉ちゃんたちを産まれた頃から見ているので、彼女の中ではまだまだ手の掛かる仔供というイメージのようだ。でも、雪さんたちの言葉から察するに、やはり親離れ仔離れの時期がきているのだろう。
毛玉ちゃんたちのフソウ行きを少し早めてしまっても良いのだろうか。フソウはいつでも受け入れ可能だよと言ってくれているので、ヴァナルと雪さんたちとフソウで、毛玉ちゃんたちの移動の時期見直しをしても良いのかもしれない。寂しくなってしまうが、毛玉ちゃんたちの成長を喜ぼう。アリアさまはヴァナルの頭を撫でながら、毛玉ちゃんたちが消えて行った方を見つめていた。
「さて、領都に戻りましょうか。特にこれといって見るものがないのが侯爵領の弱い所でしょうか……食べ物関係は子爵領に分があります」
「ナイさま、小麦も大事ですよ」
私のぼやきにフィーネさまが励ましてくれる。もちろん小麦が大事なことは承知しているし、そのために備蓄庫――不作などを考慮して――を領都内に新たに建設しようと計画している。とはいえ、子爵領のお試し感覚で運営している畑はこちらにはないので面白味には欠けているのだ。もちろん収入は侯爵領の方が多いが、やはりもうひとつくらい産業があっても良いのではと思ってしまう。
「なにか良い産業があれば良いのですが」
「うーん……侯爵領は広大ですし、観光でこられる方が増えそうですよ?」
ぽつりと呟いた私にフィーネさまが少し考えた様子を見せながら答えてくれた。観光といっても侯爵領に見るところや楽しめる場所は皆無である。
これから先、遊園地でも作れば集客が期待できそうだが、今の技術力ではジェットコースターや観覧車を作るのは無理だろう。お化け屋敷とかならどうにかできそうだけれど、幽霊が寄り付いたら困るので断固作らない。フィーネさまは私が悩ましい顔をしていることが分かり、苦笑いを浮かべながら口を開く。
「だって、ナイさまがいれば魔獣や幻獣の方が自然と増えているではありませんか。好きな方にはたまらないでしょうし、一目見たいなら侯爵領に赴くのが一番かと。あとは王都でしょうけれど」
彼女の言葉に激しく首を縦に振るかたがいるが放置で良いだろう。野生の魔獣や幻獣さんが増えることはないけれど、天馬さまとヴァナルと雪さんたちの仔は増える予定である。お猫さまも仔を産むのを数年我慢していたので、そろそろ考えていそうだ。
フィーネさまの言う通り増えることはあっても、減ることはなさそうだなと目を細めた。竜のお方が卵さま爆撃をかますことはない――ディアンさまにお願いして止めてもらっている――ことが唯一の安心できることだろうか。
あれ、でも子爵邸に遊びにくる小さい竜のお方は増えているな……侯爵領の宿を増やした方が良いだろうか。農業ができなくなった年配の方たちの職場に丁度良さそうである。宿があるなら、温泉施設もと考えてしまうのは日本人の考えだろうか。観光抜きでも、農作業後に自由に入れる場所があるなら便利だし、公衆衛生の観点から身を綺麗に保てば病気に掛かり辛くなる。
「観光地化は考えていませんが、少し試したいことができました」
「ナイさま、お聞きしても?」
フィーネさまが首を傾げるので、先ほどまで考えていたことを伝える。ソフィーアさまとセレスティアさまとロザリンデさまも興味が沸いたようで、今の話を各家に報告しても良いかと問われる。
三人であれば悪いようにはならないだろうと私は許可を出した。そしてフィーネさまも聖王国に戻れば、小さい規模の温泉施設があっても良さそうだと良い顔になっている。
聖王国は聖女さまが焚いたお風呂、と銘打てば人気がでるのではないだろうか。魔力を放出しながら焚けば、お湯に魔力が宿る可能性もありそうだ。四人で面白そうだと語っていると、アリアさまがしょんぼりしているので話に誘ってみる。
「アリアさま、お風呂は好きですか?」
「えっと……南の島でみなさんと入ったのは凄く良い経験でした。また一緒に入ってお喋りしたいです!」
へらりと笑うアリアさまに釣られて、みんなが笑う。お風呂文化は日本ほど浸透していない。水資源が貴重である故に、魔術具で簡単にお湯を沸かせることができなければ薪代も掛かってしまう。王都は水源から水を引き十分な量が確保され、教会宿舎では不便を感じていなかった。侯爵領も領都は十分な水源を確保しているので、お風呂に困ることはないだろう。
でも領都を出て、領内の町や村になれば水事情は一変する。この辺りも改善の余地はあるなと気付けたので、フィーネさまたちと話をして良かった。
「南の島は来年も赴く予定なので、また招待状を出しますね。都合が合えば是非参加してください。たくさん人がいた方が楽しいですから」
「はい!」
私の言葉にアリアさまが元気良く返事をくれた。何故か私の服の裾を引っ張る人がいるので、リンだろうかと右側に顔を向ける。私の服の裾を引っ張っていたのはフィーネさまだった。
彼女の珍しい行動に首を捻っていると『私も行きたいです!』と顔にアリアリと書かれていた。もちろんお誘いしますと伝えて、エーリヒさまを誘うのも忘れないようにしなければと頭に刻み込む。多分、来年の夏も彼女は聖王国で大聖女さまを務めているだろう。立場は以前より変わっているかもしれないが、フィーネさまの聖痕は消えていない。
「フィーネさま……」
ふと、気付いたことがある。
「どうしたんです、ナイさま。凄く深刻な顔になっていますよ?」
こてんと顔を傾げるフィーネさまに私は口を開いた。
「聖痕をキスで消しておけば、フィーネさまは聖王国から解放されていたのでは……?」
そう、そうなのだ。エーリヒさまとキスをすれば彼女の聖痕は消え、大聖女の立場も消えてしまう。聖王国という宗教色の強い国で、聖痕が消え大聖女の位から降りた彼女に求心力が残るのかと言えば否だろう。
そうなっていれば私は遠慮なく聖王国を潰していたかもしれない。でもフィーネさまがいなければウルスラさまは放置していただろう。やはり現状がベストかと私が小さく息を吐けば、フィーネさまは顔を真っ赤にして右手を身体の後ろへと引いた。
「…………エーリヒさまとキ、キ、ちゅうなんて恥ずかしくて無理ですっ!」
彼女の後ろに回された右手が私の背にぺちんと当たる。痛くはないけれど良い音が周りに響いた。きゃーと照れているフィーネさまに呆れ顔を浮かべているソフィーアさまとセレスティアさまに、アリアさまは微笑ましそうに彼女を見ていた。
そしてロザリンデさままで顔を赤く染めて、なにやら考え込んでいる様子である。私の護衛で後ろに控えているジークとリンは我関せずだし、クロはお昼の陽気に誘われて呑気にあくびをしていた。まあ、偶には惚気も必要かなと肩を竦めて、領主邸へとみんなで戻るのだった。






