1006:聖王国の空の上。
アルバトロス王国を飛び立ってから一時間ほど経っている。俺、エーリヒ・ベナンターは聖王国のフィーネさまを迎えに移動中である。馬車ではなく天馬さまのエルの背中に乗って。どうしてこんなことになってしまったのかとぼやきたくなるが、フィーネさまの立場が弱くなれば聖王国は潰れてしまう可能性が高い。
アルバトロス上層部はそれを望んでいないし、周辺各国も望んでいないそうだ。時代的に宗教は民の方々の心の拠り所であり、シンボルとして生かさず殺さずくらいで成り立っていて欲しいとのこと。存続して欲しい理由がアレな気もするが、そういうものだろうと俺は納得した。
秋晴れの空の下、天馬さま四頭とグリフォンさまとスライムと俺で空を飛んでいるのだが割と早い速度で移動をしていた。そして俺の肩の上には何故か妖精さんが腰掛けている。
ナイさまから一緒に連れて行って欲しいとお願いされたのだが、あー……と納得せざるを得なかった。おそらくナイさまの魔力を対価になにか妖精さんたちにお願いをしているのだろう。本当にナイさまは魔獣に幻獣、不可思議な生き物に縁がある。
俺の眼下には街や村がかなり小さく映っている。地上を見れば、ひゅっとなにかが縮こまりそうだった。
「も、もう少し低い所を飛んでも良いのでは……」
俺は天馬さまのエルの背に乗って移動をしている。黒天馬のルカの背に乗って移動すると、凄い速さで聖王国に辿り着くそうだ。フィーネさまの下へと早く行きたい気持ちはあるものの、事故で死んでは元も子もない。
お願いだから普通の速さで移動して欲しいと懇願して、今の速度となっている。それでも速い気がするのは生身で天馬さまの背に乗っているからだろうか。落ちれば紐なしバンジーなのだから。
『それは構いませんが、低い所を飛べば騒ぎになってしまいますよ?』
エルが俺の方へと顔を向けた。
「あ、ごめんなさい。なんでもないです」
エルの言葉にそうだったと低い位置を飛んで貰うのは諦める。ナイさまの下で暮らしている天馬さまとグリフォンだとアルバトロス王国の人であれば気付くのだが、他国となれば微妙である。アルバトロス王国の近隣国であれば知っている人は多いかもしれないが、聖王国に近づくにつれて知らない人は増えるはず。大騒ぎにさせる訳にはいかないと、高度を下げて貰うのは諦めたのだ。
『怖くはありませんか? かなり緊張されている様子なので……』
「大丈夫だよ。エルの背中は揺れないし快適なんだけれど、俺がミスをして落ちると……ねえ?」
エルは凄く優しいし優秀である。ヴァイセンベルク嬢に乗馬のイロハを教わった時もグダグダな俺に文句ひとつ漏らさず付き合って貰っていた。その横でルカが自分に騎乗してくれないことで不機嫌になっていたのはご愛敬なのだろう。
教習が終わったあとヴァイセンベルク嬢がルカの背に跨って子爵邸の庭を爆走していたとジークフリードから聞いたのだが、知らないフリをしておくのが紳士として正解だ。
そういえばジークフリードから借り受けた長剣は俺の腰に下がっている。一度くらい佩いてみたいと考えていたのだが、こんなにずっしりと重いとは。俺の身体がいつもより左側に傾いている気がする。
『その時はルカが助けてくれます。息子の飛ぶ速さは並の天馬の比ではありませんから』
「そうならないように手綱を確り掴んでおくよ。それにあの聖王国の枢機卿さまがナイさまを怒らせる前にフィーネさまをアルバトロスに連れていかないと」
本気で紐なしバンジーは勘弁してくださいと願いながら、これからのことを考える。黒衣の枢機卿の態度とフィーネさまからの手紙の内容を鑑みるに、絶対にナイさまに喧嘩を売る。
ナイさまはのらりくらりと男の言葉を躱すかもしれないが、我慢した末にブチ切れる可能性だってあるのだ。俺は男の嫌味な態度を直接見ているし、大聖女ウルスラの力が凄いだけであって男が凄い訳じゃない。自慢したり、力を誇示したいならば自分のことでやらないと小者臭が凄かった。
しかしまあフィーネさまも大変である。聖王国にまともな人材がいれば苦労しなかっただろうに。いや、でも聖王国がまともだったら俺はフィーネさまに出会えていない。そこだけは感謝しなければならないだろう。
『急ぎますか?』
「いえ、このままの速度を維持で……」
エルと俺の会話にジョセとグリフォンさんが笑っている。速度を上げようと思えば、まだ上げられるそうだが俺の身の安全を確保させてください。急いでいるのも理解しているけれど、やはり落ちたくはない。そうしてまた一時間ほど経てば聖王国の大聖堂が見えてきた。アルバトロス王国では教会で昼食を摂っている頃だろう。
聖王国には少し前にお邪魔したはずなのに何故か凄く懐かしい。フィーネさまは官邸の中にある一室で毎日を過ごされている。
「えっと……通信機っと」
俺は小さく呟いてポケットの中に仕舞い込んでいた魔石を取り出した。お迎えがどこにきているのか分からなければフィーネさまが困るのではと気にしていたのだが、ナイさまがきっちり対策をしてくれていた。ヴァナルに通信機器を渡していたようで、連絡は安易に取れるそうだ。
魔術式を刻み込まれた小さな魔石を手に取って俺の魔力を注ぎ込む。魔力に反応して魔石に少し熱が点る。
「あ、あー……あ。聞こえますか、エーリヒです」
ヴァナルが通信機を持っていることはフィーネさまは直前まで知らなかったそうだ。連絡が安易に取れると分かれば、手紙での報告が疎かになってしまうとナイさまが言っていた。
音声は証拠として残らないけれど、手紙であればきちんとやり取りをした証拠として残ると言っていたが個人の手紙を開示することになるのだろうか。
『――エーリヒ。ヴァナル』
「ヴァナル。フィーネさまの護衛お疲れさま。神獣さまもありがとうございます。フィーネさまはいらっしゃいますか?」
俺が声を上げると少し離れた所から『ご丁寧にどうも』『お優しい方ですねえ』『フィーネさんは良い番を見つけましたね』と神獣さまの声が聞こえてきた。そしてゴンとなにかにぶつかる音が聞こえると『痛い……』とフィーネさまの声もほどなくして上がる。
どうやらなにかに身体をぶつけたようだが大丈夫だろうか。心配しつつも空を飛んでいるままじゃあ助け船も出せやしない。もどかしいなとむっと口をへの字にしていると、パタパタと可愛らしい足音が通信機越しに聞こえた。ヴァナル、エーリヒさまですか!? と嬉しそうな声が俺の耳に届くと無言でヴァナルがフィーネさまに通信機を渡したようだった。
『エーリヒさま! フィーネです! 声が聴けて凄く嬉しいですが、もう少し待てば直接お会いできるんですよね!?』
「はい。もう直ぐ官邸に辿り着くので準備をお願いします」
凄く嬉しそうなフィーネさまの声に俺の頬も緩みそうになるが我慢をする。俺は今仕事中だし、ちゃんとナイさまの使者として振舞わなければ。だというのに『フィーネさんは嬉しそうですね』『デレデレですねえ』『恋する乙女です』と神獣さまの声が聞こえて、俺は少し恥ずかしくなってきた。
もしかして俺たちの関係はヴァナルと神獣さまにもバレバレなのだろうか。そういえば先ほど『番』と神獣さまが呟いていた。あ、駄目だ。ヴァナルと神獣さまにも露見していると恥ずかしくなっていると、フィーネさまの声が聞こえる。
『分かりました。ナイさまが怒っていなければ良いのですが……あの人、凄くマウントを取ろうとしますから』
「心配ですが、ハイゼンベルグ公爵閣下が行けと命じなければナイさまはギリギリまで我慢するのでしょうね。まあ……その時が一番怖いのかもしれませんが」
公爵閣下がGOサインを出せばナイさまは凄く良い顔で黒衣の枢機卿に立ち向かうのだろう。でもそれまでは我慢しているだろうから、溜まりに溜まったものが溢れ出なければ良いのだが。
無理だな、無理だ……と頭の中で黒衣の枢機卿が粉微塵になっているところを想像していると、聖王国の大聖堂と官邸が俺の視界に映る。
そうして官邸の上空を何度か旋回している間に俺が仮面を身に着けると、ルカが凄い音量で嘶きグリフォンも『ピョエーーーー!』とけたたましい鳴き声を上げるのだった。その声に驚いて聖王国に住まう方々や大聖堂、そして官邸の窓から顔を出す方々が多くいる。
フィーネさまも部屋のベランダから姿を現して俺の方を見上げていた。フィーネさまの部屋の少し離れた窓からはアリサ・イクスプロード嬢と先々々代の教皇も顔を覗かせている。
頃合いだと俺は息を吸って吐いてを繰り返し、ナイさまが認めた書状を取り出した。相変わらず筆圧の高い立派な文字だと苦笑いを浮かべて書状を官邸に向ける。
「聖王国の方々に告ぐ!! 私はアストライアー侯爵閣下の命により馳せ参じた! 三年前の出来事を省みず、己の欲望に走る者と保身を図る者が大勢いると、聖王国を憂う妖精から閣下の下へ話が舞い込んだ!」
妖精さんは憂いているというよりは面白がっていた。俺の肩の上でピカっと光り存在をアピールしている。ナイさまの祝福を受けていないと、妖精さんを視認することは難しいらしい。
俺はナイさまの祝福を受けていないのに何故か妖精さんたちが見えていた。不思議だが、神さまの島に足を踏み入れたことやナイさまの側に結構いるから彼女の魔力の影響を受けているのだろうか。あ、口上を続けないと。
「大聖女フィーネに頼り切った姿勢やアストライアー侯爵閣下を利用しようと試む姿勢は見逃せない! よってアストライアー侯爵閣下の無二の友であるフィーネ・ミュラー嬢の引き渡しを要求する!」
ちなみに俺の口上はナイさまが考えたらしい。そして俺の持つ書状はいつもより気合を入れて書いたから筆圧が更に高くなったと言っていた。
「アストライアー侯爵閣下の使いの方!」
フィーネさまがベランダの縁に手を掛けて俺を見上げていた。彼女は俺だと知っているけれど、他の方は仮面を被った奇妙な男が叫んでいるとしか考えていないだろう。そしてナイさまの使者なので無理矢理に捕まえようとはしないはず。
そもそも現時点で騎士や衛兵を配備できていないのは平和ボケしていると言わざるを得なかった。アルバトロス王国なら、弓に矢を番えた腕自慢の騎士が狙いを定めているはずだし、魔術師も配備されている。
「私を攫ってくださいませ! 聖王国の大聖女を務めることに嫌気がさしてしまいました! この国の上層部の皆さまは自力で物事を解決するという尊い意志を失っております!」
フィーネさまが叫んでいるが、これは黒衣の枢機卿を止めるための大嘘である。フィーネさまが本当のことを打ち明ければ聖王国上層部の方たちは彼女を頼ってしまう。三年前にフィーネさまが奮起したというのならば、次に奮起しなければならないのは彼らでなければならないのだから、聖王国の人たちが真実を知る必要はない。
フィーネさまはフィーネさまでアルバトロス王国にいる黒衣の枢機卿を止めるという目的と、大聖女ウルスラにきちんとした知識を身に着けて欲しいという願いがある。
大聖女ウルスラにきちんとした教育を施したいのであれば、黒衣の枢機卿から彼女を解放しなければならない。それなら聖王国よりアルバトロス王国の教会の方が向いているとナイさまとフィーネさまが相談した結果である。
「承知した! さあ、私の手を取ってください」
「はい!」
フィーネさまが俺に向かって手を差し伸べる。エルがゆっくりと彼女が立つベランダに近づいて、俺の手と彼女の手が交わった。聖王国の皆さまは大聖女が国から逃げるというのに、口を開けて呆けているだけだ。
したり顔をしているのは先々々代の教皇と現教皇猊下であった。彼らもまた難しい立場にいるなと目を細めながら、フィーネさまをエルの背に引っ張り上げた。
さて、今回の俺とフィーネさまのやり取りは聖王国に住まう方たちも見ている。三年前、ナイさまが聖王国に訪れたことは聖王国国民の方にはあまり知られていないのだ。
騒ぎになるだろうなと聖王国の小さな街を見下ろしながら、ゆっくりとベランダから空へと上がり俺の後ろで腕を回している彼女の温もりに安堵する……したいけれど、この先を考えると不安だと目を細めるのだった。
あ、ヴァナルと神獣さまたちはベランダから降りて走って、アルバトロス王国に戻る予定だ。各国に聖王国の噂を流すため、元の大きさで移動をするとのことである。






