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私の中の先生

作者: 小城

 この物語はフィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。

 私の中には、先生がいる。先生に名前はない。

「おはようございます。」

 私の名前は、小野こまち。企業と大学を結ぶ学術研究員をしている。

「こまちさん。この前のプレゼンよかったね。」

「ありがとうございます。」

 学術研究員は、大学によって、その職務は異なるが、私の場合は、大学で行われている研究を企業に紹介し、新たな商品や技術の開発を促進している。その過程で、プロジェクトを立ち上げる必要があれば、知財権のことなども考慮して、チームを組む。今年に入って、私は、生物工学により作り出された酵母菌の活性化を利用した飲料の開発を食品工業メーカーと、分子工学による新たな分子を利用した色繊維の開発を繊維メーカーと、伴に、始めていた。

 学術研究員には、研究内容を理解する学問的素養とそれを分かりやすく企業に伝えるコミュニケーション能力が不可欠であると、私は思っている。しかし、何より、大切なものは、熱意と情熱に他ならないことは言うまでもない。


「おはようございます。」

 私は、大学院を卒業後、一般企業で働いていた。といっても、それは研究職としてではなく、営業を希望した。その方が、自分の能力を開発できると思った。そして、その企業で数年間、働いた後、今の学術研究員になった。

 この仕事は、とてもやりがいがある。自分のプロジェクトにより、社会と企業と学術研究、それぞれに恩恵が生まれたときは、私は、自分の価値を存分に感じることができた。それで、良いと思っていたし、実際、周りから見ても、それは良いことだったのだろう。

 それでも、私は、何故か、学術研究員として、働き出して、4年目に、体調を崩してしまった。うつ病だということだった。進行中のプロジェクトは、同僚に交代をよぎなくして、私は、休職することになった。


 自宅で療養しつつ、病院に通い、治療をした。

「私は、本当にうつなのでしょうか?」

「心当たりありませんか?」

 私の不調に、最初に気が付いたのは、同居している母であった。そして、次に気が付いたのは、職場の同僚だった。明らかに、様子がおかしいということで、かかりつけ医の診断を受けた所、心療内科のクリニックを紹介されて、今に到る。

「焦らず、ゆっくりと治療していけば、必ず良くなりますから。」

 私に、自分が病気だという自覚はない。しかし、カウンセラーのその言葉に、どこか安心した自分がいたことも事実だった。


 私は、今、無為な一時を過ごしている。そう思っていたが、実はそうではないということに、最近、気付き始めた。それは、先生のおかげだった。先生は、実在の人間ではない。どこの誰かも分からない。しかし、それは、おそらく、私の中に、伴にいるのだと思う。

 夜半に、目が覚めると、額に血が滲んでいることがあった。それを、私は、最近、気が付いた。日中でも、いつの間にか、私は、壁に向かって、何かを話しているのに気が付いた。

「もう、一年くらい前からよ。」

 その姿は、母に度々、目撃されていたようだった。

「どうしたのって、聞いても。何でもないよ。って、あなた、言うし…。」

「お母さん、それ、本当?」

「覚えてないの?」

 覚えがなかった。私の記憶の中には、大学のオフィスで、研究者と企業を相手に、未来を語っている私の姿しかなかった。

「見ないようにしてたのかしら?」

「私が?」

「うん。」

 それは、母の何気ない一言であったが、私は、本当に、私という存在自体を見ることなく、過ごしていたのかも知れなかった。


 先生は、私とは違う。彼は、自分のことを、言葉にして、綴る。そして、それを見るのは、私だった。何もすることがない、日常で、日課と言えば、近くの公園の散歩と、先生が書いた文章を見ることくらいである。散歩も、その日の天候や体調によって、行けないときもある。そのような時は、日ねもすがら、パソコンとにらめっこしていた。

「かつては、こんな時が来るなんて予想もしなかったなあ…。」

 かつてのスーツ姿の私は、どこかに消えて、一日中、スウェットに体を包んだ女子がいるだけである。今では、もう、大学や同僚のことも、蜃気楼のように、ぼやっとした曖昧なものになってしまった。


 それでも、私は、どうにか、一年近い治療の後に、職場に戻ることができた。

「こまちさん。もう無理しないで下さいね。」

「ありがとうございます。」

 私が学術研究員の職に戻れたのは、同僚たちの協力が大きかった。オフィスには、私の知らない人もいたが、それなりに、私も、新しく職場に慣れたような気がした。

「ありがとうございました。」

 私の通院は、未だ続いている。それでも、まだ、感謝しなければならなかったのは、先生であった。彼の文章は、商業的にも、学術的にも、それほどの価値はなかったと思う。それでも、私は、それがそこに存在していたことに価値があるのだと思う。

 私の中の先生が、何のために、物語を綴っていたのかは、結局、分からないままだった。それでも、先生がいたからこそ、今の私があり、新しい一歩を踏み出すことができたのだと思った。そう思うと、私が過ごした、この一年近くの時間は、決して、無駄なものなどではなかったのだと思う。それはそこにいただけで、存在的価値があったのである。

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