五夜 閉界の章
「これがわたくしが今まで体験してきた、一部始終でございます」
そう言って男は、常と変わらない、あるかなしかの笑みを口元に広げたのだった。
※ ※ ※
「……急に押しかけてきて一方的に語って、……貴方様は一体、何をおっしゃりたいのです?」
どことも知れない小さな屋敷の、とある室の中だった。私は文机の前に据えた円座に座したまま、どこからともなくフワリと現れた目の前の男の話を聞いている。
「そういう経緯があって、わたくしはこちらまで参りました。どうかあれを、お返しいただけないでしょうか?」
淡い色の袍を纏った年若い男は、名を名乗ろうとはしなかった。それは術師としての当然の用心のためなのか、それとも私が男のことを知っているという前提に基づいているためなのか。
「貴方様の言う『あれ』とは、お話の中に出てきた死気桜の化生のことでしょうか」
「はい」
「なぜ、ここにいると断言できますか?」
「貴方も並み以上の術師であられるようだ。ならば、なぜわたくしが分かるかなど、説明などされなくてもお分かりになられるでしょう」
そう、私には、分かる。男がまっすぐここへやってきた理由も、穏やかな表情の裏で渦巻く男の情念も。
「……嗚呼、美しい」
私は思わず呟いていた。
「何と美しいことでしょう。常に水鏡のように凪いでいた貴方の内側に、こんなにも色鮮やかな感情が躍る日が来ようとは」
「わたくしの情は、どんな色をしておりましょうか」
「はて、己では見ることができませぬか」
「己の内側ほど、見えにくいものはございません」
男の言葉に、私はふむ、と息を吐いた。確かに男の言葉には一理ある。
私はひたと男に視線を据え直した。
私に最愛の女を奪われたというのに、そんな私と相対する男はこの室に入ってきた時から表情も態度も変えていない。春の空気のようなと例えるには静かすぎ、冬の空気と例えるには穏やかさが足りない。常の人間ならば、その異常さにそろそろ自滅を始めている頃合いだろう。
「……そうですな。闇のようであり、干からびた血のようである」
私は見えたままを率直に口に出した。
「ドロドロと渦巻く様は、まるで地獄の釜のようです。ならば常の静けさは、極楽の空気というべきか」
「ほう? そのような」
「ええ、実に恐ろしく……」
……実に美しく、実に楽しい光景です。
私の言葉に脅えたかのように、燈明の灯りがジジッと微かに音を立てた。そんな音さえ耳に響く、静かな夜だった。
「……さて。貴方様は、ここへ想い人を探しにいらっしゃったのでしたね」
お好きなだけお探しください……と私は屋敷を示した。
その言葉に軽く一礼した男は、体重を感じさせない軽やかな動きで立ち上がる。
「最期にひとつだけ、お伺いしても?」
男は立ち上がったまま、その場を動かずに問いを投げてきた。
「ここまでのことをして、貴方は一体何がなさりたかったのです?」
「……さて、何がしたかったのでしょうね」
男を狩れば名が上がる。商売敵にあたる男の存在が邪魔だった。誰かに男の呪殺を依頼されていた。強い式を己に被害を被ることなく手に入れたかった。
理由はいくらでも湧いてくるようにあったはずだ。
「強いて言うならば、その焔を」
だが私は男を真っ直ぐに見つめ返すと、そのどれでもない理由を口にしていた。
「貴方の胸に渦巻く焔を、私の手で表に引きずり出したかったから、ですかね」
男の存在を知ったのは、数年前のこと。
向こうは陰陽寮に属する陰陽師。私はしがない官吏をしながら、在野の外法師として日々ささやかに術を振るう存在。
交わるはずなど、なかった縁。
だというのに私は、問答無用でこの男に魅入ってしまった。静かな笑みと、水鏡のように凪いだ心を持ちながら、闇のように凝った激情を弄ぶその在り様に、途方もなく関心を引き寄せられた。
──あの焔が全てをひっくり返して表に出てきたら、どうなるのだろう。呪い落せたら、どれだけいいだろう。
そんな感情は、あっという間に私の全身に燃え上がり、いつまでもいつまでも私をあぶり続けた。
「私が死気桜の化生を貴方の元から引き剥がしたのは、そのためです」
だがどうやら私は、その熱を癒すことなく散る定めにあるらしい。
ジワジワと、私を締め上げてくる呪いの存在があると、分かってしまう。これがあの死気桜の化生の実力なのか、それとも今まで背負ってきてしまった罪業によるものなのかも分からない。
「……人は相対する相手の中に、自分自身を見るそうです」
ただ分かるのは、今目の前でうっすらと笑っている男の方が、自分などよりはるかに上手であったということと。
「私の中に凝る闇やひからびた血を見たならば、それが貴方の中にもあるということです」
渦巻く情念も水鏡のような静けさも一緒くたにして、その混沌の中に立つこの男が、酷く怪しく、美しいということだけ。
「……貴方は、私の中に何を見ましたか?」
夜の静寂に咲くような。
嗚呼、これが、陰陽師。
「……特には、何も」
男は表情を変えることなく、終始静かな口調のまま私との会話を終わらせる。
「私は鳥や花を視るように、貴方を視ただけですから」
その言葉が終わるとともに一礼して、男は静かに室を出ていった。カタリと、かすかな音を残して妻戸が閉められる。
私が生きる世界も、閉じられる。
「……あな口惜しや」
……ああ、彼は、相当怒っていたのだ。私に見えていたのは、彼があえて見せていた一部分でしかなかったのか。
「あな恨めしや」
ならば、彼の本当の心の奥には。この夜の闇のような静寂の向こうには。
「……あな美しや」
一体、どんな華が咲いていたのであろうか。
そんなことを思いながら、空間ごと潰されていく自分に、私は心の底から笑みを浮かべていた。
※ ※ ※
陰陽師の勘は、外れない。
開いた扉の向こうには、舞い散る桜花と、濡れたように艶やかな黒髪と、すべてを染め替える白衣にあふれていた。
「咲耶、迎えに来たぞ」
男は声を掛けながら無造作に室内へ入る。男の足が乗った床板は、ミチリと今にも抜け落ちそうな音を立てた。見れば女が横たわる周囲だけ、まるで時の流れが違っているかのように床が古びている。
「……桜は美しい花を数多咲かせるために、多くの土の精を吸う。奥ゆかしい花を隣に植えれば、その花の精さえ吸い尽くしてしまうほどに」
男はふわりと笑みを深めると、気負うことなく女の枕元に膝をついた。生気を吸いつくされ死が空間を満たす間合いにためらいなく入った男は、そのまま体をかがめると女の唇に顔を寄せる。触れ合った唇はひんやりと冷たいのに、鼻孔に抜ける空気は甘美に甘く、微かに温かい。
「……残念なことに俺は、陰陽師を生業にしていてな」
しばらくその感触を楽しんだ男は、女を覗き込んだまま語りかける。
「生と死、光と闇、静寂と喧騒……。全てのあわいに立ち、どちらに惹かれることもなく、全てをゆるりと傍から眺めて生きていく生き物なのさ」
フルリと、いままで微塵も動こうとしなかった女のまつげが震える。まるで、花のつぼみが開こうとしているかのように。
艶やかに、徒人が立ち入れぬ静寂に、人を狂わせ、命を喰らって咲く華が、咲き誇る。
「ゆえにお前は俺を呪い落すことはできん。終生、俺の元で咲け」
「……口惜しいこと」
焦点を失った瞳で、それでも男の存在を捉えた女は、表情の抜け落ちた顔で呟いた。
「ただのヒトの子であればこの室に入った瞬間に、ただの陰陽師であったならば妾に口づけた瞬間に、その命の焔、全て吸い取ってやったものを」
「私の心に燃える焔は、地獄の釜のごときだそうだ。もう一度吸ってみるか?」
男は笑みの種類を変えると再び女に唇を寄せる。女は一度瞳をすがめたが、何も言わずにその熱を受け入れた。
人知れぬ闇の中。
ヒトの子は踏み込むことすら許されぬ静寂の中。
開いては消えていく花をただ眺めるだけの存在である男は、手折った華に心から満足そうな笑みを向けていた。