四夜 言糸の章
これはわたくしが先日、とあるお屋敷で遭遇したことなのですが……
※ ※ ※
温かな日差しが、惜しげもなく縁側に降り注いでいる。
右京に構えられた、とある屋敷である。酷く静かで、寂れた屋敷だった。生気に欠けた、いささか居心地の悪い静けさだけが屋敷中に満ちている。
男はそんな静寂を楽しむかのように、濡れ縁で穏やかに瞳を閉じていた。
今日は珍しく、色の濃い直衣に身を包んでいる。参内用の装束であった。
「待たせたな」
不意に、御簾を片腕で押し上げながら、新たな男が姿を現した。男を待たせたことを微塵も悪いと思っていないその声に、男は閉じていた瞼を静かに上げる。
男よりもいくつか年上の男だった。屋敷のどこかでくつろいでいたことを隠そうともしない、砕けた姿をしている。
「お久しゅうございます、橘の君。ご健勝のようで」
「そうだな、私は健康そのものだ。私の命よりも大切だった妹は冷たい土の下にいるというのに」
ドサリと、重たい音を立てながらこの屋敷の主は男の前に腰を下ろす。男はゆったりと下げた顔を同じ速度で上げたが、家主の言葉には答えなかった。
「あぁ、でも最近は、土の下にばかりいる訳ではないようだ」
主の言葉が、本題を前にした前哨戦にすぎないと、最初から分かっていたから。
「……人は死せば冥府に降り、生前の罪の裁きを受けると坊主どもは申されます。姫君が極楽へ旅立たれるとしても、今しばらくの時が必要かと」
「なに、我が妹は桜へ姿を変えたそうではないか」
家主の言葉にも男は表情を変えない。男の口元にはいつもと同じようにあるかなしかの笑みが広げられている。
対する家主の方は、機嫌が良さそうな笑みを広げていた。男が浮かべる微かな笑みをかき消そうとしているかのように豪快な笑みだ。
「そしてお前の下にいる」
断言した家主は男の内心を見透かそうとでもしているのか、グッと顔を近付けると男の眼を覗き込んだ。
「お前が囲っているという話じゃないか」
家主の瞳に映り込んだ男は、ピクリとも表情を動かさなかった。穏やかそのものの表情のまま逆に家主の眼を覗き込んだ男は、ゆるゆると唇を開いて言霊を紡ぐ。
「橘の君は、妹君恋しさに何か勘違いをしておられるらしい」
その言葉に、ピクリと家主の眉が跳ねた。
「人は、死したらすべからく冥府へ降るのです。そこに例外などありはしない。人は、死して桜にはなりませぬ。我が下に置いたのは桜の化生。橘の君の妹御、わたくしが病気平癒を依頼された橘の姫君ではございません」
「しかしその桜は、我が妹を苗床にして生まれたモノであるらしいではないか」
男の言葉は家主の意識を縛ろうと動く。だが家主の心は、陰陽師である男が紡いだ言葉を弾き返した。
「それが妹でなくて、何であると言おうか」
言霊によって編まれようとしていた網が霧散する。その糸の切れ端が、男の眼には視える。かき消されていく言霊の奥に見え隠れする、不穏な刃の存在も。
「あれは橘の君の妹姫ではございません。死気桜の化生でございます。人の屍を苗床にして育つ死気桜は、己に魅入る者の命を吸って生きる。徒人など、隣に立っただけで数刻ののちには息絶えましょう。あれをお譲りすることはできませぬ」
「……ではなぜ、お前はあれの傍らに立っていられる?」
言葉は刃であり、糸である。
家主の言霊を言霊の刃を以って払いのける男に、家主は新たな糸を放つ。視える者が視れば、二人の間に飛び交う糸くずが無数に視えたことだろう。
「陰陽師とは、光と闇のあわいに生きる者」
男はうっすらと笑みを浮かべたまま家主を見やった。徒人には視えない糸が差し込む日差しの下に輝く様は、酷く美しかった。
「人であって、人ではないのです」
恐らく主の眼には、この糸が映ってはいないのだろう。男がその美しさの下に隠し持った刃も、家主が己の武器であると思い込んでいる刃の先が、家主自身の喉元に向いていることも。
「橘の君。貴方様にそのような世迷い事を吹き込まれたのはどこのどなたです?」
その刃が、ジワリと、さらに角度を家主の方へ向けた。それを理解し、視ていても、男はそれを家主に伝えようとはしない。
もはや伝えても、意味などないのだから。
「何を言う。私は、誰の手も……」
「どなたです? わたくしの屋敷の周囲を夜ごと徘徊する式も、かの化生の根本を脅かそうとする呪詛も、貴方様の手に余ります。どなたか、わたくしの同業者が手を貸しておいでのようだ」
「だから、私は誰の手も借りておらぬと……」
家主が否定の言葉を重ねるたびに、ジワリジワリと刃は回る。
男には、すべて視えている。
舞い散る糸の美しさも、刃がギラリと光る輝きも。屋敷の主がしこたま背負い込んだ因業も、罪科も、熱も、……その奥にある透き通った感情のうねりさえもが。
「……嗚呼」
男は懐から扇を抜くと、その先をついっと主の方へ向けた。
「何と、美しい」
三本の指で支えられていた扇が、スルリと指をすり抜けて落ちる。
その瞬間、ブツリと鈍い音が周囲に響き、男の視界は真っ赤に染まった。続いてゴトリと重い物が落ちる音が響く。サァサァと響くのは、穏やかな日差しの中に降り注ぐ深紅の雨の音。
「……人の子というのは、げに恐ろしや」
不意に、先日遭遇した辻神の言葉が脳裏をよぎった。
「あな恐ろしや」
姫君が情念を燃やすように男と対面させ、実らぬ恋に嘆く病身の姫君に命を懸けた呪詛を仕込み、呪い落すための妖を生ませ、その妖を手中に納める布石として兄までをも殺した。
それだけのことを、妖ではなく、人がなした。
人は妖よりも恐ろしく、あさましく、心に深い深い闇を飼う。
「……あな美しや」
だがそのことにも、男の笑みは崩れなかった。
口元にあるかなしかの笑みを浮かべたまま、男は静かに立ち上がる。男は肩から上を失った家主に軽く一礼すると濡れ縁から庭に降りた。
その瞬間、ブツリと男の中にあった何かが断たれた。走ったのは衝撃だけで、痛みは音よりも小さい。
『──っ!!』
「咲耶っ!?」
だが耳の奥のどこか遠い所で響いた絶叫が、何よりも男には衝撃だった。
「咲耶、咲耶どうした!? 咲耶っ!!」
屋敷に囲っていたはずの、最愛の女。式に降してからずっと意識の端で繋がっていた彼女の存在を、今男は掴むことができない。
「……なるほど。このための仕込みか」
男の穏やかな笑みを崩した衝撃は、数十秒で男の表面から消えた。
後に残ったのは、氷土に似た冷たさが漂う、感情の抜け落ちた面だけ。
「私の女に手を出したか」
その冷たさの中に、ほのかに笑みが宿る。常と同じ笑みは、男の冴え冴えとした冷たさの中にさらに冷気を落とした。
「どこの馬の骨か知らんが、……よろしい。相手になろう」
そのまま宙を見上げた男は、深く、深く、笑みを広げた。首を失った家主に通じる、狂気の混じった笑みを。
「どこへさらわれようとも……迎えに行くよ、咲耶」