二夜 辻神の章
これはわたくしが先日、とある辻で遭遇したことなのですが……
※ ※ ※
人の行き来が絶えた辻に、出るのだという。
「おや、お久しぶりですな」
先程まで周囲に誰もいなかったというのに、目を瞬かせると辻の角には一人の翁が立っていた。
昼日中、人の行き来が絶えた、右京外れの辻である。
人が良さそうにニコニコと笑いかける翁は、こざっぱりとした異国の官服を纏っていた。白く蓄えた髭と頭頂が禿げ上がった頭は、翁が並みの人よりも長命であることを物語っている。
「翁、こんな辻で何をしてみえるのです。噂になっておりますよ」
「はて、かく言う貴方様も、なぜここにおられるのかな? 今時分は大内裏で職務に励んでおられる頃なのでは?」
「少々、気になりまして。なぜ辻神様がこのような場所にお立ちになるようになったのかと」
その翁は、人気の絶えた辻に、唐突に現れるのだという。
『もうし』と声を掛けられて初めて、通りかかった人間はこの翁の存在に気付く。声を掛けてきた翁はしげしげと人の顔を眺めては一言二言、言葉を残していくらしい。唐突な言葉に、言われた当人は当然戸惑う。だが追及しようとしても、瞬きをした間に翁は忽然と姿を消してしまうらしい。そして残された言葉が、未来を見知っていたかのように良く当たるのだそうだ。
そのような話が瞬く間に宮中に広がった。
結果、宮中は翁の噂に惑わされ、身を滅ぼす者も何人か出た。ここまで事が発展すると、陰の面から京の安寧を守る陰陽寮もこの件を捨て置くことはできなくなる。
「なに、少々暇を弄んでおったのだ。ゆえに、人の子と遊んでやろうと思ってな」
「人の子全員があなたの言葉に耐えられるほど神経が図太い訳ではないのです。どうかお控えくださいませ」
辻神というモノは、決してヒトにとって良きモノではない。未来を示してくれるモノでもない。
どちらかと言えば、禍物である。
「これ以上遊んでおると、まさか貴方様が討伐に出てくるというのではなかろうな」
「わたくしの意思で討とうとは思っておりませぬ。ですが陰陽寮から命を下されれば、討ち手になる他ないでしょう」
「ぬ。それはそれは」
男の言葉を受けた翁の瞳が、ニヤリと厭らしく笑った。
「なれば早々に、告げようかのぉ」
そんな翁の輪郭が、徐々に周囲の空気ににじんでいく。
「桜姫様は、とある女の呪いが生んだ存在。桜という神木と姫の霊力のために生まれながらにして格が高い存在であられる。だが決して齢を経た妖ではない」
じっと見つめても、翁の口元はチラリとも動いていない。ヒトならざる存在である翁は、口を開かなければ言葉を紡げないという、ヒトの理には縛られない。
その動かない口元を見据えて、男は禍神である翁の言葉と対面する。
「桜姫様の生み親の兄君は、今も人として生きておられる。その兄君は、大層桜姫様の生み親を可愛がっておられた」
辻神の手足が消え、衣服が消え、最後に能面のような顔だけが宙に浮かぶようにして残される。
その瞳が心底楽しそうに歪み、最後の最後でその唇が動いた。
禍事を生み出す言霊が、紡ぎ出される。
「兄君が、桜姫様の存在に気付かれた。動く、動くぞ。貴方様のお力によって凍結されていた桜姫様の宿命が。あな恐ろしや、あな楽しや……」
その言葉を残して、辻神は空に溶けていった。
真昼の人気のない辻に、男が一人、残される。
「……何だ。辻神様は、俺をからかって遊びたかっただけだったのか」
辻神の言霊は、陰陽師である男には通じない。辻神自身もそのことは分かっているはずだから、あの言葉は心底辻神の本心なのだろう。
「……誰が何を仕掛けようとも、渡さぬよ。咲耶は」
辻神が消えても人の気配が現れない辻に立ち、男は凄絶な笑みを口元に宿した。
「人の業とやらは、奥深く、そして陰陽師とは、その混沌に住まうモノであるのだから」
※ ※ ※
……それ以降、右京の辻に翁が現れることはなくなったそうです。
それでも、辻神様のお言葉に踊らされた人々の生き筋は歪められたままでしょうが。まぁそこまでは、わたくしが負うべき領分ではございませんので。
ヒトならざるモノと気軽に交わってしまった責は、己で負わねばならぬものでございます故に。