一夜 老梅の章
これはわたくしが先日、とある夜道で遭遇したことなのですが……
※ ※ ※
ギッ、ギッ、と、牛車が軋む。
今宵は新月。陽が沈んでしまえば、平安の名を冠するこの京も闇の中に沈んでしまう。
灯りのない中をあえて行く者など、人目を忍んでの逢瀬に情緒を感じる天上人か、闇に顔を隠して悪事を働く下郎か、それくらいしかいない。
というのも近頃、京の中には世にも奇妙な噂がまことしやかに囁かれているのである。
「……ほう、出たか」
苦しげに上がっていた軋みが消える。それと同時に前方にぼぅっとした明かりを感じた男は、面白そうに口元に笑みを広げると牛車の前簾を片腕で上げた。
淡い色の袍を纏った男である。歳は、若い。口元だけにほのかな笑みを宿した面は、件の噂に直面しているというのにたっぷりと余裕を残している。
そんな男が、新月の闇の中に灯った青白い光へと笑みを向けた。
女、である。この闇の中でも分かる、たっぷりとした重い黒髪。重ねられた衣は紅梅の襲。その衣をユラユラと揺らめかせて、女の白い手が男を招く。
反対の手で掲げられた檜扇が顔を隠していてその相貌は伺えない。だが、……いや、だからこそ、というべきか。大路に佇む姫は、なぜかひどく美しく思える。
『……おいで、ください』
細い声が、呼ぶ。その声は、男が良く知る声だった。
焦がれに焦がれた女の声。真の声であれば、自分を無条件で狂わせることができるモノ。
そう、これが、真であるならば。
男はフワリと牛車から降りると女に近付いた。今宵も獲物が釣れたと思ったのだろう。女は梅が描かれた檜扇をずらし、その白い面を露わにしようとする。
「それ以上、顔を見せるなよ。……その声の主の顔を模しているのだとすれば、反吐が出そうだからな」
だが、男が動く方が速い。
宙を切り裂くように飛んだ符が、女が掲げる扇に鋭く貼り付く。
「この術は凶悪を断却し 災厄を打ち払う」
次いで放たれた言霊に、女がビクリと体を引きつらせた。ワナワナと体が震え、急速にしわがれた声が割れ鐘のような叫びを上げる。
『お前……術師かえっ!?』
その声に、男は答えない。袂を払った男は両手を揃えて柏手を打ち鳴らした。パンッと空気が震え、周囲に満ち満ちていた邪気がサッと霧散していく。
「相手が悪かったな三条の老梅。素直に住処に帰れ」
『おのれ……っ!! おのれっ!! 妾はまだ枯れる訳にはいかぬっ!!』
檜扇が打ち捨てられる。その下から現れた顔には、古木の幹のように深い皺が刻まれていた。
老婆が髪を振り乱し、長い爪を男に向ける。だが男が器用に指を組みかえながら呪を完成させる方が速い。
「玉帝有勅 霊宝符命 斬妖縛邪 万魔拱服 急々如律令」
『────っ!!』
男に爪が届く直前で女の姿が掻き消える。
のちに残されたのは尾を引くような断末魔の悲鳴と、微かな梅の香だった。だがそれも、男が佇んでいる間に闇に押し潰されて消えてしまう。
男は軽く息を吐くと、待たせていた牛車に乗り込んだ。
ギッ、ギッ、と、また苦しそうに車輪が軋む。
だがそんな時間も、長く続かなかった。
屋敷の前で牛車が止まる。夜半になり閉じられていた門は、牛車が前に止まるとひとりでに開いて主を迎えた。
ホロリと牛車が姿を崩し、男はフワリと地に降り立つ。コンッ、コロンッと男の足元に落ちのは、紙でできた張子の牛車だった。男はそれを取り上げて懐に入れると、歩いて屋敷の中へ入っていく。
「他の花のにおいがする」
だがその歩みは、車宿りから邸宅の中へ入ろうとした瞬間に止められた。
「あれほど妾のことを口説いたくせに、妾が屋敷に来た途端さっそく浮気か」
闇を払って立つ、女がいた。
幾重にも重ねた白衣。長い髪がその衣の上を滑り落ちている。険を纏っても妖艶な瞳。そして匂い立つ、人々を狂わせる、微かな甘い花の香り。
「浮気じゃないさ。一方的に絡まれたんだ」
男は女に笑みを向けた。先程まで浮かべていた笑みとは明らかに種類が違う、情の通った笑みを。
「今帰った、咲耶。悋気を起こしてくれるのか?」
「ただ不愉快なだけじゃ。妾を手元に置いておきながら、妾を蔑にするなど許せぬ」
女は、屋敷の外に出ていない。だというのに女は、まるで見ていたかのように男の身に降りかかったことについて語る。
「咲耶、お前、近頃京を騒がせていた大路の姫が、三条の梅の老木の精だと知っていたのか? 知っていたならば教えてくれれば良かったろうに」
「この程度で命を落とすならばそれまでのこと。妾が宿命を果たすまでもない」
女は言い捨てるとフッと姿を消した。その後に一枚、ハラハラと桜花が散る。
「相変わらず、手厳しい」
男は苦笑しながら桜花を手に取るとそっと唇に押し当てた。フワリと立ち上る香は、姿を消した女が纏っていたものと同じものだった。
「だが、そんな貴女だからこそ、ここまで焦がれた」
小さく呟いた男は、そのまま桜花を口に含んだ。そのままゴクリと桜花を飲み下した男は、笑みの種類をすり替えて呟く。
「まぁ、手荒だったとは思うが、どうせ人を殺して咲いていた花だ。これぐらいで丁度いいだろうて」
※ ※ ※
……後に、三条にお屋敷を持つ某様かの庭にあった梅の老木が、突如として立ち枯れてしまったのだとか。
昨今容色が衰えていた中、今年は盛り返して美しい花を咲かせていただけに、お屋敷の方々は大層お嘆きになられたとのことです。
元は白梅だったその老木が今年に限って紅い花を付けたのは、きっと人の生き血をすすって永らえていたからなのでしょうね。