『盗愛 -ヌスミアイ- 』
「白洲秋人君の話」(あくまで彼が言っていたこと)
僕が初めて窃盗に入った家は、僕がかつて好きだった女の子の家です。その子の家は、僕にとって重大な思い出の一つなのです。
僕は念には念を入れるタイプなので、先に家庭状況を調べました。一か月半ほどでおおよそのことが掴めました。彼女の父親はここ長らく家に帰っておらず、自分の実家に住んでいるらしいこと、母親は正社員として隣の市の会社に勤めているので帰りがいつも遅いこと、彼女の妹は二つ隣の市にある、母方の実家に住んでいる高校生であること、そして、彼女自身は現在、大阪市内で自分の部屋を借りて仕事をしていて、土曜日の帰りにはここの家か母方の実家かのどちらかに泊まること。土曜日は母親の帰る時間がいつもより早い夕方であること。その日は土曜日ではない平日で、確か水曜日だったかな?で、家の扉の前に立って腕時計の時間を確かめたのが昼の三時半でした。その後鍵をピッキングしました。
あと、重要なこととして、雨が降っていました。大雨ではありませんが、しとしと、しっかりと降る雨です。雨のおかげか、近隣には全く人影がありませんでした。また、ピッキングの金属音も雨の中に吸収され、安心して作業を行うことができました。
よって、彼女の家がバス停から遠く、それでほんの少し疲れたことだけを除けば、とてもスムーズに侵入できたのです。
入ってから鍵を閉め、用意しておいた二枚重ねの分厚い雑巾を玄関の床に置いて、その上に畳んだ傘を壁に立て掛け、水滴が落ちないように気を付けました。体に付いていた水滴もタオルできちんと拭き取りました。
僕はその日、いやに落ち着いていました。自覚していながら法に触れたのはその日が初めてだったのですが。ばれるわけがない、というどこから来るとも分からない自信があったのです。まるで、体が既に盗みの作法を知っているかのようでした。以前と同じようにしている、というような感覚があったのです。
僕はまず一階のリビングに入り、誰もいないしーんとした家の中をゆっくり歩き回りました。家の外見は、子供の頃に遊びに行った時と全く変わっていなかったので、当然と言えば当然かもしれませんが、僕がその子の家に遊びに行ったときと同じ構造、というか間取りでした。しかし、古めかしい木造だった家は、内装ががらりと変わり、新しく壁紙が貼られ、床はフローリングに変わり、家全体の雰囲気はだいぶ変わっていました。僕は、二階に彼女の部屋があることももちろん知っていたので、ある程度家のなかを歩き回り、当時の思い出に浸るのが済むと、その後は真っすぐ、彼女の部屋に行きました。
彼女の部屋は、僕が遊びに行った、子供の時とはとても変わっていました。白や水色が好きなようです。この家自体、リフォームされて以前とは見違えるほど綺麗になっていたのですが、彼女の部屋は特に美しかったのです。
本当にここが彼女の部屋か?ここだけ違う世界になっているのでは?と思うほどでした。
僕はその部屋が本当に違う世界か否かを確かめるために、彼女の部屋の窓から見える景色を見ました。その景色からは、鬱蒼とした森や、さびれた公園の赤くて小さなブランコを眺めることができ、間違いなくその部屋は彼女の部屋だとわかりました。
彼女の部屋は、子供部屋にしてはいささか大きい方なのではないかと思いました。僕と彼女は同級生なので、もちろん今彼女は僕と同じ二十三歳のはずで、今彼女が今現在彼女が子供ではないのは確かなのですが、彼女が小さい頃からこの部屋を独占していたことを思うと、ずいぶん大きな部屋です。
部屋の中には、家具はベッドと、机と、あと、壁から15センチほど離されて置いてある高さ90センチほどの小柄なタンスがありました。あと、壁の内側にもともと設置してあったのだろうと思われる、格納型のクローゼットです。物が少ないのも、部屋が大きく見えた理由の一つだと思います。
クローゼットの中には、彼女の服があり、人間特有の匂いがしました。香水を使っているのか、爽やかな香りもしたのですが、あの人の懐かしい匂いもしました。確実に、僕が子供の頃に感じていた匂いと同じです。僕は、こんなことは良くないことだと重々了解していながらも、とても満ち足りて、幸せな気持ちになりました。
僕は、クローゼットを閉め、部屋の真ん中に立つと、彼女の部屋がとても、しーん、としているのを楽しみました。僕はようやく、気持ちが少し昂るのを感じました。
あのころ僕が遊びに行った時とは打って変わって垢抜けた部屋、そして、窓から見える、あのころと全く変わっていない景色。彼女の成長を感じ、深く思い入りました。
前、子ども用の勉強机だった机も、新調されており、その机は、天板の木枠にガラスが嵌め込まれ、奥の蝶番を支点として上側に開くようになっており、中に入っているものが上からぼんやりと見えるようになっていました。天板のガラス表面には透明のデスクマットが張り付いており、少しぼやけて中が見え、それでいて、天板の上で書き物などをしても、ペンとガラスがかちかちと当たる嫌な音はしないという、とてもよくできた工夫がなされていました。彼女の日常生活における些細な試行錯誤と工夫を垣間見ることができた気がしました。
その机の上からぼんやり見える、中に入っているいくつかの物体を見て、僕はそのときおや?と思ったのです。無意識の中で密に行われている思考が突然反応したような感じです。
僕の手は極めてナチュラルに天板の取手を掴んでいました。
僕は、女の子が持ち上げるにはどう考えても重いその天板を上に持ち上げ、そのときに蝶番が予想外にキィッという甲高い音をたてたので少し驚いてしまったのですが、僕は、その机の中に入っていたものの方にずっと驚きました。
いつも一定の速度で滔々と流れ、僕の人生を強制的に前進させていた無機質な時間の流れが突然止まったかのように遅くなり、時間は粘り気を持って実感を伴うものへと変貌し、命の燃焼を見守る圧倒的存在として確かにそこにあるのが感じられるようになりました。僕は天板を開けっ放しにして手で支え、立ち尽くしたまま何秒か、いやほんとは何十秒かもしれませんが、それくらい茫然としていました。
要するに頭が真っ白になった、ということです。
彼女は僕のものをいくつか盗んでいたのです。
天板を壁に立て掛け、僕は本格的に机の中のものの物色に取り組み始めました。
僕が中学生から高校生のはじめくらいまで使っていたシャープペンシルが一本、高校二年生のときに買った多色ボールペンが一本、ちなみに、この多色ボールペンの方は、買ったばかりなのに無くしてしまったもので、おかしいなと思いとても探した物です。あと、僕が中学生のころ彼女にあげるつもりだったのに結局無くしてしまったネックレス、そして、綺麗に畳まれた白い布のようなものがありました。机の中に入っていたものは合計で四つで、そのうちの三つは確かに僕が持っていたものと全く同じものでした。白い、正体不明の布以外の三つの物は手に取り、傷などの付き具合から、まず間違いなく以前僕が所有していたものと合致していました。
僕は、二本のペンとネックレスを触って自分のものであることを確かめるのが済むと、正体不明の、畳まれた白い布のようなものに手を伸ばしました。その物体は机の中の左奥の方に見えていて、少し距離があったため、初めは布だということくらいしか分からなかったのですが、手に取ってみると、ふわふわとした肌触りなどから、綿であることが分かります。男子にはできない、女子独特の綺麗な畳み方がされていたもので、一度広げたら元に戻せる自信など全くなかったのですが、もし元に戻せなくて困るようなことになればそれも盗んでしまえばいいという発想にすぐに結びつきました。
彼女は、かつて僕の「こころ」を盗んだ。僕は彼女の「こころ」を盗めなかった。故に僕は彼女の、なにかしら大切な「もの」を盗むことにしたから今ここにいるのです。机のなかの4個のもののうち、ぼくのものが3個も入っていた。ならば、残り1個を盗まれても仕方がないでしょう。本当はそこにあるべきでは無いものと、自分のものとを一緒くたにしてはいけない。同じような人間の周りには同じような人間が集まり、そして彼らは同じような運命を辿る。その意味で、物は人間と同じです。だから、この白い布の塊が他の三つの物と同じ運命を辿っても仕方がありません。物と人間は相互依存関係です。ここの3つの物たちは、僕の物だ。この正体不明の白い布が消滅してしまっても、彼女はその消滅を周りに表明したり助けを求めたりすることはできません。なぜなら、この机の中が彼女の知られたくない部分だから。
白い布の塊はふんわりとして、マシュマロのようでした。折って畳まれているので表裏があり、表側は全く折り目がないように平面になっていて、逆に裏側は、複雑に折り込まれていました。僕は、裏側の複雑に重なった折り目の表層の部分に指をかけ、ゆっくりと布を開きました。すると、布は重力に従ってあっけなく広がりました。布が広がると同時に、何かが地面にゆっくりと落ちていきました。
これは彼女の「秘密そのもの」でした。
一見それはとてつもなく複雑なものかのように見える。しかし、手をかけ少し開くだけでそれは容易に開く。開かれた秘密はもはや秘密ではない。こちらに、内なる部分を余すところなく完全に見せつけてくる。個人情報という名の爆弾と言えるでしょう。そして、それを最初に開いたものはその爆弾の衝撃を最も近いところで浴びてしまいます。
その秘密を知ることは、あまりにも容易すぎました。厳重に施錠された金庫のように、簡単に開かれはしないものであってほしかった。
僕は布が開くと同時に、驚いてその布を足元に落としてしまいました。きっと恐らく自分のものなのだろうという予想があったにもかかわらず。
僕の足の甲に、子ども用のシャツが覆いかぶさっています。シャツの真ん中あたりはなぜか酷く汚れています。そして、つま先の辺りには、黒々とした髪の毛がたくさん落ちています。
分かってはいたのですが念のため、僕は右足の親指あたりに落ちたその黒い髪の毛を拾いました。一本だけ拾いあげるつもりだったのですが、何本も取ってしまいました。僕は一本だけ真剣に見たかったので、最も長いと思われる毛を一本、片手で抜き取り、残りの毛をやさしくもう一度床に置きました。
雨が降っていたのでもちろん外は明るくなかったのですが、外からの光が全くないわけでもありません。僕は電気を点けたくなかったので、机の左側の窓に近づきました。たとえ雨が降っていて暗くても、太陽がいなくなってしまったわけではありません。太陽の光は、雨雲というフィルターを通して、控えめにその髪の毛を照らしました。
ビン、と弾力のある硬質な指ざわり。光をかざすとほのかに赤っぽくもみえる色合い。パサついている毛先。これは僕の髪の毛です。それも、かなり最近のものです。
どうして僕の髪の毛がここにあるのか?そんな非常に原始的な疑問がようやく僕の頭に浮かびました。
そもそも、さっき、ペンとネックレスが盗まれているのを知ったときに、「どうして彼女が盗んだのか」という疑問が浮かばなかったのか?彼女の部屋にある自分の髪の毛を手にしながら、ようやく僕は、僕自身の反応のズレに気がつきました。そして、それが普通ではないほどの遅さの「ズレ」であり、僕は実は、「疑問」を打ち消すほどの別の感情で反応していたのではないかと気づきました。
最初に彼女が僕のものを盗んでいるのに気付いたとき、実は、心の奥底ではとても嬉しかったのです。何が?彼女が僕のものを盗んでいたことが、です。
僕のことが好きで盗んだのかもしれないし、僕のことが好きではないけれど、単にぬすみぐせがあり、盗んだのかもしれない。どういった理由で僕のものを盗んだのかは全く分からない。ただ、僕のものが、長い間彼女の部屋の中でずっと存在していた。部屋で彼女が寝ているときも、彼女が机に向かっているときも、彼女が遊んでいるときも。いたかどうかは分かりませんが、もし大切な人を部屋に呼んで二人きりで時間を過ごしていたとしても、この部屋の中には必ずあったはずです。こんなものを外に持ち出せるはずがないですから。
僕の心は彼女に盗まれた。しかし、心が盗まれても、その盗まれた心がもともとあった場所までなくなるわけではありません。心があった場所はがらんどうの空洞となり、その空洞はいつか心が帰ってくるのを待っている。空洞を作ったのは彼女だ。彼女は僕の心の内を支配した。「空虚」という暴力的なまでの静けさを作り出し、僕の魂の時間の進みを止めてしまった。その場所は、とても、しーん、としています。今僕が盗みに入っているこの部屋のように。そういう意味では、僕は彼女を世界で一番憎んでいます。最も出会わなければよかった人間だと心から思う。
しかし、僕はさっき、三つの僕のものが盗まれているのを発見したとき、彼女の中にも鬱屈した「空虚」があるのを感じ取ったのです。その「空虚」は僕が抱えているものと似ているのかもしれないし、似ていないのかもしれない。しかし、彼女のなかに何らかの「空虚」があるのは確かだと僕は直感しました。そうでないとただの幼馴染みの持ち物を盗んだりしないでしょう。
僕は、彼女が創り出した「空虚」に支配された。楽しんでいるときも、勉強しているときも、悲しいときも、ずっと。彼女は、自分で盗んだ僕の「もの」に支配された。彼女の部屋の中に存在しないはずの「僕のもの」は、それがそこに存在するというだけで、彼女のなかの「空虚」や「空洞」の何よりの証明になり、それらを浮き彫りにして浮かび上がらせ、そして露わにする。彼女は僕のもの達を見るだけで、きっと、苦い罪悪感を味わっていたし、今も感じているでしょう。僕は彼女の人格の、人当たりのよい無邪気な優しさの内側にあるとてつもない弱さを知っているからです。それがどのくらいの弱さかというと、まだ自分で立つこともままならない赤ん坊くらいの弱さです。彼女は実際のところまだ立ち上がってもいない。世界の大きさに打ちひしがれ、恐れおののき、地べたにどうしようもなく座り込んでいるだけだ。助けを求めようともしない。彼女は僕のものを盗んでいるときも、盗んで自分の部屋に置いているときも、ずっと、ずーっと、僕のものを盗んだことによる罪悪感に支配されていたはずです。楽しんでいるときも、勉強しているときも、悲しいときも、ずっと。ずっとずっと。それは大きな重圧となり、数年間もの間、彼女を苦しめたでしょう。
僕はやっとそのとき彼女と対等になれたように感じた。彼女も僕と同じく、大きな空虚を抱えている。同じくして支配されている。その支配の種類が違うにしても。それがとても嬉しかったのです。
しかし、その大きな喜びは、僕が中学生のころまで使っていた子供用シャツと、その中にくるまれていた僕のたくさんの髪の毛を見た瞬間に、すぅっと小さいものに見えるようになりました。僕を覆いつくすほどの大きさだった喜びは、手で捕まえられるほどの小ささにまで変わりました。だからこそ僕は、僕自身の反応のズレ、に気が付くことができたのでしょう。
つまりそれは、大きな喜びをも凌駕する衝撃だったのです。
その衝撃は大きなうねりとなってゆっくりと変化して動き、非常に単純で原始的な疑問にぽん、とぶつかって、その疑問を受け取った直後に僕の脳内は瞬時に澄み切りました。あることにすぐに気づいたのです。
彼女も僕のことが好きだったのです。それも、何年も。そして、このシャツと髪を未だに手放していないということは、まだ僕に未練があるということでしょう。ペンやネックレスだけなら思い出になるかもしれない。しかし、髪の毛とシャツは思い出で済まされるものではないでしょう。こんな恐ろしいものをずっと大事に持っていてはいけない。盗んだことを後悔してすぐに捨てなければいけません。こんなものを持っているから、泥棒が入るのです。悪い「もの」には悪い「人間」が引き寄せられる。なぜなら、物と人間は相互依存関係だから。
僕の中からさっきの喜びがすぅっと消えていってしまいました。僕は悲しくなりました。彼女と僕が同じ空虚に支配されているという、さっきの空しい喜びだけで十分だった。彼女はとても苦しかったでしょう。僕が作った「空虚」に支配されて。
本当なら、僕はこのときさらに喜ぶべきでした。彼女も僕が好きだったと分かったから。彼女を支配していた「空虚」と僕を支配していた「空虚」が全く同じものだと分かったから。僕も彼女の「こころ」を盗むことができていたから。
しかし、僕の中に生まれたのは、彼女が僕と全く同じ「空虚」に支配されていたことに対する同情と、こころを盗んでしまったことの申し訳なさからくる罪悪感でした。
どうして喜ばずに同情し、さらには申し訳なくさえ思ったのでしょうか。
答えはとても簡単です。僕がまた彼女のことを好きになってしまったからです。シャツと髪の毛を盗んでいたことを知るまでは、彼女のことは、ただ、その昔好き「だった」人でした。僕は、昔盗まれた「こころ」の代わりになるような彼女の「もの」を盗みに来たのです。しかし、それを見てしまってから、僕はまた彼女のことを好きになってしまった。理由も分かりません。彼女の恐ろしいまでの恋と未練が愛おしくなったのでしょうか。もしくはそうではないかもしれません。
何にせよ、彼女が今もう一度大切な人になってしまったのです。
疲れました。はじめの方でも触れたように、少し長く歩くだけで疲れてしまうのですから、このようにまで気持ちを揺り動かされると、気持ちと連動して体が強張ったり動悸が激しくなったりして僕の体力は簡単に消耗してしまいます。器用さや瞬発力、機転や計画力なら普通の泥棒より優れていると思うのですが。
僕は、獣に遭遇したかのように、へなへなと情けなくそのまま窓辺に座り込みました。もう体力が持ちませんでした。
窓の外では、雨がしとしとと降り続けています。この部屋の真上が屋根のため、耳を澄ませば際限無い雨の音がとてもよく聞こえることにようやく気づきました。
無数の雨粒が、彼女の空虚な部屋を上から叩き続けている。しかし彼女の部屋の中に届くのは音だけだ。実感の伴う温かさなどはそこには無い。音は無機質なリズムを途切れさせることなく彼女の空白の魂の中で鳴り続ける。彼女を支配する「空虚」に対して対抗する手立てが何も無いのと同じように。
ごめんなさい。ごめんね。
僕は声に出して呟きました。僕は愛というものを持っていません。彼女も同じでしょう。23年生きて、さすがに自分と他人との何かの「ズレ」には気づいていました。僕はいまだに、人を愛することを知りません。故に僕はきっと彼女を救い出せない。どこへも連れていけないし何にも変えられない。無力です。
僕はなんだかどうでもよくなって窓下の壁に寄りかかりました。腕時計を見るともう四時半でした。三十分もせずに出れば安全だろうという計画でしたから、長居し過ぎです。母親の帰りがいつも遅いとはいえ、早く帰ることもあるかもしれない。また、彼女を含めた他の家族たちもいつ突然帰ってくるか分かりません。玄関に置いてある傘もそのままです。しかし僕の思考はほぼ止まってしまいました。自分の無力さは最も恐ろしい敵です。愛を知らないということはこの世で最もどうしようもないことの一つだ。
僕は、だらしなく伸ばした足の先にある自分のシャツに目をやりました。そういえば、このシャツのことはあまりよく見ていませんでした。立つのも面倒だったのでつま先で引きずって手元に持ってきました。さっき大量に落とした髪の毛も足に一緒に付いて来てしまいましたがどうでもよく感じました。
持ち上げてみると、シャツの、ちょうど胸の真ん中あたりだけが黒く薄汚れています。何かをなんどもこすった跡?
もう一度だけ思考を働かせてみることにしました。とはいえ、さっきまでのようにはいきません。屋根に当たる雨の音が邪魔をします。
鼻を近づけて匂いを嗅いでみると、なんだか酸っぱいようなきつい匂いがしました。それと、近づいてから分かったのですが、ピンクやブラウンで汚れています。化粧品の何かが擦り付けられた跡?
僕はもう一度立ち上がって窓辺から離れ、机の前で立ってシャツをよく見ました。
雨の音が一瞬聞こえなくなりました。無音の中、窓に滴る無数の水滴が落ちていくのだけがくっきりと目に映りました。
これは、彼女が泣くときに顔を抑えてできた汚れじゃないか?
それも、たった数回じゃない。何度も何度も数えきれないほど泣いて、そのときに顔にあてがってできた汚れなんじゃないか?
僕の部屋に侵入し僕のペンを盗む彼女。僕の部屋で女物のネックレスを見つけ、それを盗む彼女。僕の部屋に落ちている髪の毛を拾いそれを集めて帰る彼女。僕の部屋の引き出しを漁り下着を物色しシャツを盗む彼女。
そして、この部屋で、一人きりで、僕のシャツに顔を押し当てて泣く彼女。
僕は一体、今ここに何を盗みにきているのか?
盗まれたものを盗みにきたのか?僕が盗みにきた「彼女の大切な「もの」」とは「彼女が僕から盗んだ「もの」」ということ?
では一体僕は何を盗めばいいのか。僕は盗みにきたのではなく、取り返しにきたのか。
僕は激しく混乱しました。当然のことですが、混乱していたと自覚するのは混乱が落ち着いて冷静になってからです。人間ですから。簡単に過ちを犯し、そして事後に気づく。それを飽きずに繰り返す。
僕は、まず壁に立て掛けていた天板を、机奥の蝶番を支点として、天板の下の、僕のペンやネックレスが入っていたところに思いきり叩きつけ、それも一度では気が済まず、何度も上げたり下げたりして執拗に机下部に叩きつけ、しまいにはなんだかその運動と衝撃音が楽しくなり、へらへらと笑いながら何度も何度も叩きつけました。
ひとしきり叩く運動を楽しむと、天板に嵌め込まれていたはずのガラスが無くなっていました。机の中に、大量のガラスの破片が落ちています。机の周りの床にも少し落ちています。僕の手の甲の上にも落ちています。どうやら、何度も何度も叩きつけるうちにガラスが割れ、しまいには完全に天板の木枠から外れてしまったようです。
いいことをしたと思いました。これは彼女を苦しめている悪い机だ!こんなものは直ちに粉砕しなければならない!いますぐ!
僕はその、木枠だけになってしまった天板を握りしめ、机ごと持ち上げる動作を数回繰り返し、その天板の蝶番をねじり取り、木枠だけの天板を外しました。そして、外した木枠で机全体を叩きまくり、すべてを分解しました。とにかく、僕のもの達がそこに存在することを許してしまっているこの悪魔のような机を粉砕しなければならなかった!!僕のもの達が彼女を苦しめる!!彼女は僕のものを盗んでなどいない!!絶対に!!彼女は僕を好きじゃない!!好きじゃないはずだ!!こんな、垢抜けたおしゃれな机のふりをして!!この悪魔!!彼女を苦しめるな!!
気づけば机は完全にバラバラになり、そして所々赤くなっていました。もうとっくに机の原型はありませんでしたが。
ひしゃげた木の物体を見て僕はようやく少しだけ落ち着きました。
僕はまず、分解された机の脚の部分を一本手に握り、窓を開けました。そして、森にめがけて思いっきりそれを投げたのです!幸いにも、何かにあたるような音はしませんでした。雨が降っているし、民家のある場所でもないので、うまく地面に落ちたか、木に引っかかったのでしょう。
僕は、残りの机のパーツも全て森に投げ込みました!天板の木枠だけが、森の木の枝に引っかかってしまい、ここからだと見えてしまいますが、いずれ重力で落ちるでしょう。僕は、部屋から悪魔がいなくなって清々しました!僕の勝ちです!窓を開けっ放しにしたままガッツポーズをしました!
僕は窓を閉め、その部屋から出ました。時間は五時を過ぎていました。この辺りは住宅街なので、そろそろ仕事帰りの人々が増えます。一階の玄関に行って、自分の傘を取りました。長居していたおかげで、雑巾は傘の周辺の水滴も吸収して、さらにすっかり乾いていました。リュックに雑巾を入れ、傘を持って家の窓を開け、そこから出ます。当然ですが、玄関から出ると鍵を閉められず、危険なので窓から出ます。窓の閉め忘れは多いものです。そして、怪しまれないためにも、できる限り怪しまれなさそうな窓を選びます。リビングのソファーの後ろの窓が目につきました。窓の鍵が、ぎりぎりソファーで隠れて見えない位置です。あれなら簡単に通れます。
僕はリュックと傘と靴をそこの窓から庭にぽんと落とし、窓から出ようとしました。足を窓枠にかけようとしたところで、部屋を荒らしたままだったことがいまさら気になってきました。別にもうどうでもいいかと思っていたのですが。足が付くようなものがないかの確認くらいするべきかと考え、一応自分がこの家で動いた範囲をさっと回ることにしました。幸いにも、夕方なのにまだ真っ暗ではありませんでした。一階が終わると、急いで二階の彼女の部屋に行きました。
ベッド。タンス。床に落ちているガラス片と、僕が子どものときのシャツと、ペンが二本と、彼女にあげるはずだったネックレス。あと、髪の毛もたくさん落ちているはずなのですが、さすがに暗くてそれはもうあまり見えません。
彼女がガラス片を踏むとよくないと思い、僕はガラス片を、落ちているシャツの上からかき集めて、シャツの中に一通り集め、シャツでくるめて、シャツごとそのまま、自分のリュックに入れました。ペンは自分のリュックに丁度よく入れられる場所がなかったので、服の胸ポケットに挿しました。ネックレスは、もともと彼女にあげるはずのものだったので、タンスの一番上の引き出しのところに入れました。急いでいたので詳しく見られなかったのですが、偶然、そこは彼女がアクセサリーを入れている引き出しだったようです。冷静に考えれば、最初からこうするだけでよかった。
足が付くようなものも大して残していなかったし、なにしろ、僕には、自分がこの家に勝手に入ったことがバレないという根拠のない自信があったので、彼女の部屋に入った後はすぐ、リビングに行き、窓から出ました。外の雨はさっきよりは小ぶりになっていました。さすがに外は暗くなりはじめていました。時間は五時十五分。
僕は何食わぬ顔で狭い庭を通り抜け、傘を差し、門扉を静かに開け、静かに閉めて、道路に出ました。そして、バス停までゆっくりと歩いていきました。雨はやはり絶えることなく降り続け、僕の傘の上でも無機質な雨音が鳴り続けていました。なんだか、まだ彼女の部屋の中にいるような気がしました。実際に僕は、彼女の部屋の中に自分を置いてきたのかもしれません。
バス停まで歩く途中、二人の女性と前からすれ違いました。歩道は狭かったので、二人とも顔がちら、と見えました。二人は彼女と彼女の妹でした。二人とも調査をしているときに何度も顔を見ていたので別に珍しいということはありません。僕は傘を前に傾け、顔が見えないようにしました。
僕は、姉妹とすれ違った後、彼女の後ろ姿を振り返りました。彼女と関わるのはこれで最後にするつもりだったからです。今日僕は、十分すぎるくらい彼女と関われてもうとても満足でした。
すると、彼女の方も僕の方を振り向いたのです。
小ぶりの雨の中、赤い夕陽が突然雲間から光を出し、彼女の横顔をオレンジ色に一瞬照らしました。顔が後ろを向くのと同時、彼女の肩くらいまでの長さの黒い髪の毛も横に勢いよくうねりました。
僕は立ち止まってしまいました。ばれて立ちすくんだわけではありません。
あまりの美しさに動けなくなったのです。
彼女の方も立ち止まりました。彼女の妹も不審がってこちらを見てきました。彼女が妹に何かを言い、妹は不審がりながらも先に歩いていきました。
彼女は自分の左胸のあたりを指さして、にこにこと笑顔を見せました。僕もその無邪気な笑顔につられてにこにこと笑顔になりました。
どうして彼女はにこにこしているのか。そんなことは、そのとき、もはやどうでもよかったのです。僕はただ彼女の顔を見、その姿を感じ、面と向かい合い相手をすることしか考えられなかったのです。何しろ僕は、彼女のなかの、どうしようもない幼さを知っていましたから。
彼女は、そうじゃない、そうじゃない、と手を顔の前でぶんぶん振りました。彼女は、自分の胸をさっきと同じように指したあと、僕の方を指さしました。
胸ポケットに挿してある二本のペン。
なるほど、と思いました。ああ、しまった、とは思いませんでした。
僕は少し声を上げて笑いました。すると彼女は、さっきよりかは少し悲しそうな表情で笑顔を作って見せました。
その後、彼女と僕の間に少しの間がありました。僕は何かを話したかったですが、話せるようなことはほとんど何一つと言っていいほどしていませんでした。二人とも黙りこくり、2メートル弱くらいの距離を置いたまま、微妙な表情で見つめ合っていました。
すると、彼女が突然傘を落としました。少し遅れて、僕も傘を落としてしまいました。
彼女が来ているジャンパーが、僕が最近使っているジャンパーと全く同じだったのです。肩に小さくナイキのマークが入っていて、フードの付いている、青いジャンバーです。もしかしたら、僕が彼女の部屋に入っている間に僕の部屋に入って盗んできたのでしょうか?どうして今まで気が付かなかったのか?傘を差していたから?影で色が分からなかった?
雨に打たれ続けながら黙りこくり、僕の目をただ見つめている彼女の顔からは何の表情も読み取れませんでした。黒い目は全く動かず、唇は何かと対峙しているかのような緊張を帯び、そして彼女の、高くはないが形のしっかりしている鼻はより硬直し、僕の方へ真っすぐ向けられている。鋭いナイフのような顔です。ただ、雨は次第に止んでいき、夕陽はより赤みを帯びて、彼女の、鋭い刃物のようでもあるがしかし、よくできた陶器のようでもある美しい顔と、黒々とした絹のような髪をとても明るく照らしました。まるで彼女の中の内なる炎が溢れて燃えているかのようでした。だが同時に、何かに耐えている顔のようにも見えた。彼女は何に耐えているのだろうか。冷酷無比に彼女を叩き続ける冷たい雨水か。それとも、抑えがたいほどの、自分自身の衝動だろうか。僕は何かを発見したくて彼女をちゃんとよく見ました。しかし、結局、どういう気持ちなのか、一体彼女に何が起きているのか、何もかも、全くわかりませんでした。
ふと突然我に返ったかのように、彼女はまた傘を手に取り、肩の雨粒を払って、頭上から降ってくる雨から自分を遮りました。さっきの、彼女が突然傘を落とし、呆けているかのように感情を無くしていた時間は、何かが彼女に乗り移っていたのでしょうか。それとも、さっきの彼女が本当の彼女で、今の彼女は、正気であるかのように見せるための表面上の彼女なのか?
僕は、彼女より少し遅れて、傘を手に取り、頭と肩に叩きつける雨粒を自分の傘で遮りました。しかし、雨はもうほとんど降っていないようでした。無機質で冷酷無比なリズムは、いつの間にか僕らの世界から退出していたようです。
夕陽がより一段明るくなりました。雨はほぼ止みました。僕と彼女は傘を下ろしました。
彼女の顔がとてもよく見えました。今度の彼女は、会った最初と同じくにこにこしています。燃えるような夕陽が、僕と正面から向かい合っている彼女の側面だけをオレンジ色に染め、彼女の顔の、こちらから見て鼻より左側の部分だけが見事に真っ黒い影になりました。その陰影の部分は笑っていないかもしれないと感じました。影だったので見えませんでしたが。彼女のナイフは側面だけがやけに美しく光った。ダイヤモンドのように。
すると、彼女が僕の方へ近づいてきました。
彼女はそれから、簡単にその頬に触れられそうな位置まで近づいてくると、そこで立ち止まりました。
彼女の顔の右半分も左半分も、今度はしっかりと見ることができました。もうそこにナイフは無くなっているかのように見えました。
彼女はそこで、にこにことした無邪気な表情をひとしきり僕の方へと見せつけたあと、僕の胸に挿していた二つのペンを、極めてナチュラルに引き抜きました。胸に風が当たったくらいの感覚しかしませんでした。
そして彼女は、にこにことした表情をより輝かせて、その笑顔のまま、言葉を発したのです。僕は、彼女がまさか口を開くなんて予想していなかったため、一瞬面喰ってしまいました。彼女の表情は、たとえ、笑顔、いや、正しくは笑顔のように見える表情をどんなにきらきらさせて見せていたとしても、そこには、ある種の自然さ、有機的で生を感じさせるようなものが決定的に欠けていて、僕にはそれを見逃すことができなかった。同じ空虚を抱えている人間は、顔を見ればすぐに分かってしまうから。
「これ、くれない?」
彼女の声は、僕が想像していた声とはあまり似ていませんでした。思ったよりも低い声のように感じたのです。恐らく、二人でよく遊んだ小学生のころはもっと高い声だった。しかし、その声は僕がとても好きな種類の声でした。
僕は、彼女の手に握られているペンを見て、一言、「いいよ」と言いました。
にこにこ楽しそうにしていました。そして、楽しそうに、「うん」と言いました。
僕は、適当な笑顔を作って見せてやることしかできませんでした。
僕はそこで彼女とすぐ別れ、またバス停の方へと歩いていきました。
バス停に行く途中、一度だけ振り返りました。もしかしたらまだあの場所でにこにこしているのではないか、と思い。
そこには、てくてく歩く彼女の後姿がありました。普通に歩いて帰っていました。僕のジャンパーを着て。
まもなくバスが来て、僕は、何の変哲もない住宅街を走るバスに揺られながら、明るい夕陽に照らされている家々をぼんやり眺めていました。
どうして夕陽はこんなにも明るいのだろうか。一日における、太陽の最後の役割は、夕陽で世界を明るく照らすことで、その後の夜の闇で生き抜く力を、我々生物に与えようとしているのかもしれない。
たとえ世界に冷たい雨が降り注ぎ、各々の人間の魂の空洞を叩き、空虚が人間を支配したとしても、それは全てその時だけのことだ。時間は強制的に人生を前進させ、全てのことが、あったのか無かったのか、その判断がつかなくなっていく。我々は絶えず過去のできごとを自分の歴史に更新していくが、それはいつも不正確だ。僕が実際に何をしたのか、そんなことは時間を遡ってもう一度全てをやり直しでもしないとわからないでしょう。
何にせよ、雨は止んだ。今はさっきまでのことが嘘のように晴れ、夕陽は平和な街並みをオレンジ色に染めている。この町の誰も、僕がやったことを知らないし、僕も、僕がやったことの全てを、正確に知っているわけではない。真実は、今この瞬間にも流れている時間が、過去へ過去へと、盗んでいるのです。
以上の自白は、あくまでも「今」僕が話しているだけのことです。限りなく真実に近いかもしれないし、あるいはそうではないかもしれません。
そういえば、そのときの彼女とのやりとりで、分かったことがたった一つだけあります。
彼女はまた、僕の部屋に盗みに入ります。もしくは既に入ったかもしれません。