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桜は枯れさるも春真っ盛りの女子高生、二度目のゴールデンウィーク。
テーマパークや野外フェス、旅行などやることが目白押し。そんな薔薇色女子人生を満喫したいのは山々だが、現実と身の程というものがこの世にはある。主に金銭的な理由。間違いなく破産する。
友人たちも家族旅行にデートにバイトになんやらと、わたしに劣らぬ以上に忙しいのだ。テーマパークに一度行ったっきりで、わたしの連休イベントは終わってしまった。
そんな侘しい長期連休。毎日がエブリデーな日々の中で、一番力を入れているものがあった。
勉強である。
成績不振に陥っている現状は、まさに自業自得。三月は両親と会わずに済んだが、次の夏休みに一時帰国するのだ。そのときに惨憺たる成績表を見せられない。
かつてはそこそこ優秀だっただけに、一人暮らしになるとこうも堕落するのかと、両親に嘆かれるのは目に見えている。後ろめたさと自業自得しかないだけに、最近になってようやく、両親に申し訳ない気持ちが湧いてきたのだ。
それだけではない。大学受験。
一年生のときはどこか遠い未来の話だと捉えていたが、最近になり現実味が帯びてきた。ここらでしっかり取り戻さないと、わたしの未来は灰色な危ういものになる。そんな危機感を覚えたのだ。
加えて隣人だ。もうあいつのことを、オタクだなんだとバカにしてないし、見下してもない。むしろ好きなことでお金を稼げていることには尊敬の念すら抱いていた。
が、それでも社会的ステータスは勝らずとも、劣るような真似はしたくない。
だってそうだろう。だってあいつは自殺を止めるために、女子高生にアダルトゲームを渡してくるような男だ。その下に甘んじるのはごめんである。
四月から遅れを取り戻すために、実に数カ月ぶりの家庭学習に励んでいるのだ。花の女子高生を謳歌するのではなく、キラキラ大学キャンパスライフを目標に掲げ、このゴールデンウィークもスタディに捧げているのだ。
結果は無残なものである。
すぐ娯楽に逃げるクセがついており、ちょっとの休憩のつもりが、長針が何周もしている始末。まさに娯楽の休憩がてらに勉強する、そんな毎日がエブリデーな日々を送っているのだ。こんな胡乱な言葉を使っている時点でお察しである。
そしていつもの夜、そのベランダ。
「ねえ、なんで勉強ってしなきゃいけないの?」
手すりに身体を預けながら、独り言のように呟いた。
冴え冴えとした月明かり。その都へと帰った姫に問いたいわけでなければ、そこに住む兎に答えを求めたのではない。
ではこの呟きは、どこへ向けたもののか。
「いい大学に入って、いい会社に就職するためだ」
隣室のベランダだ。案の定、つまらない解答をもたらしてくれた。
「……それってさ、そんなに大事なの?」
「少なくとも中小と比べて、大手の手当ては厚いらしいな」
夢も希望もなにもない。そこにあるのは現実だけだ。
「ただ、就職がゴールじゃない。大手に潜り込めたところで、待っているのは受験戦争や就職活動以上に過酷な出世争い。仕事ができたところで、上に妬まれ煙たがれたら一発終了。むしろ仕事なんかよりも人間関係が一番きつい。就業時間だけ馬車馬のごとく働いていればいいのなら、それ以上に楽なことはないだろうな。
真面目に働くだけで報われる。この国はそんな御伽話の世界ではないぞ」
「うわ……嫌な話を聞いたわ」
眉根をこれでもかと寄せながら、唸ってしまった。
ただでさえ受験勉強のせいで、陰鬱、惨憺、暗雲の二字熟語たちが蔓延っているというのに、乗り越えた先は更なる修羅場が待っているというのだ。
約二年も楽しそうな大学生活を残した男から、そんなことを語られるのだからまたたまらない。
隣人はいつだって、わたしに酷い正論と現実を突きつけてくる。その慰めのように娯楽を与えてくれるが、そんなのは一時の夢。そればかりに耽ってはいられないぞと、ある日突然叩き起こしてくるのだ。
面倒見がいいというのか、無責任というのか。
夢だけ見ていられるならどれだけいいか。と思った先で、かつての夢を一つ思い出した。
「あーあ……いっそ勉強なんて放って、作家でも目指そうかな」
「作家……貴様がか?」
困惑したように隣人の語尾が上ずった。仕切り壁ごしでもわかる。落としていたタブレットから、顔を上げているに違いない。
「中二のとき、ちょっと恋愛小説にハマってさ。影響されて書いていたんだ」
「どこかの賞に投稿でもしてたのか?」
「ううん。書いているときは楽しかったんだけど、出来上がって時間を置いたら酷い出来。話も破綻してるし、なにが面白いのか。冷静になって恥ずかしくなっちゃってさ」
明るい声色に勤めているが、この顔を彩っているのは苦々しいそれである。
「それを二個、三個と書いてる内に、『ああ、自分って才能ないんだな』って思って、進級するときに綺麗さっぱりやめちゃった」
夢中になっているときは面白いものだと勘違いして、冷めてみたら顔が真っ青になる。まさに恋する乙女の盲目さと同じ。変な男に引っかかった、忘れたい恋の遍歴のようになものだ。
だからつくづく思ったのだ。どんなものを書いているかどころか、小説を書いていると周りに公言しなくてよかった。ある日突然作家デビュー。前触れもなしのエンタメ感とドラマを求めていたのだ。
そんなわたしの黒歴史。つい隣人の前で明かしてしまった。驚くことはあっても、バカにされることはない。そんな風に信用していたのだ。
「それが再燃でもしたか」
「ほら、ネット小説が今流行りなんでしょ? アニメ化した作品をちょっと見に行ってみたんだよね。ああ、これでいいならわたしでも書けそうって。それで書籍化して、アニメ化して、苦労せず億万長者。これはいけるなってね」
「そうやって素人が自分も書いてみたくなりました、と始めた作品が、ヒットして一発成り上がってる例もある。まさに夢があるな」
「でしょ? こんなのでいいなら、私が専念して書けばすぐに大ヒットするわね」
「……と、始めてみたはいいものの、多くの夢が破れているのが現状だ。あそこの海はもう真っ赤だぞ。甘く見軽んじて、生活の全てを注ぐのは止めておけ」
一度話に乗っておきながら、あっという間にハシゴを外してくる。正論と現実という冷水を浴びせ、いいから目を覚ませと。
これには嘆息が漏れ出るというもの。
「……夢がないことを言うわね」
「夢で飯を食えるほど、現実は甘くないからな」
「あんたはさ、それでいいの?」
「なにがだ?」
「こんな嫌な現実の先で生きていくのが」
「仕方あるまい。これが一番わかりやすい社会の正解だ。楽しいことを好きなだけするのを許されるのなら、喜んでそれに飛びつくさ」
仕方ない、これが現実なんだと、隣人は淡々と口にした。そこには諦観や悲観すらもなく、人生こんなものだと達観すらしている。
「前にさ、漫画化の話を断ったじゃない」
それが気に食わなかった。
「本当にそれでよかったの? もしかしたらさ、その先で大きな成功を収めて、好きなことだけやって生きていけたかもしれないじゃない。なんでそんな簡単に諦められるのよ?」
怠慢を責め立てるように、この口を尖らせた。
好きな分野で活かせる特技。それを持ってアルバイトせずとも、お小遣いを稼いでいる。それは凄いことだと思うし、口にはしないが尊敬すらしていた。
お小遣い分だけとはいえ、好きなことだけでお金を稼いでいるのだ。誰にでもできる、簡単なことでは決してない。
ついには企業から仕事の打診まできたのだ。お小遣いの次は、生活を賄えるほどの収入に繋がるだろう。夢で飯を食えるほど、現実は甘くないと言っておきながら、夢を現実に変えられるチャンスを手にしていたではないか。
現実の厳しさをあれだけ説いておきながら、なぜチャンスを手放したのか。その納得いく答えを欲してしまったのだ。
「貴様は自分にかけられている金を、考えたことがあるか?」
「え?」
だから話が飛んだような、淡々とした口ぶりに狼狽えてしまった。
「親が今日までかけてくれた金だ。知らんと思うが、実はこの金は無限に湧いてくるわけじゃないんだ」
「わ、わかってるわよそのくらい……」
「なら、もう少し先を想像してみろ。貴様が言った嫌な現実の先で、汗を流して苦労して、ようやく稼いだそれを、自分のために使うことを惜しんで、子供に投資するんだ。目先の目標はいい大学に入って、いい就職先を手に入れる。少なくともそうしていけば仕事の苦労はあっても、底辺階級あるあるの苦労はしないだろうってな」
淡々としたその早口は、去年の夏休み。その初日を彷彿とさせた。
「それを楽に生きたい、好きに生きたいなんて一時の衝動で、目処の立っていない未来のために、全てを投げ売った先で、やっぱりダメでしたなんて言ってみろ。まさに無駄金だ」
感情論すらも封じ込めるような正論。区切り区切り言い含めるかのような間は、かつての早口よりもたちが悪い。
「なんか今日のあんた、説教臭くて嫌」
久しぶりに腹ただしいロジハラを受け、気に触ったのだ。
「貴様から話を聞いてきたんだろ」
「そうだけどさ……でもあんたは、目処が立ってそうだったじゃん」
「約束された未来というには暗すぎる」
「親のお金だなんだの前に、自分の人生でしょ」
「夢と現実の折り合いをつけた結果だ」
「折り合いだなんてカッコつけてるけどさ」
けれど今のわたしはかつてとは違い、生気に満ちている。
ロジハラ程度でわたしの感情を止まらない。無理やり箱の中に封じ込めようとも、胸の内から溢れる二字熟語たちが勢いを持って飛び出した。
反骨、勝気、衝動。
「結局、自分に自信がないだけじゃない」
例え相手の自尊心を貶めようとも、言い負かさなければ気が済まないのだ。
その抑えきれない気持ちを子供っぽいと言うのなら言えばいい。そうよ悪い、と得意気に鼻で笑ってやる。
「そうだ。ただこの世界で食っていける自信がないだけだ」
なのにあっさりと、隣人は子供っぽい感情を受け止めたのだ。バレてしまってはしょうがない、と見つかった悪戯を開き直る、子供のような笑声だ。
だがそれだけで終わりではなかった。
「それ以上に、嫌いになりたくないんだ」
「なにを? 自分を?」
「元ネトゲ廃人が言っていた。ネトゲなんかにハマらなければ、美少女幼馴染と寄り添えた未来があった。それを突きつけられ、人生失敗したと思ったらしい。その瞬間から、自分の人生だと掲げていた世界が色あせたそうだ。今まで通りに楽しめないだろうからって、あっさりとネトゲから足を洗った」
語り聞かせるというよりも、過去を懐かしむような口ぶり。けれど脈絡のない昔話である。面を食らって狼狽えてしまった。
それでも隣人が、唐突とはいえ意味のない話を始めたとは考えてはいない。礼儀のように、その話の続きを請うことにした。
「その人……どうなったの?」
「文字通り、死物狂いでなにもかもを勉強した。幼馴染の隣に立って相応しいとはいかなくても、恥ずかしくない男を目指そうとな。その甲斐もあって、大学には無事受かった。そのまま告白して、晴れて美男美女カップルの出来上がりだ」
「なんだ、ちゃんと報われてるじゃない」
悲惨な結末を辿った男の話かと思ったら、よくある美談である。作り話かのように都合のいい話だ。
だから貴様も頑張ってみろ、と諭されたところで胸にはなにも響かない。
でも、そうは続かなかった。
「ああ、報われたな。でも自分は運が良かっただけだって、本人は言っていた」
「運が良かった? 努力の結果じゃなくて?」
「努力するだけで取り返せる現実が、運良く残っていた。こんな奇跡二度とない。絶対彼女を手放すもんか……と酒の席でよく惚気けてくるもんだから、鬱陶しいことこの上ない」
良い話をしているはずなのに、次第に苦々しいものへと変質していく。その友人の顔を思い出したのか、この話を持ち出して損したかのような口ぶりだ。それこそ今向こう側を覗けば、苦虫でも噛み潰した顔を拝めるかもしれない。
「もしこの世界に進んで人生失敗しようものなら、今までのように楽しめなくなる。それだけはダメだ。この世界こそが俺の生きがいにして人生。だから楽しいだけにとどめているんだ」
それでもこの話を持ち出さざるえなかった。隣人にとってそれこそが、一番わかりやすい人生の教訓だから。
好きなことだけやって生きていけたかもしれない未来。そのチャンスを手放してまでなぜ、現実を見据え生きていこうとするのか。
「だってそうだろ?」
そんな疑問を投げかけた、わたしへの提示。
「そのときは魂の嫁、ユーリアたんへ捧げるこの愛すらも色褪せることになるんだからな。俺にはそれが一番耐えきれん」
隣人はただ夢に背を向けて、現実を見ているのではない。
夢を見続けるために、現実に向かっていたのだ。
好きなものを好きであり続けたいという、ただそれだけの想いであった。
「本気で作家を目指すのなら止めはせん。でも軽い気持ちなら、生活の全てを捧げるのは止めておけ。我に返った時、取り返しのつかんことになっていると後悔するぞ」
しかつめらしい口調はいつかの既視感を覚えさせた。
本人は偉そうにしているつもりはない。けれどそう映り構えてしまったのは、身近でとっつきやすかったその距離が、急に遠のいてしまったから。一緒に楽しんでいたはずなのに、実は遊んで貰っていただけの現実を知り、そこに虚しさを覚えてしまったかのような感覚。
子供と大人の差を、思い知らされた気分であった。
「だが、趣味程度に始めるのなら悪くはない。書きたいものがあって、書かずにいられない。そんな熱量があるのなら、我慢する必要なんてないと思うぞ」
「……あんたには、そういったものがあったの?」
そんな大人に向かって、警戒するようにおずおずと問いかける。
「ユーリアたんだ」
「ぷっ!」
次の瞬間、わたしは噴き出してしまった。
隣人の変わらぬ安定っぷりは、胸のつかえが取り除かれるかのような爽快感すらあった。
「そういえばそうなるわね」
「最初はクソみたいな絵だったがな。それでも思うがままにユーリアたんを描きたかった。そんなモチベーションがあったからこそ、今日まで挫折せず描き続けられたんだ」
あっという間にいつもの調子に戻った隣人。いや、最初からなにも変わっていなかった。変わったのはわたしの心持ちだ。
「絵で小遣いが稼げるようになったのはその結果論。最初から金のことを考えて始めたわけではない。好きは物の上手なれというくらいだ。パクリでも二次創作でもなんでもいい。作家になりたいという前に、まずは書きたいものを見つけてみろ」
伝えたいことを一方的にまくしたてるその早口。
初めてその早口を聞いたときは、苛立ちと憤りが湧き上がった。正論を叩きつけられ、逆ギレしたのが今や懐かしい。
けれど今回は正論でもなく、ありのままの現実を語っているのでもない。
「それがなによりの挫折しないコツだし、上達の近道だぞ」
人生の先達者、その経験からもとづくアドバイスであった。
隣人はわたしと四つしか変わらない。されど四年も長く生きているのだ。
オタク話で盛り上がり、楽しんでいるときはそんな隔たりを感じない。けれどそれは、出す必要のない部分であるからこそ、年上ぶったりしないだけなのだ。優越感に浸りたいわけでもなく、楽しいものは楽しいものとして共有するだけでいい。それが自分の世界、生きがいへのスタンスなのだ。
だからふいに現実の話に移ると、わたしが一番よく知る隣人の姿とぶれるのだ。わたしの四年先を行く、知識と経験、その精神性が如実に現れる。
きっと隣人は、社会から見たらまだまだ大人ではない。けれどわたしにとってその四年こそが、子供と大人の距離に感じてしまったのだ。
小学生から中学生、中学生から高校生、高校生から大学生。
社会的な一つの区切り、次のステージ。先に進んでいる者たちを大人に感じる、まさにそれと同じであった。
それに思い至ったことで、色々とすっきりした。
隣人は年不相応に、特別大人なわけではない。されど次のステージに進んでいるのだから、わたしより大人であるべきであったのだ。
その差に距離や虚しさを感じてしまうのは、ないものねだりと同じである。必要以上に背伸びし大人ぶっても、いいことなんて一つもない。
「あんたってさ、どっぷりなオタクのくせに、案外大人なのね」
「少なくとも貴様よりはな」
だから、わたしたちの間にはこのくらいの差はあってしかるべき。それでいいのだと思ったのだ。