8 声
一人で境内を歩いてまわっていると、不意に今朝見た夢を思い出した。
「くそっ……」
忘れようとしていた怒りがぶり返し、はらわたが煮えくり返る。あの夢はなんだったんだろうか。必死の思いで心の底に沈め忘れようとしていたことなのに、心の底に溜まったヘドロをかき回し、その底に隠していた傷を無理矢理こじ開けた。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。
歯噛みし、怒りで顔が歪み、すれ違う人たちがぎょっとした顔をして遠ざかっていく。ここが寺の境内でなければ、辺り構わず暴れ回り、目に付くもの全てを破壊したかもしれない。
四国八十八ヶ所霊場の一つだけに、お遍路と思しき人も大勢いた。
同行二人。
弘法大師空海と共に巡礼しているというその文字が、かつて共に研究に励んでいた女性を思い出させる。共に真実を目指し、励まし合っていたはずなのに、気がつけば全てを奪われていた。
殺してやりたいほど憎かった。
罪を憎んで人を憎まず、なんてことは思えなかった。
いっそ崇徳院のように、死して怨霊となり、彼女の全てを祟ってやりたいと思った。
噴き出してくる憎しみに囚われながら、境内をぐるりと一周した。どこにどの神様が祀られているかすら見ず、手も合わせず戻ってきてしまった。
待ち合わせ場所とした山門に着いたが、まだ零は来ておらず、私は煮え滾る憎しみを抱えながら零を待った。
ちくしょう。
ちくしょう、ちくしょう。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……
噴き出してくる。憎しみが噴き出してくる。もうどうにもならない。この憎しみを忘れるために一人旅に出たのに、どうして蘇ったのか。なぜ心安らかでいさせてくれないのか。憎しみに囚われても何もできない、何も成し遂げられない、前に進めない。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……
──お主、今のうちに疾く去れ。
「ん?」
誰かに話しかけられたような気がして、私は顔を上げた。
誰もいなかった。空耳にしてはずいぶんはっきりと聞こえたな、と首をかしげていたら、周囲の木々がざわめき出し、ごうっ、と不気味な風が吹き付けてきた。
──あれはだめだ。
──早う逃げよ。
──食われてしまうぞ。
「お、おい、誰だよ?」
また聞こえてきた声に不安になって声を上げると、また不気味な風が吹き付けた。
──逃げよ、我らが抑えているうちに。
──お逃げ、あれは人が出会ってはならぬもの。
──逃げよ、逃げよ、逃げよ。
「だ、誰だ……誰なんだ?」
ストレスで神経がおかしくなってしまったのだろうか? 私は不気味になって大声で叫んでいた。木々がざわめき、足元が揺れ、私はよろめいてその場に尻餅をついた。
──逃がさないよ。
何が起こっているのかわからず呆然としていると、それまでの不気味な声とは一変して、涼やかな美しい声が響いた。その途端、木々のざわめきが消え、風が止み、あの声も聞こえなくなった。
「な……なんだったんだ?」
わけがわからなかった。へたり込んでいる私を、他の参拝客が不思議そうに見ている。「大丈夫かね?」と見ず知らずのお遍路の人が心配してくれたが、私は「ちょっとよろめいただけです」と言って、邪魔にならないよう端へ移動した。
「どうしたの、祐一さん」
しばらくして零がやってきた。へたり込んでいる私に驚いたのか、心配そうな顔で私の顔をのぞき込んだ。
目があった瞬間、私は言いようのない恐怖を感じた。
零の目に底知れぬ闇があった。見つめていると引きずり込まれそうで、私は思わず後ずさった。
「ひっ……」
声を上げかけた瞬間、零の両手が素早く伸びて私の顔を挟んだ。
ぱんっ、と乾いた音がなり、頬がジンと痛んだ。恐ろしく冷たい手で、触られているだけで魂まで凍ってしまいそうだった。
声が上げられない。体が動かない。零の姿がぼやけていて、暗い闇の塊のようだった。
「聞こえてる?」
意識が遠のき、耳鳴りがし始めた時、零の声が私の意識を呼び戻した。
「あ……ああ、零……か」
「大丈夫? 調子悪いの?」
すぐ目の前にある零の目が、心配そうに私を見つめていた。零の姿が再びはっきりとし、私は大きく息をついて「大丈夫だ」とうなずいた。
零が手を離し、私は大きく息をついた。「これ」と言って零がペットボトルを渡してくれ、それを口につけ一気に飲み干すとようやく人心地ついた。
「しんどいなら、僕が運転しましょうか?」
「免許持ってるのか?」
「一応」
お願いしようか、と考えて、ふと気になって質問した。
「免許取ったのいつだ?」
「大学一年の時だから、三年前ですね」
「それ以後運転は?」
「一度もしてないです」
「……俺が運転する。だから少し休憩させてくれ」
なんですかもう、と零がむくれたが、それ以上は何も言わず、へたりこんでいる私の隣に座った。
「ま、急ぐ旅でもないし。ゆっくり休んでいいですよ」
零はそう言うと、私の肩に頭を乗せて目を閉じた。