79 左の道
──うなじに冷たい水滴が落ち、私はハッと意識を取り戻した。
武田教授の家の前。門を出ようとしたところでめまいがして、しゃがみ込んでしまった。どうやらそのまま少し意識を失っていたらしい。
いや?
本当に……そうだろうか?
なんだか違和感を感じたが、玄関を出てからの記憶はない。最近、こんなことが多い気がする。一度医者に診てもらった方がいいだろうか。
私は頭を振って意識をはっきりさせ、なんとか立ち上がると、急いで武田教授の家を離れた。
もし武田教授に見つかったら「泊まって行け」と言われるだろう。泊まったりしたら、朝までにどれだけ吸い取られるかわからない。早々に辞去するに限る。
弱い雨が降っている。私は傘を開き、夜の道を急ぎ足で歩いた。
十分ほどで、分かれ道に差し掛かる。
右へ行けばいつもの道、あの公園のそばを通って、駅まで五分。
左へ行けばかなり大回り、あの美少女、宮田零の屋敷の前を通って、二つ先の駅まで三十分。
「……そうだ」
私はカバンの中に入っている本のことを思い出した。
『物理学概論』。
半年前、羽田空港で拾った忘れ物の紙袋の中に入っていた本。書かれている名前に覚えがあり、どうしても処分する気になれなかった。ひょっとしたら今日またあの大男に、ミトに会えるかもしれないと思い、カバンに入れてきたのだ。
左へ。
私は二週間前に一度だけ通ったその道を歩いた。
誰ともすれ違わない、閑静な住宅街。五分も進むと明らかに雰囲気が変わり、「お屋敷」と称してよい大邸宅が並ぶ一角へと入った。
私の給料では買うことはおろか、賃貸すら難しい高級住宅。高い門、広々とした庭、何十人という人間が余裕で住めそうな大きな家。ただただ羨望と嫉妬としか感じない、そんなお屋敷が並ぶ中、ひときわ大きくて立派なお屋敷があった。
宮田零が、ミトと一緒に住む大邸宅。
勢いで来てしまったものの、あと一時間少々で日付が変わる、そんな時間だ。さすがに訪ねるのは失礼だろうと、私は鞄から零の本を出し、詫びの手紙と一緒にポストへ入れることにした。
「おんや、大学教授様じゃないか」
ポストを探してうろうろしていたら、勝手口と思しき小さなドアからミトが姿を現した。
突然のことに私は驚いたが、「こんばんは」とぎこちない挨拶を返し、深呼吸して気持ちを落ち着けた。
「こんな夜中にどうしたぁ? 散歩かぁ?」
「い、いえ、この近くで仕事だったの」
おおらかというか馴れ馴れしいというか、ミトの態度は慣れないと応対に困る。
「ん? その本は?」
ミトが、私が持っている本に気づいて首を傾げた。これでポストに入れて知らんぷり、というわけにはいかなくなった。
「その……実は、あなたたちにお返ししなきゃと思って……お詫びもしなくちゃと……」
私がおずおずと差し出した本を受け取ると、ミトは「ふうん」となんだか複雑な顔をした。
「ご、ごめんなさい、実はその本……」
「夜中に立ち話ってのもなんだからよ」
ミトは私の話を遮ると、勝手口を開けて「裏口からで申し訳ないが」と前置きした。
「入ってくれ。零も起きてるから、直接話してもらった方がいいだろ」
「で、ですが時間も遅いですし……」
「気にするな、俺も零も、夕方までグダグダ寝てたからな」
二人でグタグタと寝ていた。
一体何をしていたのかと勘繰りかけ、私は慌てて考えるのをやめた。仲睦まじい若い男女がすることなんて、そんなに選択肢があるわけじゃない。
「ほれ、入った入った。いいお茶出すから、飲んでけって」
「わ、わかりました。では少しだけ……」
私はミトに引きずり込まれるようにして、宮田零のお屋敷にお邪魔することになった。




