71 始まりの夜
目を覚ました時、私は広いベッドの上で一人だった。
全身を気だるさが包み、下腹部に鈍い痛みがある。枕元の机にある時計を見ると午後十時。どうやら一時間ほど眠ってしまったらしい。
「くっ……」
私は気だるさを押しのけるように体を起こした。
五月半ば。
昼間は夏の陽気を感じる時期だが、裸で寝るには夜は少し冷える。服を着せろとは言わないが、せめて毛布をかけるぐらいしてくれてもいいではないか、と思った。
何度かため息をついたのち、私は脱ぎ捨てられた下着を拾って身につけた。ハンガーにかけておいた服を着て身づくろいをすませると、鏡に向かって薄い化粧を直し、寝室を出て居間に向かった。
「おや神崎くん。泊まっていかないのかね?」
パソコンに向かって作業をしていた武田教授が、身支度を整えている私を見て薄い笑いを浮かべた。
私が勤める大学の、理学部学部長。五十台半ばのはずなのに四十前後にしか見えない若々しい男性で、辛口の女子大生たちをうならせるほどお洒落だ。見た目だけでなくその頭脳も優秀で、学会でも一目置かれる人だった。
「明日、一限の授業がありますので」
「ああ、そうだったね」
武田教授は冷笑を浮かべると、作業中のファイルを保存し、USBメモリに保存して私に差し出した。
「秋の学会で発表する、君の論文だ」
「……ありがとうございます」
「なに、存分に楽しませてもらったからね」
笑みを浮かべた武田教授から目をそらしつつ、私は受け取ったUSBメモリをカバンにしまった。
「君のように、成熟した女もいいものだな」
それはどうも、と言いかけて、やめた。単なる感想か、それとも嫌みまじりの嘲笑か。普段は二十歳そこそこの学生を食い散らかしている男が、三十路半ばの女を抱いてなんと思ったのか、知りたくもなかった。
「失礼します」
「気をつけて」
一礼し出て行く私を、彼は淡々と見送った。扉が閉まる直前、「関連論文はきちんと読んでおくように」と釘を刺され、私は無言で頷いて扉を閉めた。
近づくのでは、なかった。
彼の家を出て、私は足早に歩き始めた。男なんて女の色香でコロリと騙されるバカだと思っていた。事実そうだった。クラスで一番人気の男子も、サークルで人気者の男も、学会で期待される若手教授も、みんなそうだった。例外なんていやしなかった。私はそんな男の才能を正しく利用しているのだと、ずっと思っていた。
だけど、あの武田という男は違った。
本物の天才を前にして、私は自分の才能のなさを思い知らされた。どうあがいても私には書けない論文を、あの男は情事の後の一時間で書き上げる。この論文を私の名で発表すれば、私はそれなりの評価をもらえるだろう。しかし彼にとってこの論文は、余った時間で書き上げた駄作に過ぎない。そんな彼に対して私ができることは、裸になって体を開くことだけだ。
「くっ……」
しばらく歩くと、めまいがした。
全身がクタクタだった。まるであの男にすべての生気を吸い取られたような気がした。手足が鉛のように重く、歩くだけで息が切れた。
これはダメだと思い、ちょうど通りかかった公園のベンチに腰を下ろした。
「なんなのよ、あの男は」
あの男に抱かれるたびにこれだった。体が壊れそうになる。心が蝕まれ、バラバラにされてしまいそうになる。
そして何より、悪夢を見る。
悪夢の内容はよく覚えていない。だが、目が覚めた時に全身に脂汗をかき、呼吸が乱れて息も絶え絶えだった。
殺される。殺されてしまう。私の中身を、すべて食い尽くされてしまう。
その恐怖だけが残っている。しかも悪夢を見る頻度が徐々に増えている。おかげで近頃は睡眠不足で、気を抜くとうたた寝してしまうことがあった。
そしてそんな時は必ず、妙な音が聞こえるのだ。
ココココッ、と何か精密な部品が高速で回転するような、そんな音。まるで……そう、まるで、パソコンのハードディスクが回転する、あんな音。
「いけない、こんなところで……」
まぶたが急激に重くなり、私はそれに抗えなかった。
私はまぶたを閉じた。
引きずり込まれるように眠りへ落ちていく中、ココココッ、という音が私の中で響き始めた。




