40 隼人
今朝のことだった。
空が白み始めたばかりの頃に、僕は神殿を出た。ふらふらと、おぼつかない足取りで歩き続け、そのまま町を出て東の森に入っていった。
夢の中を歩いているような気分だった。どうして歩いているのかさっぱりわからない。
僕は森の奥へ進んだ。やがて道が途切れ、獣道へ入り、森の最奧にある泉を超えて、人が立ち入ってはならぬとされている禁域にまで踏み込んだ。
その禁域に入ってすぐ、流れが急で深い川があった。
その川は、人の世界と禁域を隔てる境界線。
僕は川の岸辺に長い時間立ち尽くしていた。もしもすぐに飛び込んでいたら、隼人が追いつくことはなく、僕は今頃、川の底で息絶えていただろう。
死ねと言われた。
滅びろと言われた。
抗っても抗っても声は消えず、やがて僕の意識がすり減った。死ぬのは嫌だった。怖かった。だけど執拗に続く声は死への恐怖すらすり減らし、僕はとうとう川へ飛び込んだ。
──途切れ途切れの記憶と隼人の言葉から、今朝から僕が取っていた行動はそんな感じだったと知った。
「どうして、こんなことをした」
禁域の入口にある監視小屋まで連れ戻され、僕は隼人に詰問された。
だけど、まるで覚えていなくて、答えようがなかった。「わからない」と答えたら、隼人は「答えたくないか」と諦めたようにつぶやき、大きく嘆息した。
ガタガタと、小屋の入口が鳴った。
誰か来たのかとビクリとしたけど、風が強くなっただけだった。日はだいぶ傾いていて、今から町へ戻ったとしても途中で日が沈んでしまうだろう。ろくな武器も持たずに真夜中の森を行くのは、獣たちに餌にしてくれと言っているようなものだ。今夜はここに泊まり、明日、日が昇ってから帰るしかない。
「冷えてきたな」
隼人が静かな口調で言った。
ぶるり、と寒さに体が震えた。ずぶ濡れになった服は脱ぎ、代わりに小屋に置かれていた毛布を巻きつけていた。日が傾くにつれ温度が急激に下がっている。こんな小さな火では小屋の中を温めることはできず、このままでは凍えてしまいそうだった。
「楓、こっちに来い」
隼人の呼びかけに、僕はビクリと震えた。寒さと、寒さではない別のものに震えながら僕は首を振った。「いいから来い」と言われ、それでも首を振って拒否すると、隼人が大げさにため息をついて立ち上がった。
うつむいて、震えながら膝を抱えていた僕の隣に、どしん、と隼人が腰を下ろした。
「このままじゃ、凍えて死ぬ」
「で、でも……」
「四の五の言うな。さすがにこの寒さはまずい」
隼人は強引に僕を抱き寄せた。僕が激しく首を振ってもお構いなし。まとっていた毛布を剥ぎ取られ、何一つ身につけていない体で、隼人がまとう毛布の中に包み込まれた。
大きくて頑丈で、分厚い筋肉と多めの体毛に包まれた隼人の体。その体と肌を合わせていると温もりが伝わってきて、僕の震えが止まった。
「オヤジに、何か言われたか?」
僕は黙ってうなずいた。首を振ったところで、きっと隼人にはバレている。
「俺も言われたよ。桔梗と結婚するんだから、お前とはもう会うな、てな」
「……うん」
「桔梗は、かまわない、と言ってるんだがな」
隼人が僕を抱きしめた。力強くて、でもとても優しい抱擁。だめなのに、許されないのに、その抱擁が嬉しくて、僕は分厚い隼人の胸に顔を埋めた。
「だめだよ……僕は、男だよ」
「世嗣ぎ争いをしなくて済むから、その方がいいとさ」
「……桔梗らしいね」
きれいで強くて頼もしい、誰もが認めるお姫様。その強さが、僕はとても羨ましい。
「でも、だめだよ……君は次の領主になるんだよ」
町で誰よりも強い男だからこそ、隼人の血を引く強い子が生まれることを誰もが望んでいた。それができるのは僕ではなく桔梗。どうがんばったって、男の僕に隼人の子は産めない。それができるのなら、僕の立場ももう少し違ったものになっていたはずだ。
「僕は、もう隼人の近くにいちゃだめなんだよ……」
「だからって……死ぬんじゃない」
隼人が僕を強く抱きしめた。骨が折れるんじゃないかと思った。その力強さに、僕は隼人が本気で怒っているんだ、てことを改めて思い知らされた。
隼人が、僕の顔を強引に上に向かせた。
「だ、だめ……だめだってば……」
「黙ってろ」
僕の唇に、隼人の唇が重なった。逃れようと必死で押し返したけれど、華奢な僕が全力を出したってビクともしなかった。
──滅びよ、お前は存在してはならぬ。
そんな声がどこからか聞こえてきた。けれどそれは、隼人の力強い優しさにかき消されてしまった。




