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29 宮田祐一

 兄さんはずいぶん長い間黙っていた。その間ずっと零を睨んでいたけど、零は平然としていて、どこか退屈そうな顔にも見えた。


 「では端的に問おう」


 ようやく兄さんが口を開いた。どうぞ、と言わんばかりに零が肩をすくめ、手を差し出す。


 「宮田君の論文はどこにあるのかね?」

 「……はい?」


 兄さんの問いかけに、零がやや間を空けて首を傾げた。その声音から、どうやら予想外の質問だったようだ。


 「宮田君だよ。宮田祐一は、君のお兄さんなんだろう?」

 「……いえ、違いますけど」

 「とぼけるな。この本が何よりの証拠だ」


 兄さんは手にしていた鞄から一冊の本を取り出した。

 それは、私も持っている物理学概論の本だった。もっとも表紙が少し違う。ずいぶん古いようだから、昔の版なのだろう。


 「この本の裏表紙に名前が書いてある……宮田祐一とね」

 「ええ……そうですね」

 「そして君の名前は宮田零だ。宮田君には弟がいると言っていたからね。君がそうなんだろう?」


 なんというか、零はひどく困惑した顔を浮かべていた。零は手に持っていた藁人形で頭をかき、腕を組んでうーんとうなった。いつも余裕ぶって人を見下しているような顔をしているから、そんな零の表情は新鮮だった。


 「論文だ、論文を出せ! 君が持っていても仕方ない。宮田君の論文は、私が持ってこそ有用だ!」


 兄の叫び声が一段高くなった。聞いた事のない、何かに取り憑かれたような狂信的な声だった。


 「弟……ではないんですけど」

 「とぼけるな! では何だと言うのだ!」

 「ゆきずりの一夜の相手です」

 「バカにしているのか! 君は男だろう!」

 「嘘偽りなく真実です」

 「ハッ、では彼は、男を相手に一夜を過ごしたというのかね。バカバカしい。そんなことがあるものか!」

 「妹に欲情してるあなたが言いますか」


 零の言葉に、私はギクリとなった。

 キリキリとあの音が響き始める。耳の多くで響き始めたその音は、いつしか私の脳内に大きな音を立てて響き、私は耳を塞いで頭を振った。

 キリキリと音がする。その音に混ざって声が聞こえる。荒い呼吸音とともに、ささやく声が聞こえる。


 ──私のものだよ。


 ぞくりと背中が震える。今の声に聞き覚えがあった。それもつい最近。ほんの……二日前?


 「論文ですか……ずいぶんこだわっていますね」


 困惑気味だった零の顔から表情が消え、すぅっと目が細くなった。


 「当たり前だ! 世界を変えるきっかけになるかもしれない論文だぞ!」

 「……そんな論文がどうして行方不明なんです?」

 「あのバカ女、宮田君の論文はゴミと言いやがった。あそこまで無能だとヘドが出る!」

 「バカ女……神崎詩織さん?」

 「そうだ!」


 あんな女ではなく宮田君と組めばよかった、そうすれば私はもっと素晴らしい可能性を手に入れいていた。

 兄さんはそう言って、神崎詩織の事を罵った。それは聞くに堪えない罵詈雑言で、妹とはいえ、女性の前で言うような言葉ではなかった。


 「それに比べて、奏はどうだ」


 兄さんが振り返り、私を見て口を極めて褒め始めた。

 ぞわり、と悪寒が走った。

 キリキリと音が鳴る。お前は私のものだと言う声が聞こえる。そして、神崎詩織を罵る兄さんが、お前の才能は素晴らしいと褒め称えてくれる。

 兄さんの手が伸びてきて、身動きできない私の体を撫でていく──


 「いや……いや、いやあっ!」


 私は悲鳴を上げ、兄さんの手から逃れようと思い切り車輪を回した。


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