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20 対価

 宮田 零。

 彼はそう名乗り「見ての通り訳ありです」と笑った。


 「私は早間 奏(はやまかなで)


 自分で引き止めておいてなんだけど、やっぱりやめておけばよかったかな、なんて思いつつ私は名乗った。


 「とりあえずこれ使って」


 ほぼ裸で寒々しい彼を見かねて、私はひざ掛けを渡した。彼は「助かります」と言って肩にかけ、端を胸の前で軽く縛った。


 「それで、あなたは何してたの?」


 私がやっていたこと、丑の刻参り、は彼に知られていた。だとしたら、彼が何をしていたのかを聞いても構うまい、と思った。


 「殺し合いに負けて逃げてました」

 「こっ……」


 思ったより物騒な言葉が出て、私は言葉に詰まった。


 「冗談……よね?」


 何も言わずククッ、と笑った零は、私の車椅子の取っ手を握り、静かに押して進み始めた。

 真夜中の住宅街に、またキリキリと音が響く。

 とうに日付は変わっていた。来るときと違って、車椅子の上で座っているだけなので体が次第に冷えていった。ひざ掛けがないから下半身が冷え、次第に全身が震え始めた。


 「寒いですか?」

 「少しね」

 「ひざかけ、返します?」

 「いい。裸で車椅子押してる姿、誰かに見られたらどうするの」

 「それもそうですね」


 大学の正門前まで戻ってきた私は、そのまま正門前の大通りを南下するよう零にお願いした。

 遠目に見える工学部棟は、まだ明かりがついてた。


 兄さん、まだ研究中かな。


 年が明けて三月に学会がある。きっとそのときの発表に向けて準備が忙しいだろう。しかもその学会はうちの大学がホスト校であり、兄は事務局の事実上の責任者だった。

 名誉なことであると同時に責任重大だと思う。

 そして、改めてぞっとする。今夜の件が身近な人に知られたら、期待の若手物理学者と言われている兄の邪魔をすることになったかもしれないのだ。


 「……助けてくれて、ありがとね」

 「なんですか、突然」

 「お礼、ちゃんと言っておこうと思って」

 「さっきも言ってましたよ」

 「そうだっけ?」

 「はい、ちゃんと。僕はよほどいいタイミングで現れたみたいですね」


 これはお礼を奮発してもらってもいいのかな、と零がおどけた口調で言い、私はクスリと笑った。


 「ひょっとして、体で払え、とか言う?」

 「ベタですねえ」

 「別にいいけど」


 私は痛みと寒さで震える足をつかんだ。


 「私の足こんなだし。あなたが本気で襲ってきたら観念するしかないよ」


 私がそう言うと、零の小さなため息が聞こえた。


 「やめておきます。高くつきそうだ」


 キリキリ、キリキリと車輪が鳴く。なんて耳障りな音だろう。


 「ところで奏さんは、この大学の学生ですか?」

 「ええそうよ」

 「学部は?」

 「理工学部。数学科よ」

 「ああ、それはちょうどよかった」


 何がだろう、と振り向くと、零がにこりと笑った。


 「先程お礼と言っていましたので。なら、僕に数学を教えてください」

 「数学を?」

 「はい。ちょっと勉強したくて。できれば基本から」

 「……いいわ、お安い御用よ」


 それっきり、私と零は会話することなく歩き続けた。

 キリキリ、キリキリという音は、大通りに出ると車の音に紛れて聞こえなくなってしまった。

 私はホッとして、大通り沿いに西へ行くよう、零に指示した。


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