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「あ、わかった」
志保は、何かに気がついた風に手をポンとやった。
「あれでしょ。あれ。あれよあれ。だから、あれだってば」
志保は、僕に人たし指を向けて、あれだあれだと騒いでいる。
「もしかしてだけど、実は何も気づいていないんじゃないの?」
僕は、小さな声でつぶやいた。志保は、その言葉にドキッとして、遠くの方を見るような目をして、口笛を吹いた。
「いや、わかりやすすぎるでしょ。その、実はわかってなかったです、の態度」
「しょうがないじゃん。私、電卓なんて使わないもん。電卓を使って勉強なんてしたことないんだから」
志保は、椅子から立ち上がり、部室のソファーに腰掛けた。
「それで、その電卓はなんなの? 楽しいことでもしようとしているわけ?」
「んー、まぁ」
「まぁって」
「恥ずかしいから言いたくない」
僕は、口をバッテンにしてこれ以上の言及を避けようとした。
「口をバッテンにしたって、ダメなものはダメ。さぁ、言って」
彼女は、僕をじっと見つめていた。その視線はどちらかといえば、かわいいものではなく、少しだけ恐怖を感じる類のものであった。
しばらく、僕は黙っていたが、彼女の押しに負けて「公認会計士になろうと思うんだ」と白状した。
「なにそれ」
「会計士」
「いや、だからそれ何?私、知らないよ」
「え?」
僕は、驚いた表情を隠せなかった。会計士といえば、医師、弁護士、公認会計士で括られ、三大国家資格と言われる資格の一つである。僕としては、当然知っているものだと思った。
「医師と、弁護士は知ってるよ。よくドラマとかやってるじゃん。ああ、医療モノのドラマ苦手なんだよね、あたし。あの血がドバって出る感じとか?女の子は血に強いって言うけど、私は弱いの。男なのかしらね」
志保がなんだかノリノリである。どのあたりにテンションが上がる要素があったのかはわからないが、彼女の中では何かピンとくるものがあったのだろう。僕は、「男なんじゃないの?」と言おうと思ったがそのまま黙って聞いた。
「弁護士のドラマもさ、やたら人間模様を描くからあんまり好きじゃないよ。殺人事件で、嫁が不倫したから殺したって言われても、よくわからなくない?不倫したならそのままほっといてあげなよって思う。殺したって何も良いことないよ」
志保は、しれっと恐ろしいことを言った。僕は、頬杖をつきながら彼女の話を聞いた。
彼女は、ソファーから立ち上がり、部室の中を移動し始めた。移動しながら話す姿は、さながら企業の製品発表会の時のプレゼンテーションを彷彿とさせた。
「それで、君はどうして公認会計士になりたいんだい?」
彼女は、今にも英語で「ほわい」と言いそうな雰囲気を纏っていた。どことなく、タートルネックとジーンズ姿の人物が、僕の頭の中のイメージと重なった。
「なんとなく……かな。理由はあまりないよ。このまま就職しても、いい企業に入れるような気はしないし」
「そうだろうね、君はバカだから」
「こらこら。感情移入するのは、結構だけど、あんまりバカって言われるとショックを受けるからやめなさい」
彼女は、片目を閉じてベロをだして「てへっ」と小さな声で呟き笑った。
「でも、その試験って難しいんでしょ?」
「まぁ、難しいらしいよ」
「らしいって」
彼女は、呆れた顔をしている。どうやら、僕が憶測で物事を言っていることがひっかかっているうようである。
「だって、まだ勉強し始めたばかりだし、受けたこともない試験を、難しい!って決めつけるものおかしくない?」
「でも、周りは、難しいって言っているんでしょ?ネットの掲示板とか」
「まぁ、言っては……いるかもね」
「言っているんなら?難しいんじゃない?」
彼女は、僕にゆっくりと近づいてきて、僕の隣のパイプ椅子に座った。彼女は、半身を僕の方に向かせて引き続き会話を続けた。
「志保は、ネットの書き込みとか信じるの?」
「ある程度は。烏丸は?」
「僕は、ほとんど信じない。参考にはするけど、最終的には自分で経験して、物事は判断したいんだ。映画にしろ、漫画にしろ。僕が見て、僕が感じた瞬間に判断したい。だから、公認会計士試験が難しいかどうかは受けてみてからじゃないとわからないんじゃないかな?」
僕は、割と真面目なことを言ってしまったのかもしれない。志保が固まっている。
「烏丸って……そういうキャラクターだったっけ」
志保は、心配そうに僕の顔をペタペタと触り始めた。そして、調子にのって軽く僕の頬をつねった。
「痛い」
僕は、低いトーンで苦情を訴えた。
「汚い」
僕の痛さとは裏腹に、僕の男らしい肌から溢れ出る脂が、指についたようである。なんとなく、やり返してやったという達成感が生まれた。
志保は、ポケットからハンカチを取り出して、僕の目の前で指を拭いた。それもそれで失礼なやつと思ったが、そこは、僕と志保の中である。特に僕は何も言わなかった。
「どうやって勉強してるの?」