未完
大賢者ヴィルヘルム・フォン・バッティスタは、その日目が覚めると、自分の体の感覚がいつもと違うことに気がついた。
体の自由が効かない。
最近では木刀を振るうのも億劫になるほど体力が衰えていた。
(……まさか、死んだのか、わしは?)
声を出そうにも、どうすれば声が出せるのかわからなかったヴィルヘルムは、とりあえず今自分のおかれている状況を正確に理解しようとした。
まず、自分の掌を目の前まで持ち上げてみる。
何か磔にされたようにミリも動かなかったが、無理をして持ち上げる。
バリバリ、と何かが破けるような音がして、それは眼前まで持ち上がった。
そこに映っていたのは人間の手だった。
何やらヌルヌルテカテカとした液体に塗れてはいるが、紛れもなく人間の手である。
しかし、人間の手であることには変わりないのだが、どうやら90余年間ずっと連れ添っててきた己の手ではないように見えた。
……いや、確実に違う。
これは自分の手ではない。
(小さいのぅ……。
まるで子供の手じゃ)
柔らかくて、細くて、小さくて。
とても90年の月日を感じるような、しわくちゃで骨ばった老人の手とは思えなかった。
むしろ逆である。
(……はて。
若返りの魔法なぞあったかのぅ)
少なくとも、自分の記憶の中には生物の時間を巻き戻すような魔法には聞き覚えがなかった。
いや、生物のみならず、時間を操る術など聞いたことがない。
(とすれば、変身系か)
スライムなど極一部の不定形な魔物には、《ユニークスキル》として己の姿形を変える《変身》と呼ばれる技能を持つ個体がいる。
そのスキルを研究して作り出された魔術の一つに、一時的に容姿を変えるモノがあるが……彼にはそれを使った記憶もない。
まして、このように危険な魔の森の奥地まで、放っておけば死ぬようなこんな老人を呪う人物にも心当たりがない。
それに、この全身にまとわりつく不快な感覚――。
ヴィルヘルムはもう一方の手も、同じようにして無理矢理に動かした。
次に膝を曲げて、上体を起こし、無理矢理に自由を獲得する。
そうすることで彼は初めて、今自分の身に起こっていることを全て把握することができた。
(これは……)
あまりにも非現実的な出来事に、ヴィルヘルムは息を呑んだ。
なぜなら、彼の視界に映っていたのは、人間の抜け殻とでも呼ぶべき物体を、今の自分の新しい体が纏っていたからである。
そう、つまりどういうことかというと、ヴィルヘルム・フォン・バッティスタは、人間から脱皮していたのだ。
「……」
はたして、こんなことが実際に起こるものなのか。
ヴィルヘルムはこの90年で一番の驚愕を覚えていた。
なぜなら人間が脱皮するなどという話は聞いたことがなかったからだ。
これではまだ自分が、ヴィルヘルムという人間の中に棲んでいた寄生虫だったと言われたほうがしっくりくる話だ。
「……」
考えても答えは出ない。
ヴィルヘルムはとりあえず現状を受け入れると、自分の抜け殻から這い出てみることにした。
⚪⚫○●⚪⚫○●
数日が経過した。
この数日でわかった事はいくつかあった。
まず、その一つ目だが、最初に自分の体に纏わりついていたヌルヌルとした何かは、どうやら生前の自分の血液だったらしいという事だ。
どうやら本当に体内から食い破って生まれてきたかもしれない。
となると、今まで自分が自分だと思っていたのは、そこに転がっている抜け殻ではなく、実はこちらの方が本体なのではないかと思えてきたのだ。
そして二つ目。
このヴィルヘルムだった老人は、人間とは別の種族である可能性。
そもそも人間はこんなふうに脱皮しないし、しないとしても自分は確かに人間ではないだろう。
こんな人間がいてたまるかって話だ。
そこで疑問に思ったヴィルヘルムは、生前まで買い溜めた魔法生物(通称:魔物)の学術書の中に、そういえば不死鳥という存在がいたことを思い出した。
フェニックスとは不死鳥とも呼ばれているが、実際には絶対に死なないわけではない。
死ぬ間際に新しい自分に生まれ変わるための香草や香木を集めて巣を作り、そこで寿命を迎えると全身を一気に燃え上がらせて灰になる。
そして、その灰の中から新しい自分を転生させるのである。
これとは全く違うが、似たような仕組みで(つまり成体から幼体になることで寿命を永遠に見せかけるという方法で不死の状態になる仕組み)ベニクラゲというクラゲがいる。
ベニクラゲは寿命が近づくと幼体に戻り、再び成長して成体になることを繰り返すことで、寿命という枷から完全に開放されている生き物の代表格である。
つまり何が言いたいかといえば、ヴィルヘルムの身にも似たようなことが起きているのかも知れないということである。
これは三つ目になるが、このお陰か。
生まれ変わった直後の彼には、おおよそ性別の特徴と言えるものが実在していなかった。
細かく言えば、生まれ変わった彼の股間は幼い少女のものとほとんど同じと言って差し支えない形をしていたのである。
……さて、これからどうしたものか。
彼はヴィルヘルムだった頃に着ていた服を纏い、リビングのソファで横になりながらこれからの生活をどうするべきかと考えていた。
いや、無論この現象がどういったものなのかを研究するということには変わりない。
この体になった頃から、彼はそう決めていたのだ。
だがらそうすると、彼はせっかく手に入れたこの楽園を手放さなければならないことになるだろう。
なぜなら、自分一人で研究できることなんて高が知れているというものだ。
数十年も隠居していれば、外の世界の魔法文明力も向上していることだろうし、何かわかるかもしれないと踏んでいるのだ。
「仕方ないのぅ」
新しく作成した魔道具によって声を得たヴィルヘルムは、新しい喉の調子を確かめるように呟いて、森の外に赴く準備を始めることにしたのだった。
⚪⚫○●⚪⚫○●
魔の森はアンドゥナーツァ帝国の一部を含み、その他四ヵ国を股にかける世界最大最古の森である。
その特徴として一番に挙げられるものは、とにかく周りにある全てが巨大であるということだ。
魔の森は魔力が濃く、普通であるならば魔力の弱い人間は立ち入るだけで吐き気、嘔吐などの症状が現れ、最終的には死亡してしまうのである。
この症状は、肉体が外の魔力を以上に吸収し過ぎたがために起こるもので、俗に魔力過剰症と呼ばれているものである。
そしてこの症状は、森の中心に向かえば向かうほど強くなる――つまり瘴気が濃くなっていくのである。
この濃い魔力は、瘴気と呼ばれている。
その性質の為か、この森には魔物化した巨獣が跋扈しているのだ。
故に、魔の森の魔物(巨獣)は通常の魔物よりも遥かに強力なのである。
さて、そんな世界で90余歳の老人であるヴィルヘルムがどのようにして生きてきたのか。
その答えは、今彼の目の前にいる角の生えた熊の巨獣――ベアリゲル――が教えてくれるだろう。
「グルオオオオオオオオオオオ!!」
銀色の毛並みに紅い幾何学模様が光る。
ベアリゲルの威嚇行動である。
通常であれば、国が軍隊を動かして討伐するレベルの脅威である。
が、しかしそんなことは帝国の大賢者であるヴィルヘルムには当てはまらない。
「今日から暫くは熊料理じゃの」
そう言うと彼――いや彼女は虚空から漆黒に輝く木刀を抜刀した。
ヴィルヘルムは大魔術師であり大賢者である。
だがしかしその功績は《刻印》の開発、完成による魔道具の開発によるもので、魔法による戦闘で与えられた称号ではなかった。
だが、この数十年間巨獣を狩り続けたことにより、その戦闘能力は戦闘により功績を上げた大魔術師や、Sクラスの冒険者のそれを遥かに凌駕していた。
ヴィルヘルムは木刀に魔力を流し込むと、ベアリゲルに向かって斬りつけた。
次の瞬間には、その巨獣はキレイに解体された状態で手首に嵌めた魔道具《宝物殿》に収まっていた。
――と、まあつまり。
ヴィルヘルムはこのように、魔の森の生き物を食べることで魔力の総量を底上げすることで、瘴気による魔力過剰症の影響を無効化していたのである。
もしこれを人が聞けば、こぞって魔の森の生態系を狂わすことになるだろう。
そうならなかったのは、偏に自分の力の源を態々教えるようなことをするバカがいなかったからに違いない。
……さて、そうなると己の出自についても、少し誤魔化さなければいけないところもありそうだが……これはヴィルヘルム自身が、ヴィルヘルムの弟子であるとでも言っておけば問題ないだろう。