プロローグ ことの始まり
禁忌とわかっていてなお、なぜ人はそれ追い求めるのか――。
牢屋の壁をいくら睨みつけても答えはどこにも見つからなかった。当たり前だ、と彼は自嘲的に笑った。人買いのような連中に、そんなことをを考える頭があるはずもない。哲学、神、真理――善悪とはなにか。そんな雑事に彼らが頭を悩ますくらいなら、自分はこんなところで、出荷先が決まるのを待つ必要もなかった。
商品の日々は退屈だった。やることと言えば昼寝しか無い。敷く意味があるとも思えないボロ布を冷たい石の床に敷き、両腕を枕に仰向けになる。明かりとりの窓から空を眺め、その日の天気を予想する。雨が降ると、窓から入り込み部屋を濡らすためだ。知ったところで防ぐ術もないが。
この日の窓は灰色をしていた。つまりは曇り。雨はいつでも降りだすことができる。気持ちも落ち込む。良い天気とはいえない。
しかし、彼は曇り空が好きだった。心が晴れるでもない、むしろいらいらとしてくる、そんな曇り空が好きだった。その空を見る間だけは、自らの目的を取り戻すことが出来たからだ。
「…………」
奴は奪っていった。彼から。一切合財を――。
それは燃え盛る炎だった。時には赤々と、時には青白く、そして時には真っ白に輝く、全ての光の源だった。彼の根源だった。奴らがそれを奪い取ったがために、彼は存在を変えられてしまった。誰もが畏れる、決して触れることのできない禁忌の存在から、こうして人買いに売られるただの商品に。
許されることか? 哀れな売り物の分際で、彼は自らに問いかける。
奴らの行いは許されることか!?
この自分から奪い取った、奴らは。人に過ぎた所業、悪魔ですら許されぬ、彼らの所業は許されるものか。奴らは、俺から奪っていったのだ。
矜持を! そう、絶対的な矜持を!
だから彼は誓ったのだ。奴から必ず取り戻すことを。人の身に余る所業を、神をも恐れぬ奴らの所業を、必ずや自らの手で断罪することを!
雨がふりだした。窓から入り込んだ雨滴が彼の額を濡らす。けれど彼の怒りは消えることはない。その怒りは熾火のように、彼の中で燃え続けている。かつてのように、再び勢い良く燃え上がる日を、今か今かと待ち焦がれながら。
◇
その日、普段は近づかない離れに少女が近づいたのは、食事の時間になっても父親が一向に現れないからだった。
ロウソクの灯りを手に、少女は父親の研究室に向かった。実験事故が起こった時のため、研究室は離れに作られていた。日の暮れかけた中、母屋と離れを結ぶ煉瓦敷きの道を行く。長いこと手入れをしていなかったせいか、雑草がやたらと伸びていた。
五分とかからずに、少女は離れへと着いた。必要ないかもしれなかったが、一応ノッカーを叩く。一回、二回……。返事がなかったので、少女はドアノブをひねった。鍵はかかっていない。
灯りも何もない中を、ロウソクだけを頼りに少女は行く。離れは静寂に満ちており、それが少女を不安にさせた。少し。あの暗がりに、幽霊でもいるのではないか……。そんな子供じみた考えが浮かぶ。少女は苦笑した。もうそろそろ、そんな非現実な考えからは卒業するべきだ、と。
非現実……そう、幽霊は非現実だ。現実には、人間のほうがよっぽど恐ろしい。
ここ数日のことを少女は思い出していた。最近、精霊研究をしている父の周囲を、怪しい男たちが嗅ぎ回っていたのだ。少女自身、食材の買い出しに出た際に、父親について訊ねられた。すぐに逃げ出してしまったので、男たちの声も、人相も思い出せないが……。
どうせならしっかりと顔を見ておき、警備所に人相書を張り出してもらえばよかった。今度あった時は、その顔を目に焼き付けてやろう。一人頷きながら、少女はそんなことを思った。とはいうものの、彼らには二度と会いたくはない――。
「!」
誰かが、こっちを見ているような気がした。少女はびくりと肩を震わせ、足を止めた。
注意深く、気配のした方を見つめる。何もない。気のせいだろうか?
十秒ほど硬直した後、ようやく何もないとわかって少女は胸をなでおろした。不吉なことを考えたせいで神経質になっているのかもしれない。
……と、彼女がそう思った、その時――
「やめろ! なにをする!」
父親の悲鳴が聞こえてきた。
ロウソクをその場に放り出して少女は駈け出した。問題はない。離れとはいえ自分の家だ。たとえ眼をつぶってでも、目的の場所へは辿り着くことができる。実際それは間違いではなく、少女はすぐに研究室のドアを見つけた。今は見えないが、中央に在不在を伝える掛札があるはずだ。
「お父さん! ねえ! 何があったの!?」
叫びながら、少女は研究室のドアを開けた。
彼女を迎えたのは、当然ながら父親の姿ではなかった。炎。赤い、いや……奇妙なことながら、それは真っ白い炎だった。
学校の教室ほどもある研究室は、全てがその白い炎に覆われ、一歩たりとも足を踏み入れることはできない。熱くはない、不思議と――けれど、本能に訴えかける恐怖が、両足を地面に縛り付ける。揺らめく炎の向こう側に少女は父の姿を見つけた。必然、父もまた娘を。その証拠に彼は叫んだ。
「レベッカか!? 早く逃げろ! ああそうだ、あれは私の娘だ。いい、いい! あんたらに従う。余計な人質はお荷物だろう」
少女の身を案じてか、父は何者かとそんなやりとりをした。
きっとあの男たちが父を拐いに来たのだ! 少女はそう思って、炎越しに父に叫んだ。
「ああ、お父さん! そんな、待ってて。すぐに警備所に助けを……ああ!」
「余計なことはするな! 私は心配ない。ああそうだ。レベッカには手を出すな。おい、聞いてるのか。娘一人くらい、お前たちならいつでも殺せるだろう。だからおいておけ、人質にしなくても私は言うことを聞く、だから……」
炎が吹き上がり、父親の姿が見えなくなる。かと思えば、白い炎は一瞬のうちに掻き消えてしまった。後には普段通りの研究室――あれだけ炎が渦巻いていたのに、書類一枚燃えていない、普段通りの……。ただ一つ、部屋の主だけを欠けさせていたが。
あれから一月ほどか、未だ父は帰ってこない。