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 糞の臭いがした。

 豚の糞の臭いであり、馬の糞の臭いであり、人の糞の臭いだ。

 狭い村に立ち込める臭気は、人のはらわたの臭いがする。

 それは、生きているという事だった。

 若いクレイが、ただ不快だった臭いは、見方を一つ変えるだけですっかり別な物になる。

 広がる麦畑を遠くから眺めれば、波打つ黄金の海のようであり、ただひたすらに美しい。

 だが近付いてみれば麦を刈り入れる村人達の表情は豊作を喜びつつも、どこか憂鬱そうな気配も滲ませている。

 豊作であればあるほど脱穀の手間はかかるし、何より領主に半分を税として納めなければならない。

 苦労して育てた麦を、何もしていない領主に渡すのはひどく業腹だろう。

 だが、収穫の喜びも確かにあった。

 言葉の上では矛盾でしかない感情が、彼らの中では何の違和もなく同居している。

 当然の事ではあるが、それは象牙の塔の中ではわからない事だ。

 若い僧の中には貴族達は喜んで義務を果たし、農民達はその義務に喜んで税を納めていると考えている者もいた。

 元々は貴族の一人だったクレイからしても、彼は鼻で笑うような世間知らずではあるが、自分が同じ穴の狢になっていないとは限らない。

 だから、クレイはなるべく外にでようとしていた。


「本当にすみませんねえ、お坊様にこんな物しかお出し出来ずに」


「いえ、ありがたい事です」


 そろそろ日が暮れようかという時分、クレイは一軒の農家に宿を求めた。

 狭っ苦しい家に、これまたみっしりと人が詰まっているような家だ。

 剥き出しの土間を元気に走り回る七人の子供達のせいで土埃が舞い上がり、粗末な麦粥に少しばかり入り込む。


「こら、あんた達!暴れるなら外に追い出すからね!」


「はーい!」


 そう言って元気よく返事をする子供達だが、どうせすぐに忘れるだろう。

 クレイに食事と床を分け与えてくれている女は生活の疲れからか、美しかったであろう容貌に衰えがあった。

 しかし、若さだけでは得られない威勢の良さはどこか小気味がよくて、クレイは少し嬉しくなりながら麦粥をスプーンで掬う。

 少しばかりの麦を、水と名前も知らない雑草で嵩ましされた粥は、控え目に言って美味い物ではない。

 それでもうっすらと塩の味が口の中に広がり、必死の歓待が感じられた。

 内陸部にあるこの村では、海塩はひどく高い。


「ごちそうさまでした」


 どたばたと走り回る子供達の中で粗末な麦粥を食べ切ったクレイを見て、女は彼が怒り出さなかった事にほっとした表情を浮かべた。

 器を下げ、クレイに水を出し、子供達を叱りつけ、寝かしつけ……彼女がクレイに話を切り出したのは、月明かりがすっかり村を覆い隠した頃。


「すみません、お坊様。うちみたいな貧乏人じゃ大したワインも出せませんで……」


 再び申し訳なさそうな表情を浮かべ、彼女はクレイにワインを注ぐ。

 彼女の言う通り、そのワインは酢になりかけた古いワインで、味については一切言及しない事にクレイは決めた。


「お坊様は徳の高い……いやまぁ金にはとんと縁の無さそうな方ではありますけどね」


 いささか正直過ぎるだろう言葉に、思わず苦笑が漏れる。

 確かに今のクレイの姿を見れば、金に縁があるとはとんと思えまい。

 何年着古しているのかわからぬ襤褸切れのような僧服を被ったクレイの姿は、控え目に言って僧のふりをした乞食と思われても当然だ。

 しかし、乞食にしては挙措に品があり、発音も農民である彼女が聞いた事がないほどに美しい。

 発音は階級ごとに変わり、農民には農民のアクセントが、貴族には貴族のアクセントがある。

 高貴なアクセントを持つクレイに女が怯えを抱かないのは、彼の雰囲気だ。

 老いによる皺がクレイの顔中を埋め尽くしてはいるが、柔らかな笑みの形に刻まれた皺は、女にほっとする物を感じさせてくれている。

 これは好き好んで苦労をしている、変わり者の僧侶なのだろう、と女は考えていた。

 ただ眉間に深く刻まれた皺だけが、深くは知らないクレイに似つかわしくないと思ってもいたが。

 ワインで湿った女の口が、そんなクレイに向かってやたらめったらと回り出す。


「いやね、こんなちっぽけな村ですと、楽しみなんて一つもないじゃないですか。それでね、若い頃にはうちの旦那は毎晩毎晩"お楽しみ"ばかり。

 あたしが疲れてるから嫌だって言ってもですよ。ひどいと思いません?」


 何と答えればいいのか、クレイは迷った。

 女の言葉はひどく明け透けで、照れもない。

 うんだの、ああだの要領の得ないクレイの相槌を気にせず、女は旦那の文句を百も二百も並べていく。

 ぽんぽんと捲し立てられる音量はそれなりに大きく、すでに寝入った子供達が起きないか心配したクレイであったが、その心配は杞憂だったようである。

 穴の空いた布で仕切られているだけの家で"お楽しみ"をするとなれば、お互いに気にしていてはいられないのだろう。

 クレイは六十を過ぎて、一つ学んだ。


「……その、ですね、お坊様」


 ワインを一本空けた頃(クレイはまだ一杯しか飲んでいない)、女はひどく恥ずかしげに呟いた。

 クレイが赤面してしまうほどに具体的なまぐわいの話を、しかも他の男と"いたしていた"話をしていたとは思えないくらいに、若かりし乙女が愛を交えるような、そんな恥ずかしげな表情だ。


「あのろくでなしの宿六でもね、あたしの旦那なんですよ。いてもいなくてもいいぽんこつ亭主ですけど、子供らの父ちゃんでもありますし」


 傷んだ髪先を指先で弄んだ所で、微笑ましい物を見る目で見つめるクレイが変わるはずもなく、そんな目で見られている事はわかっている女はえいや、と切り出した。


「そこでお坊様を徳の高いお坊様と見込んで相談なんですけどね。その……兵隊に取られちまった父ちゃんが無事に帰ってくるように……祈ってやってはくれませんか?」


 言葉の最後には女の表情から照れが消え、真剣な物だけが残った。

 切実な、ごろりとした堅い物だ。


「お礼は……金なんてないんですけどね。今日の飯と、寝床くらいしかなくて……さすがにあたしの体なんていらないでしょうし」


「いえ、それで結構ですよ」


「あたしの体でですかい!?」


「違いますよ!?」


 農民に貞淑を求める方が間違っている、とクレイはわかっている。

 子供達の中には自分と血が繋がっていない子が混ざっているかもしれない、とわかりつつ育てるのも農民の生き方だ。

 一夜にして夜盗や災害、魔物に襲われて滅んでしまうかもしれない村からすれば、血の繋がりなどよりも人の数が優先される。

 そういう実利的な部分を除いても、東方から運ばれてくるガラス細工のような貴族の娘達とは違う、農民の女の強さでもあった。

 男と対等に"お楽しみ"をする女。それは飲み込めない僅かな嫌悪と、どこか面白がっている自分にクレイは気付いた。


「対価は結構です。私は旦那様のために祈りましょう」


「ああ、本当ですか、お坊様!ありがとうございます!」


 クレイは心を籠めて、信じてもいない祈りの言葉を女に捧げた。










 のんきな顔でもしゃもしゃと草を食む馬の顔は、なんだか驢馬に似ていた。

 日の出と共に村を出て、大陽が中天に差し掛かる手前だろうか。

 長年、尻に敷き続けてきたクレイの手綱を無視して歩を止めた愛馬は、主の意思を無視してのんびりと草を食べ始めたのだ。

 ちょっとした森に囲まれ、わき水もあるこの場は、馬からしてみれば絶好の休憩場なのだろう。


「ふう」


 と溜め息の一つも吐いてみれば、やる気の欠片もない態度で溜め息を吐き返された。

 尻の一つでもひっぱたいてやろうか、と思ったものの、そんな真似をした日には意地になって我が愛馬殿は何があっても動くまい。

 年を重ねた愛馬は、すっかりと怠惰になっていた。

 仕方なしに草むらに腰を下ろしたクレイは、早めの昼食にする事に決める。

 とはいえ、ひたすらに硬いパンとちょっとした干し肉、そして酢のようなワインをもそもそと腹に納めるだけだが。

 それらをやっつけて(もうやっつけて、としか言えない)、さあ行こう、と立ち上がってみれば、愛馬はすっかり眠りについていた。

 ほとんど眠らないはずの馬が、イビキをかきながら眠っている。

 憎たらしいやら情けないやら、クレイは笑うしかなかった。

 とはいえ、愛着を持たぬよう名前も着けずに乗り続けて二十年。ここまで生き延びてくれた馬を無理に辛い目に合わせるのも……と思いつつも、ここまで堂々と眠りこけられるのは腹が立つ。

 どうしてくれようか、と悩んでいたクレイの耳にふと何やら物音が飛び込んできた。

 馬蹄の音だ。

 連続して連なる馬蹄の響きは、十かそこらか。

 ぱからぱからとやる気のない足音を立てる愛馬殿とは違い、その騎馬の群れはひたすらに生き生きと草原を駆けている。

 歩く事すら面倒くさい、とばかりにイビキをかく老馬とは違う若い馬の群れで、その内の一頭は恐らく大した名馬なのだろう。

 他の連中に合わせるのが億劫で億劫で仕方ない。そんな苛立ちの混じった足音をさせている。

 いっそうちのと交換してくれないだろうか、と思わなくもないが、苛立ち混じりの足音がふと緩む。

 恐らく乗り手が何かしたのだろう、大した信頼感だった。

 そんな相手に驢馬だか駄馬だかわからない我が愛馬殿と、あんたの名馬を交換してくれないだろうか、と言った日には刃を抜かれてもおかしくない。

 そんな情けない今を誤魔化す現実逃避の妄想をしていた時である。

 騎馬の群れが、足を止めた。

 何故、とクレイが疑問を浮かべると、答えはすぐに音として届けられる。


「我こそはベルガリの子、ザシャ!我が父の仇、隻眼のゲトリクス殿はおられるか!尋常に勝負いたせ!」


 若い声だ。

 恐らく行っていても十やそこら、十五は行っていない声だ。

 しかし何度も確かめてきたのだろう、その口上に淀みはない。


「おう、俺がゲトリクスよ!ザシャとやら、よう来おったな。ベルガリ殿は良き敵、良きいさおであったわ!そんな彼の子が、良き武者である事はなんと喜ばしい!」


 対する声は、太い。

 二十の半ばを過ぎ、男として脂の乗りきった年頃か

 喜びに満ちたその声は、聞いているだけで決闘を受けぬ選択肢はないように思われた。

 一応、我が愛馬殿にお伺いを立てるように視線を向けてみれば、開いていた右目が気儘に閉じられた。

 下界の事は下界でなんとかせよ、とでも仰りたいようである。


「さあ、いざ行かんベルガリの子よ!見事、我が首獲ってみせよ!」


「おうこの、とうへんぼく!あんたのその残っためんたまも俺の槍でふさいでやる!」


 先程の見事な口上はどこへ消えたのか、ザシャの口から飛び出してきたのは威勢のいいだけの酷い悪態だ。

 ゲトリクスの周りを囲む若い連中も、この威勢のいい悪態には大喜び。

 ホーホーと何やら奇声を上げ、大声で囃し立てている。


 やれそこだ、惜しいぞ小僧、何をやってるんだゲトリクス!


 笑いを含んで囃し立てる内容に、ゲトリクスへの疑いは一つもなかった。

 万が一を疑う必要は、彼らにはないのだろう。

 武器を持った大人と、武器を持った子供なら万が一はあるかもしれない。

 武装し馬に乗った戦士と、武器を持っただけの子供なら億が一はあるかもしれない。

 だが、一流の戦士と、子供では可能性を論ずる方が間違っている。

 小刻みに馬を駆けさせるゲトリクスの音の群れは、聞いているだけで小気味よくすら感じる物だ。

 手加減はあるのだろうが、それでも巨大で速さのある馬上からの突撃を避けるザシャは称賛されるべきですらあった。


「…………」


 クレイは迷っていた。

 復讐とは権利である。

 傷つけられた生命、名誉、財産を取り返すのは当然の事であり、ザシャの復讐は恐らく正当な物だ。

 その権利は行使するのは、ザシャの自由である。

 それを理解すると同時に、クレイはどうにも落ち着かない気分になっている。

 自分でもどうするつもりなのか、立ち上がっていたクレイはいつの間にやらふらふらとザシャ達の決闘が見える位置へと歩を進めていた。

 遥か遠くに見える光景は、一方的な物だった。

 小さな標的で的が定まらないのか、ゲトリクスのチャージはいまいち決まらない。

 しかし、見事な手綱捌きでくるりと馬を回し、矢継ぎ早にチャージを繰り返す。


「よく避ける!だが、それだけか!」


「くそっ!」


 一撃を外しても次、一撃を外しても次と繰り返すゲトリクスの表情に焦りはない。

 自分の勝利を、これっぽっちも疑っていないのだ。

 器用に地に伏せ、手にした錆槍で受けるザシャだったが馬の背に穂先を突き出した所でその足に追い付けるはずもない。

 風すら辿り着くには遠くで争う人々は、まるでちっぽけな麦粒のように見えた。

 義務はない。あの少年を助けた所で、クレイの勤めには何の関係もなかった。

 権利もない。自らの権利を行使している少年に、賢しげな顔で横から入っていくな法などどこにもないだろう。

 理由がなかった。少年の怒りは本物だ。

 それは、クレイにもよく理解出来る怒りだった。

 打ち所が悪かったのか、少年は地面に倒れ伏す。

 頭から流す血はあまりに鮮やかな赤をしていて、


「ぶひひん」


 ふと、背後から笑い声が聞こえた。

 嘲りの混ざった、そんな憎たらしい笑い声だ。

 馬のくせに、と思いながらも、優柔不断の虫は不思議な事にすっかりと消えていた。


「そこまでだ」


 クレイは少年を背に庇い、ゲトリクスの前に立つ。

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