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(3)


 師匠の草庵で修業を始めて五年が経ったある日、私が十五の歳のことだ。


 修行の前に人間姿に変化してモミジ姉様と山菜を採っていれば、ふと見上げた先に赤く膨らんだ蕾があった。他の枝には、すでに綻んで淡い色の花弁を先端から見せる蕾もある。

 桜の木を見上げながら、私はモミジ姉様に声を掛けた。


「モミジ姉様、そろそろ桜が咲きそうですよ」

「そうね……」

「来週にでも花見ができそうですね。今年の化け勝負は、私も少し参加してみたいです」

「ええ……」

「……姉様、どうかなされましたか?」


 心ここにあらずな声に、私は桜から目を離してモミジ姉様の方を向いた。

 雪が解けて春めいてきた頃から、どうもモミジ姉様の様子がおかしい。何か考え事をしているのか、物憂げに目を伏せることが多くなっていた。元気がないようにも見えて、心配になる。

 近づくと、モミジ姉様がはっと顔を上げる。そうして、いつものように微笑むが、やはり少しだけ哀しそうな色を乗せていた。


「もしかして体の具合が悪いのではないですか?」

「いいえ、大丈夫よ。……もう、五年も経つのだと思ってね。少し懐かしく思っていただけなの」


 何かを思い出したのか、くすりと笑ったモミジ姉様は、私の鼻を人差し指の先でちょんと突いた。


「あの頃のお前は、泣き虫だったわね」

「い、今はあんまり泣きません」

「そうね、ずいぶん強くなったもの。……もう、ひとりでも大丈夫ね」

「……姉様、どうしたのです?」


 まるで別れの前の言葉のようで、一気に不安が押し寄せる。それが顔に出たのだろう。モミジ姉様は悪戯っぽく笑って、今度は私の鼻をきゅっとつまんできた。けっこう強めに。


「ひゃっ」

「料理も掃除も洗濯も、もうお前一人でできるでしょう?そろそろ私も姉弟子らしく、楽をさせてもらおうかしらね」

「い、いひゃいれすっ、ねーひゃま」


 慌てて顔を振って、ほっそりしているのに力強い指先から逃れる。赤くなった鼻を守るように両手で隠せば、ころころと姉様は笑った。


 そんな何気ないやり取りが明日も続くのだと思っていた――その日の夜に、事は起こった。



***



 しゃん。

 しゃん。


 草木も眠る夜更け。

 どこからか聞こえてくる鈴の音に私は目を覚ました。

 狭い庵の片隅でふっと隣を見やれば、モミジ姉様の姿が無い。こんな夜中にどこへいったのだろうと気になって身を起こしてみれば、師匠の姿も無かった。


 夜に二人で修業でもしているのだろうか。

 いや、しかし――


 遠ざかる鈴の音に、何だか妙な胸騒ぎを覚えて私は急いで寝床から出た。庵の外に出れば、師匠が人間の姿のままで、腕を組んで立っている。モミジ姉様はいなかった。

 師匠は私の狸姿を見ると「何してんだ、中に戻れ」と少し怒ったように言う。しかし私は、庵の中に戻らずに四本の足で駆け出した。

 夜の山を鈴の音に向かって駆ければ、行く先にぼんやりと明かりが灯っている。列になって幾つも浮かぶ青白い光は、ゆらゆらと揺れていた。提灯の炎のようだが、様子がおかしい。

 提灯を掲げる者達は皆、人間の姿をしていた。着物を着た彼らは、以前テレビの時代劇で見た大名行列のように並んで、真っ暗な山道を仰々しく進んでいく。

 異様な光景に拍車をかけるのは、彼らが顔に付けている白い狐面である。

 そうして思い出したのは、青い炎は狐の提灯に灯される狐火だということ。狸提灯なら赤い炎だ。

 しゃん、しゃん、と鈴の音に合わせて、「避けい、避けい」と声が響く。

 提灯……狐火を揺らして進む彼らの中央には大きな黒塗りの籠があり、小窓が開いていた。

 そこから嗅ぎ慣れた匂いがして、私は行列の中央へ駆けよった。近くで見れば、姉様によく似た美しい青年の横顔が、炎の灯りに照らされていた。

 姉様が変化した姿なのだろうか。呼びかけようとしたが、きゅうっとしか鳴き声が出ない。

 気づいてもらおうと、さらに籠の側に寄ろうとすれば、狐面をつけた武士の一人が前に立ち塞がった。


「そこの狸、若様に無礼であるぞ」


 前を塞ぐ彼に、邪魔をしないでくれと牙を剥いて訴えたが、軽く足蹴にされて道の端へころころと転がってしまう。

 すぐに起き上がろうとしたが、転がった場所が悪かった。

 ちょうど崖のように急な傾斜になっている所で、後ろ足と尻尾が空を踏む。回る視界には森の木々と夜の空が映り、私の狸の身体はそのまま崖を転がり落ちた。

 モミジ姉様の声がしたような気もしたが、定かではない。木の根か何かで強く頭を打った私は、転がっている途中で意識を失っていた。

 次に目覚めたときはすでに朝になっており、私は庵の布団の中にいた。怪我した頭も体も、薬草が貼られて手当がされている。隣を見れば、モミジ姉様の姿は無かった。

 朝日の差す縁側では、人間姿の師匠が胡坐を掻いて、煙管キセルをぷかりとふかしている。


「お師匠様……」

「おう、起きたか」


 師匠はちらりと目線だけ寄越した後、またぷかりぷかりと庭に向かって紫煙を吐く。


「……お師匠様、モミジ姉様は?」

「もう居ねぇよ。弟子も辞めてった」

「……どうして……」

「お前も見たんだろう。あいつは狸じゃなかったのさ」


 狐の大名行列。

 籠に乗っていた若者。

 あれは、やはり姉様で――


 私の目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。

 ぽた、ぽたり、と寝床を濡らす私の涙を「泣き虫ね」と拭ってくれる白い手はあるはずもない。

 けれど、師匠がわざわざ立ち上がって、私の傍らに座って頭を撫でてくれた。武骨な手が、優しく労わるように触れてくる。


「……すまねぇな」


 後にも先にも、これが私が唯一聞いた、師匠の心からの謝罪の言葉であった。




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