第二章 月と紅葉と四葉(1)
笑みを浮かべる七重紅葉に、私は再び頭を下げていつも通りの口上を述べる。
「七重様、ようこそお越し下さいました。いつもありがとうございます」
「お前は相変わらず堅苦しいね。昔みたいに“姉様”と呼んでくれて構わないのに。……いや、今は“兄様”と呼んでくれた方がいいかな」
紅葉は悪戯っぽく笑うと、綺麗に磨かれた革靴を脱いで、勝手知ったる足取りで廊下を進む。
「……呼べるわけがないでしょう」
私は小さく呟きながら靴を揃えた後、彼――昔は“彼女”だと信じて疑わなかった、その背を追った。
***
話は八年前に遡る。
私の叔父である花崎月之丞が一匹の弟子を取ったことが、全ての始まりであった。
花崎月之丞といえば、稀代の化け名人ともてはやされる非常に優秀な化け狸ではあったが、性格に少々難があった。
ものぐさで気まぐれで大の男嫌い。
おまけに自分に極甘で他人に超厳しい。
そのためか、彼の弟子になりたいと絶えず狸が訪れたものの、誰一匹として弟子になることは叶わなかった。
関東の宗固一族や近畿の竹切一族、さらには団三郎狸の末裔である佐渡の二岩一族、四国の狸の総大将である刑部一族と、名だたる名門から狸が寄越されて無理くり弟子入りしていったが、皆、門前払いされるか、三日と持たずに去っていった。
そんな中、叔父の元を一匹の狸が訪れた。名のある一族でもない、どこの出かもわからぬ、流離の狸であったという。
そして叔父は一目見て、その狸を弟子に取ると決めた。
もちろん、周囲は驚いた。我が家族も驚いていた。あの面倒臭がりな叔父上が、と皆でびっくり顔を見合せたくらいだ。
最初は他の狸と同様に三日でいなくなるだろうと誰もが思っていたが、様子を見ている間に一か月以上が経っていた。その弟子は、今や叔父の棲む山の草庵で一緒に暮らしているという。
これには、驚いていたばかりの狸一同から不満の声が上がった。
どこの狸の骨とも知れぬ余所者をなぜ弟子にとった。
月之丞は我々一族を馬鹿にしておるのか。
各地の狸の一族から苦情が届き、花崎一族は対応に追われた。どうすれば不満を抑えられるかと頭を痛める、今は亡き祖父に提案したのは、誰であったろう。
同じ花崎の一族から、誰か一匹でも弟子を取ってもらいましょう。
親族のよしみです、月之丞殿も断り辛いはずですぞ。
弟子が二匹になれば、しかも片方がちゃんとした一族の者であれば、少しは不満も消えましょう――と。
そうして候補者を選ぶときに白羽の矢が立ったのが、私、花崎四葉であった。
月之丞の実の姪。親族の中で近しい間柄だけでなく、若い雌(これが一番の理由である)だった私が選ばれた。
当時、ようやく人への変化の仕方を覚えたばかりの私は、狸の耳としっぽをつけた人間の子供姿で、呼びに来た父様をきょとんと見上げたものだ。
そこからは、怒涛の流れであった。
実家の旅館から離れて、裏の山を一つ越えた山中の叔父の庵に棲めといきなり言われた私は、大いに泣いた。ぴゃあぴゃあ泣いた。
家族と離れるのは嫌だと泣きじゃくる私を見かねて、母様も父様も兄さん達も「やっぱりこの子には無理です、あんまり可哀想じゃありませんか」と祖父に訴えたが、親族の中で決まったことはそうそう覆せなかった。
桜が散る頃、叔父の棲む庵の前まで父様と母様に連れられた私は、寂しさと悲しさのあまりに人への変化もできずに、狸姿でぽろぽろと涙を零していた。ふさふさの毛皮がびしょびしょになっていた。
その時、ふうわりと花の甘い香りが漂ってきた。
「……どうなすったんです?」
少し鼻にかかった、甘く優しい女性の声。なんだか耳も尻尾も痺れてしまうような、甘い甘い響きに、私はふるりと身を震わせた。
恐る恐る顔を上げた先には、桜色の着物を纏った美しい人間の女がいる。庵を囲む柵に設けられた木戸を通って、こちらに近づいてきた。
年は若く、人間の見た目では二十歳かそこらだろう。甘い香りは、彼女の方から漂っていた。
白い細面の顔に、長い睫毛に縁どられた切れ長の目と、紅を差した薄い唇が綺麗に収まっている。長い艶やかな黒髪は後ろで緩く結わえられて、風にさらさらと揺れた。袖口から覗くほっそりした白い手が、風で乱れた髪を耳にかける仕草が何とも色っぽい。
彼女は何者なのだろう。もしや桜の精だろうか。
泣くことも忘れて、私がぼうっと見上げていれば、彼女は婉然たる笑みを浮かべる。
「まあ、可愛らしい子」
私の前でしとやかにしゃがんだ彼女は、そっと手を伸ばしてくる。
警戒もせずに彼女の顔だけを見上げていれば、いつの間にか腕の中に抱き上げられて目線が高くなっていた。視界の端に、ぽかんとした父様と母様の顔が映った。
「もしかして、あなたが新しいお弟子さんかしら?どうぞよろしくね。私は“モミジ”というの」
あなたの名前を聞いてもいいかしら?
顔を覗き込んで問うてくる彼女に、私は名を言おうとして――
きゅう。
と、鳴いてしまった。鳴いた後で、狸姿のままでは人間の言葉は話せぬことを思い出した。なんとも情けない、恥ずかしい失態である。
その時の彼女の顔を、私はいまだに忘れることができない。
虚を突かれたのか目を見開いた彼女は、次いで綻ぶように吹き出して、満開の笑みを間近で見せてくれたのだった。




