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東の離れは名前の通り本館の東にあり、西の離れと対になるよう建てられた離れ座敷である。
白い躑躅の植え込みが並ぶ道を抜けた先に、西と同じ外観の庵が佇んでいる。
間取りも同じで、玄関から続く廊下の先に小さな台所があり、廊下に沿って六畳間が二つ並ぶ。広い縁側にトイレに内風呂、さらに小さな露天風呂が付いた、旅館の中で一番高い部屋だ。
西の離れと異なるのは、その内装だ。
全て畳敷きの西と違い、東の六畳間の一つは板敷で、クイーンサイズの黒いベッドがでんと置かれている。黒い艶のある木製のサイドテーブルや書棚も置かれ、いわゆる和モダンとかいうお洒落な雰囲気だ。縁側には大きなソファも置かれて、ゆったりと庭を眺めることができる。
東の離れは、二日に一度は軽い掃除と風通しをするので、準備はそれほど大変ではない。師匠が住まう西の離れを掃除する方がよっぽど手間である。
家具や床の埃を払い、固く絞った雑巾で畳と床を拭いた後で乾拭きをする。流しの横に常備してある茶器を軽く洗って乾かし、トイレと風呂を掃除して湯船に湯を溜める。後は布団やクッションのシーツを新しいものに変えれば仕舞いだ。
点検を終え、一度本館に戻ろうとした時だった。玄関を開けた途端、自分よりも大きな影に行方を遮られる。
「あ、四葉ちゃん、ナイスタイミング」
大きなキャリーケースを片手に持った作務衣姿の青年が、にこっと笑った。
ふわふわと癖のある明るい茶色の髪に、くりっとした目の可愛らしい顔立ちをしている。しかし体格は細身ながらも男性らしくしっかりしていて、成長期の少年と青年の間を行きかうアンバランスさがあった。
某事務所のアイドルのような風体の彼は、私の弟の五樹君である。
「部屋の準備できた?」
「できました。もう見えたのですか?」
「うん。今はロビーでお茶中」
答えながらキャリーケースを抱えて入ろうとする五樹君を、私はいったん押しとどめる。弟のくせに私より図体がでかいものだから、逆にこちらが数歩後退する羽目になった。
「何、どしたの?」
「キャスターの部分拭かないと。汚れてしまうでしょう?」
「あ、そうだった」
忘れてた、と五樹君は立ち止まり、ひょいとケースを抱え上げて下の小さな車輪の部分を見せてくる。私は身を翻して雑巾を取ってくると、小さな車輪を拭いた。その間、五樹君はにこにこと機嫌良さそうに話しかけてくる。
「ねえ四葉ちゃん、見て見て、これ」
じゃーん、と効果音付きで出されたのは、新品の五千円札だ。
「へへー、荷物運びのお駄賃もらっちゃった。あの人、チップ代弾んでくれるよねー」
「……」
チップといっていいのか。五千円あればオフシーズンに花崎旅館の本館で素泊まりできる金額である。
相変わらず羽振りがいいものだ。まあ、東の離れを年間契約で貸切る財力を持っているのだから、驚くことではない。
しかしちょっと弟をからかってやろうと、私は澄ました顔で答える。
「木の葉じゃないといいですね」
「あ、ちゃんと確認したよ。術の気配もしないし、匂いもお札の匂いだもん」
ちゃっかりしっかりしている弟は、綺麗になったキャリーケースを抱えて和室の一角まで運ぶ。
「ここでいい?」
「はい。後は私がしますから」
荷物の中身(ほとんどが衣類)を出して整理するのは、毎回任されている私の仕事だ。
さっそく荷解きする私の背に、五樹君が声を掛ける。
「四葉ちゃんもさ、遠慮しないでチップ貰っとけばいいのに。搾れるだけ搾り取ってやれって、一兄も言ってたよ」
なるほど、一郎兄さんの言いそうなことである。
そして五樹君はその一郎兄さんに考え方が似ており、年配の方々への接客も女性客向けのサービスも、人懐っこい性格を活かしてノリノリな笑顔でこなす強者だ。
逞しく育ったものだと思いながら、私は苦笑した。
「受け取ったら、何を要求されるかわかりませんから」
「えっ、やっぱりあの人、幼女趣味だったの?」
「……五樹君、前から言っていますが、私は幼女ではありません。君の姉なのですよ」
「たった五分の差だよ?」
「五分も先に産まれたのだから姉です」
「でも四葉ちゃん、僕より小さいじゃない。いつも妹に見られるじゃない」
あっさりと返される言葉は事実である。兄弟で並んで客を見送るとき、大抵は私が末っ子に見られてしまう。
本当は私と五樹君は双子で、しかも五樹君の方が下なのに。人への変化時には体格に大きな差があるが、狸姿だったらほんの一回り程度しか違わないのに。
むっとして睨みやれば、五樹君は「ごめんなさい、お姉ちゃん」と謝ってくる。こういうときだけ姉と呼んでくるので、まったく調子のいいものだ。
「お詫びに今度フ○ペチーノ奢るね」と殊勝な心掛けの弟に、一体それは何ぞやとは問わずに(姉の矜持に反する)、「よろしい」と鷹揚に言っておいた。
***
五樹君が本館に戻った後、私は黙々と荷物の整理を行った。どうせ二泊程度であろうに、服の量が多いこと。長着と肌襦袢が二枚ずつ、帯や中羽織、はたまた草履と、和装一式が揃っている。洋装のシャツやズボンも入っていた。
作業を終えてお茶の準備はどうしようかと思っていれば、からからと玄関の引き戸が開く音がした。急いで紺色の作務衣姿から仲居用の桃色の着物姿に変化した私は、玄関に向かった。
床に膝と手を付き、深く一礼する。
「いらっしゃいませ、七重様。お待ちしておりました」
そうして頭を上げた先に佇むのは、涼やかな美貌を持つ男だった。
奥二重の切れ長の目に通った高い鼻筋、薄い唇が綺麗に配する細面の顔。すらりと細い身体に高そうなスーツを纏った彼は、美しい笑みを浮かべた。
「やあ、四葉。二週間ぶりだね」
彼こそ、東の離れを年中貸切る、旅館一番の上客。
そして――
三年前に師匠が引きこもる原因を作った者。
私が姉弟子と慕っていた者。
名を七重紅葉という、化け狐であった。
第二章「月と紅葉と四葉」全6話は、15日0時より1話ずつ投稿する予定です。




