(4)
西の離れの師匠の世話が終わったときには、すでに昼前になっていた。
私は一時間半程昼休憩を取ってから、旅館の裏手にある山へと向かった。
背中に竹で編まれた籠を背負い、軍手と長靴を装備して山に分け入れば、すぐに足元に数匹の獣が近寄ってくる。
灰褐色の毛並みに、胴長短足のずんぐりむっくりした身体つき。ふっさりとした太いしっぽ。丸く小さな耳を持ち、目のまわりと足先の毛は黒く、鼻先はしゅっと尖っている。黒い円らな目で愛嬌のある顔をした、可愛らしい獣。
狸である。
「こんにちは、皆さん。今日は山菜を頂きに参りました」
しゃがんで挨拶すると、足元に寄り添っていた一際大きな体格の凛々しい顔つきの狸が、『ついてこい』と鼻をしゃくって私の前を歩き始めた。
彼らは皆、この山に棲む狸――化ける力の少ない狸たちである。
化け狸の全てが、人間に化けられる訳ではない。それなりの力を持ち、それなりの修行を経ることで、ようやく人間に変化できる。人間に変化できれば、人間社会のどこそこに紛れて生活できるが、そうでない狸は自然の中で生きていくしかない。
しかし近年、道路や住宅地を作るために山は削られ森は減少し、餌も住処も失った狸たちには生きにくい世となっている。
花崎家は、そのような狸の棲む山を守る化け狸の一族の一つであった。いくつかの山を所有し、人の手が及ばぬように縄張りを守る役目を請け負っている。
だからこそ、山に棲む狸たちは花崎家の者に好意的である。今日もまた、狸たちは山菜が豊富に生っている場所へと案内してくれた。
おかげでさほど時間を掛けずに、大量の山菜を採ることができた。
鮮やかな緑の穂先を持つ大ぶりなタラの芽、渦巻き状に丸まった柔らかなこごみ。赤味がかった緑の太い茎の山蕗や、瑞々しいよもぎの葉。
それ以外の季節の山菜も少量ずつながら揃い、籠は満杯になっていた。重たくなった籠を抱えて、狸達に会釈する。
「ありがとうございました。今度、ご飯の残り持ってきますね」
たまにご飯の炊いた残りや余った食パンを持ってくると喜んでくれる。狸たちに礼とともにそう言うと、嬉しそうに跳ねながら足元を回り、やがて山の奥へ戻っていった。
***
山を降りて旅館の台所の勝手口から中に入れば、二海兄さんと母様が待っていた。時計を見れば、午後二時半を回っている。
「お帰り」
「おかえりなさい、四葉。……まあまあ、ずいぶんとたくさん採ってきたのねぇ」
背から降ろした籠の中身を見て、母様が驚きながらも顔を綻ばせる。
母様は変化時、茶色い柔らかな髪を一つに束ねた、小柄で少しふくよかな女性の姿をしている。ほんわりとした雰囲気を纏い、笑顔の絶えない温和な狸である。
「ありがとう。大変だったわねぇ」
「山の皆さんが手伝ってくれたので、だいぶ助かりました」
「あらあら。それなら、今度お礼をしなきゃ」
母様は言いながら、二海兄さんと籠の中の山菜を出して種類ごとに選り分けていく。
「タラの芽はやっぱり天ぷらね。少し成長した方が風味が出て美味しいのよねぇ」
「立派なこごみだ……半分は茹でて和え物にするか……」
「よもぎも少し天ぷらにしましょう。残りは草餅かしら。お休みの日に皆で作ろうかしらねぇ」
「母上、蕗の下処理は今日中にしようと思うのだが」
マイペースに会話する母様と二海兄さんを手伝おうとすれば、「少し休みなさい」「少し休め」と両方から促された。
「今日のお客様は二組の予定だし、お父さんと一郎と五樹で対応できるわ。夕飯の準備までは少し時間もあるし、寝ていらっしゃいな」
「……では、お言葉に甘えます」
せっかくなので二人の厚意に甘えて、私は一礼して台所を出る。確かに、狸の姿ならともかく、人間の姿で山歩きをするのは体力も化け力を使うものだ。
うんと伸びをしながら、家族共有の寝室に向かおうとした時だった。
ぱたぱたとスリッパの鳴る音が聞こえてきくる。振り返れば、作務衣に法被を着た父様が廊下を小走りしていた。
父様の変化した姿は、一郎兄さんが年を取った感じの年配の男性であるが、優し気な垂れ目と泣きぼくろのせいか、より柔らかで気弱な雰囲気がある。
母様と並ぶと、それは似合いの和み夫婦となるものだ。実の兄であるはずの師匠と並ぶと、似ても似つかぬちぐはぐっぷりを披露するが。
父様は少し焦った様子の見える顔で、私の前で立ち止まった。
「ああ、四葉。おかえりなさい、山菜採りご苦労だったね」
「いいえ。どうかなされましたか、父様」
「実は、帰ってきて早々悪いのだけど“東の予約”が急に入ってね」
東の予約。
それは、ある者の訪れを意味する。
平静を装ったつもりだったが、少し表情が曇ってしまったようだ。父様もまた申し訳なさそうに眉根を下げながら、私の顔を覗き込む。
「今日の四時頃には旅館にみえるそうだ。……お世話を頼めるかい?」
「わかりました。それでは、離れの準備をして参ります」
「ありがとう、四葉」
そっと頭を撫でてくる父様に、私は「いつものことですよ」と苦笑した。