(3)
朝食の残りである、味噌汁とおにぎり、鯖の塩焼きにだし巻き卵、菜の花のお浸しと漬物をお盆に載せて、私は西の離れに向かった。
西の離れは、名前の通り本館の西にある離れ座敷である。
本館の端から庭に降りて、飛び石を短い脚で辿り、躑躅の植え込みに囲まれた細い道に入る。鮮やかな緑の葉の中に、可愛らしい赤色の花が彼方此方に咲いていた。あと、一、二週間もすれば満開になるだろう。
赤躑躅の道の先には、目隠しの竹垣に囲まれた古びた庵がある。垣根の木戸をくぐり、苔むした庭の飛び石を渡って、戸口に立って挨拶した。
「叔父上ー、おはようございまーす」
花崎旅館の西の離れは、一匹の化け狸に占領されている。
彼の名を花崎月之丞。
我ら花崎兄弟の父である雪之丞の実の弟、つまりは私の叔父にあたるものである。
花崎家の月之丞といえば、化け狸界で知らぬ者はいない程の有名人だ。
三百年に一度の化け狸。
九州狸の革命児。
華麗なる八十八変化。
陰嚢広げりゃ八十八畳。
なんて言葉で称される、狸界憧れの化け狸であった。
――しかし、それは過去の話である。
電気の消えた薄暗い離れの中に入れば、一昨日掃除したばっかりの廊下には麦酒の空き缶が転がっていた。溜息を一つ零して短い廊下を進み、襖の前に膝をついて朝食の盆を置いた。
「失礼いたします」
作法にのっとって襖を開ければ、六畳間が二つ繋がる和室が広がっている。これも一昨日掃除したばかりだというのに、酒瓶やつまみの空袋が散らばり、布団がぐしゃぐしゃと敷かれたままであった。大型液晶テレビの前には、最新ゲーム機とソフトが遊び終わったそのままの状態で置かれている。
散らかり具合に異様な拍車をかけるのは、畳や床の間をみっしりと埋める狸の置物群である。
信楽焼の狸から可愛らしいぬいぐるみに、リアルな剥製。はたまた青い某猫型ロボットに、某アニメのアライグマ、某動物園のレッサーパンダまで揃っている。もはや狸ではない。
ずらりと並ぶ置物たちに私は呆れ声を掛けた。
「叔父上、戯れも程々になさって下さい。どれに変化なさっているのかは知りませんが、散らかすのはよして下さいまし」
しかし置物は静まり返ったままで、何も反応が無い。
はあ、とまた一つ息を吐いた後、私は姿勢を正して手を付き一礼した。
「……『お師匠様』、朝食をお持ちしました」
お師匠様。
その一声に、狸の置物たちはにっと歯を向いて一斉に笑った。若干ホラーな光景である。
次いで、ぽんっ、ぽぽんっ、ぽぽぽぽんっ、と小さな煙を上げて置物たちが消えていく。最後に一つだけ残ったレッサーパンダが、とても可愛くない笑みを見せて、くるりと後方宙返りをした。
煙の中から現れたのは、旅館の浴衣を着崩して横柄に笑う、壮年の男性だ。
「おはよーさん。相変わらず覚えの悪ぃ弟子だな、お前は」
彼こそ、私の叔父であり、化け術の師匠である花崎月之丞であった。
***
「ったく、最初っからちゃんと『師匠』って呼べってんだよ。弟子のくせに生意気だぞ。しかも俺が変化している置物が分かんねぇってのはどういうこった。それでも弟子か」
師匠はぶつぶつと文句を言いながら、唯一綺麗な状態の縁側で足を組む。
三十代半ばくらいのがたいの良い男性の姿に変化した彼は、だらしなく着た浴衣の合わせから見事な腹筋を覗かせていた。無精ひげといい、若干焼けた肌といい、無駄にワイルドな細マッチョである。
盆からおにぎりを取って豪快に平らげていく師匠を横目で見ながら、私は部屋の中を片付けていく。
散らかったゴミくずをまとめ、シーツを剥がした布団を畳んで、置物が消え去った後に残る椿の葉を回収した。相変わらず化け術を無駄に使う師匠である。
「おい、味噌汁が温い」
「仕方ないでしょう。お師匠様が遊んでいる間に冷めたのですよ」
「手拭きがねぇぞ」
「ご自分で用意なさって下さい」
「醤油はどこだ」
「塩分の取り過ぎは禁物です」
てきぱきと部屋の掃除をしながら、師匠の文句に一々答える。その間に、離れにある小さな台所で火にかけていた湯が沸いたようで、薬缶の笛の音が高く鳴った。
台所に行ってお茶の準備をし、ついでに手拭きも用意して私は縁側に向かう。
何のかんの文句を言いながらも、盆の上の皿はほとんどが空になっていた。盆の横にお茶を乗せた丸盆を置いて、手拭きを師匠に渡した。当然のように礼も無く受け取る師匠である。
もはや対応には慣れっこで、私は茶を注いだ湯呑を差し出した。
「どうぞ」
「おう」
師匠が湯呑の上の白い湯気を吹いて冷ます隣で、私も自分の湯呑にお茶を注ぐ。
盆を挟んで、私は師匠と並んで座った。胡瓜と白菜と昆布の漬物をつまみにしながら、師匠はお茶を啜る。
「この浅漬け、美味ぇな」
「二海兄さんが漬けました」
「はぁ、マジかよ。二番目は何目指してんだ?」
呆れ顔の師匠が食べ終わったのを見計らい、盆を片付ける。
「御髪は整えますか?」
「おう、頼むわ」
和室の鏡台に置いている櫛と椿油と組紐を取ってきて、私は師匠の背後に回った。
胡坐を掻く師匠の後ろに膝をつき、ぼさぼさの長い髪に櫛を通していく。椿油を少量馴染ませて、丁寧に梳いていけば、しだいに艶々とした茶色の毛並みになっていった。後ろで一つに束ね、師匠の好きな朱色の組紐で止める。
「今日はどうなさいますか?私は山菜摘みに行くのですが、ご一緒に如何です?今夜の食事は山菜の天ぷらをメインにするそうですよ。今の時期はタラの芽もこごみも取り放題です。楽しいですよ」
「あー……俺も採集があるから無理だわ」
「採集ですか?何を採るのです?」
「ネトゲん中でな。新しい武器作るのにちぃっと素材が足りねぇんだわ」
「ねとげ、ですか」
一郎兄さんもそうだが、師匠の口からも妙な言葉が出てくるものだ。『あーるぴーじー』だとか『おんらいんげぇむ』だとか、偶についていけなくなる。
首を傾げる私に、師匠はくつくつと笑った。
「ま、俺はいつも通り引きこもらせてもらうぜ」
「……」
この会話の流れは、もう三年も続いている。
ちっとも外に出ようとしない、引きこもりの師匠。
三年前のある事件で、化け名人の評判ががた落ちになって以来、師匠はこの花崎旅館の西の離れに引きこもっていた。
引きこもる彼の世話をするのは、私の役目だ。
なぜ私なのかといえば、師匠が大の男嫌いだからである。
男が側によると寒気がする鳥肌が立つ近寄んな、と狸衆の雄だけでなく、身内である花崎家の兄弟たちも寄せ付けなかった師匠。兄弟の紅一点であり(元)弟子の私が世話役に選ばれたのは当然の事だった。
それは兎も角、今日も外出に誘うことはできなかった。しかし、これもまたいつものことと、私は内心で諦めの息をつく。
そんな私をよそに、師匠は「夕飯の天ぷら、大盛りな」と呑気に注文をつけるのであった。




