(4)
――狭くて暗い庵の片隅。
雷雨に怯えて布団に潜り込む私を、抱き上げる手がある。
狸姿の私の毛を宥めるように梳いてくる、柔らかな手。上から声が降ってくる。
『大丈夫よ。怖くなんてないから』
『あなたを雷光様にみすみす攫わせるものですか。私が追い払ってあげるわ』
『だから安心してお休みなさい』
優しくて、どこまでも甘い声。
一定のリズムで背中を撫でる手の温かさに、雷の音も遠ざかる。守るように抱きしめられれば、恐ろしい光も届かなくなった。
温かな暗闇は硬い布団より柔らかく、甘やかな声も匂いも夜の細雨に溶けて混ざり合い、夢の心地のようにまどろむ。
優しい姉様の腕の中は、心地よくて安心できた。
父や母の腕の中にいるときのように無防備でいられるけれど、それだけではない。きゅうっと胸の奥が絞られるような、不思議な痛みも伴う。いつまでもこうしていたい安堵感と、しっぽの先がそわそわと揺れてしまうむず痒い気持ち。
その気持ちの正体に気づく前に、自覚する前に、姉様はいなくなった。
代わりに現れたのが、種族も立場も全く違う『七重紅葉』だった。
私は騙されたのだ。
優しい姉様、尊敬できる姉弟子は全て作り物で、私は狐に化かされたのだ。
それなのに今でも、私は狐に化かされたまま、それを良しとして受け入れている。
重ねた布団に潜り込んで耳を塞ぎ、雷鳴から隠れていたあの頃と同じように。じくじくと痛む胸を隠して、気持ちの正体に気づかぬふりをするのだ。
だって私は、この人のことが――
***
せっかく収まった涙がまたぽろぽろと零れ出し、茶色の毛皮を濡らしていく。膝の上に丸まって泣く狸の目元を、憂い顔の紅葉は指で拭った。
――泣き疲れたせいか、苦手な雷のせいか、紅葉の腕の中で四葉は狸の姿に戻ってしまった。
ぽんっ、と音を立てて現れた小さな毛玉を、紅葉は慣れたふうに抱き留める。腕の中の狸は目を閉じ、ぴすぴすと鼻を鳴らしていた。くたりと力が抜け、まるで毛皮のように軽く頼りない身体を、紅葉は膝の上にそっと下ろす。
……眠る四葉を見るのは久方ぶりだった。
紅葉は四葉を見下ろしながら、山中の庵にいた頃を思い出す。雷雨に怯え震える彼女を抱き上げて宥めていれば、いつの間にか安心しきって身を任せ、寝息を立てていたものだ。
紅葉は目を細め、四葉の身体を撫でた。あの頃と同じように背中を撫でていると、涙混じりの寝息が、懐かしい「ぷうぷう」と少し間抜けな音に変わる。
おかしくて、思わず頬が緩んだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、バックミラー越しに運転していた青年と目が合う。紅葉の乳兄弟であり、側近である青年は、呆れたような視線を寄こしていた。
「少し戯れが過ぎるのではありませんか?」
「そうかい? これでも控えている方なのだけどね」
「……いつまでその娘に構うつもりですか」
窘める声は、あまり強くはなかった。
――紅葉が一切こちらの注意を聞かないことなど、青年にはわかり切っている。同時に、紅葉が狸の少女をいかに可愛がっているかも。
三年前、紅葉の狐行列を追ってきた子狸を足蹴にしたのは、青年と同じ側近の者だった。
側近は、行列の邪魔をしてきた狸を軽く蹴って道の端に寄せるつもりだったのだろうが、場所が悪かった。ころころと転がった狸の小さな姿が、ふっと掻き消える。そこが崖になっているのだとわかった時、紅葉は籠から飛び出して狸の後を追った。
やがて戻ってきた紅葉が抱えていたのは、落ち葉や泥にまみれ、毛皮を血で汚した子狸だ。
まさか紅葉が、七重家の次期当主が、狸一匹のためにそこまでするとは――。綺麗な白い装束が汚れるのを厭わず、大事に抱えるその狸の重要さは、紅葉に長年付き添った側近なら何も言わずとも気づいた。
子狸を庵へ届けて戻ってきた紅葉に、側近が青ざめて謝罪するも、紅葉は許さなかった。無表情のまま、何も言わずに側近の尾を奪い取った彼の恐ろしさに、皆震えていたものだ。
妖力の元である尾を奪われ、地位も追われたその男の行方は、青年も知らない。ただ、この狸の少女に何か危害を加えれば、自分も同じ目に遭うことは確かだった。
すでに百年以上生きている紅葉が、たった五年の間に変わってしまった。化け狸に弟子入りすると言った時も驚いたが、一匹の狸に執着していると知った時はもっと驚いた。
長年側近として仕えている青年ですら、紅葉の心の内を知ることはできていない。
バックミラー越しに見た、あの柔らかな笑み。同族の間で彼が見せたことがあるだろうか。幼い時分から次期当主として期待を寄せられ、厳しく育てられた彼が、あんなに緩んだ表情をするのを青年は見たことが無かった。
紅葉は青年をミラー越しに見つめ返し、狸に向けていた笑みとは全く違う、作り物のような綺麗な笑みを見せる。
「さあ、いつまでだろうね。何しろ、まだ勝負はついていないのだから」
「……」
勝負とは何のことか。
この狸娘はどう関わっているのか。
勘繰りたくもなるが、踏み込んで紅葉の逆鱗に触れるわけにもいかない。青年は溜息を飲み込みながら、黙って運転を続けた。