第一章 花崎旅館の日々(1)
私、花崎四葉は狸である。
日本は九州の北部、とある県のとある観光地――地名を言うと興味本位や冷やかしの客が増えてしまうため詳細は伏せさせていただくが、いわゆる小京都と呼ばれる観光地の一つである――で、両親と兄弟と共に小さな旅館『花崎旅館』を営む化け狸である。
花崎旅館は、観光の名所である城下町から少し離れた、山の麓にある小ぢんまりとした家族経営の宿だ。天然温泉と美味しい料理を楽しめる、隠れ家風のアットホームな雰囲気が売りである。背後の山林を含む敷地はだだっ広く、魚の捕れる綺麗な川もあり、幼い頃は狸姿で思う存分山中を駆け回ったものだ。
私がこの世に生を得て早十八年。
狸としては長命、むしろ普通の狸の二回分の生はゆうに生きている私であるが、化け狸としてはまだまだ若造だ。お前は狸だが未熟なヒヨッコだ……とは、私の叔父であり師匠である、月之丞の言である。
とはいえ、人への変化を習得するに至った私は、日々、人の姿になっては旅館の仲居兼下働きとして奔走している。
“働かざるもの食うべからず”が我が家の家訓であり、ただ一人(一匹)の例外を除いては、みな勤勉な狸たちなのである。
そういうわけで、今朝も温かい寝床から起き出した私は、狸姿でもっふりと丸まってくぅくぅと眠る両親と弟をおき、身支度を整えて調理場に向かうのであった。
午前五時四十分。暗い廊下を進み、灯りの付いた調理場に顔を出すと、すでに一人の青年がいた。
紺色の作務衣に白い前掛けのエプロンをつけた、焦げ茶色の短髪の精悍な青年が、出汁と味噌の香りがする大鍋に向かっていた。
「おはよう、二海兄さん」
声を掛ければ、青年は無表情のまま振り向いた。私の二番目の兄さんである彼は別に不機嫌というわけではなく、これが常である。私の姿を認めると、表情に似合いの淡々とした声が返ってくる。
「おはよう。今朝は四葉が当番か」
「はい」
桜も散り際の四月の半ばの平日だ。宿泊客は老夫婦が二組と、若い女性の三人組だけであり、朝食の準備は二人いれば事足りる。今朝は私が当番なのだ。
二海兄さんは私を手招きすると、出来立ての味噌汁をよそった椀を渡して、調理台の一角を指さした。
銀色のステンレスの台の上には、おにぎりを乗せた大皿と小皿が置いてある。仕事前の朝ご飯である。
私は小皿の方を取り、丸椅子に座って手を合わせた。いただきます、と言ってから箸を取り、味噌汁を一口啜る。熱々の一歩手前の味噌汁からは、甘めの麦の合わせ味噌と、いりこの出汁の香りがした。具材はシンプルに豆腐とわかめと油揚げだ。ほうっと息をつける、いつもの我が家の味噌汁の味である。
次に小皿のおにぎりに手を伸ばした。一つはシンプルな塩むすびであり、私の一番好きな味である。もくもくと頬張りながら食べ終えて、さてもう一つと手を伸ばそうとしたとき、さっと横から白い手が伸びてきた。
「あっ」
「……おや、鮭か」
「一郎兄さん!」
私のおにぎりにかぶりついたのは、一番上の兄さんだった。
さらさらのストレートの栗色の髪を揺らす優男の姿をした彼は、その見た目の上品さとは裏腹に、豪快に三口でおにぎりを平らげてしまった。親指の腹についた米粒をぺろりと舐めとり、「ごちそうさま」と笑う。
ああ、私の鮭おにぎりが。二番目に好きな味なのに。
恨めし気に見やる私の代わりに、二海兄さんが咎める声を出した。
「兄上、それは四葉のだ」
「いや、すまないね。あんまり美味しそうに食べているから、つい」
わざとらしく舌を出す一郎兄さんは大皿から代わりのおにぎりを取るが、私はそれを受け取らない。苦手な梅干しの匂いがしたからだ。
眉間と鼻に皺を寄せる私に、一郎兄さんは「好き嫌いをすると大きくなれないよ」と言うが、大きなお世話である。
「大きくなろうと思えばなれます。化け狸ですから」
「うん。でも少しバランスがおかしくなるよね」
言いながら、一郎兄さんは低い位置にある私の頭をよしよしと撫でてきた。
そう、私は人に変化する際、中学生(頑張れば高校生)にしか見えない、童顔で小柄な容姿になることが多い。一番安定して変化できるのだ。
旅館のユニフォームである紺色の作務衣姿で仕事をしていると、客のおば……お姉様方から「お手伝いえらいわねぇ」と飴玉、餡子玉、麩菓子に最中に羊羹等々をもらうことがしばしばある。要は子供に見られているのである。……まあ、和菓子は好きなのでその点は得であるが。
もちろん、170センチ越えのナイスバディでボンキュッボンな体型に変化することだってできるが、慣れぬせいか頭身のバランスが悪くなったり、長時間維持することが難しかったりする。
いや、しかし十八歳にもなったのだから、もっと魅力的な大人の女性を目指したいものだ。
今後は頭身を上げた変化の練習をしようと眉根を寄せていれば、二海兄さんもぽんと頭を叩いてくる。肩より上で揃えた、焦げ茶色の髪が揺れた。
「四葉はそれでいい」
見上げると、二海兄さんの無表情の中で目元が和らぐ。
宥める訳ではなく、たぶん本気で私がこのままの大きさでいいと思っているのだろう。でもですね、と言いかけた私の前に、別のおにぎり(これは甘めのしそ昆布の匂いがする)が差し出される。
一郎兄さんにとられる前に受け取って、私は急いで齧りついた。しそ昆布も好きなのだ。
働かざるもの食うべからず。
しかし腹が減っては戦もできぬ。
まずはきっちり腹ごしらえをせねば。
そうして食べることに専念する私の膨らんだ頬を見て、一郎兄さんは「狸じゃなくて栗鼠みたいだね」と可笑しそうに笑った。