act.22 幸福の花嫁
身も心も疲弊し、満身創痍の状態でクフィルは包囲されていた。
飛びかかるステイトの猛者達をちぎっては投げ、かわしては転がし、或いは組み伏せ、今や素顔を晒した怪盗が退路を切り開くべく奮闘する。
しかし多勢に無勢の悪状況下に加え、ファントムとの死闘に全精力を費やしてしまったクフィルに、余力はほとんど残されていなかった。
やがて空と彼方の景色しか見えない断崖へと、クフィルが追いつめられる。
取り囲むステイトの大軍を指揮するは、若き警備隊長ラファルだった。
その横には心配そうに二人を何度も見比べるネシェルの姿があった。
クフィルを屋上の縁に追い詰め、ラファルが目を細める。
「あなたがここに隠したカイトは回収しました。もうどこへも逃げられませんよ」
憂いをおびたラファルの声すら耳に届かぬかのごとくに、クフィルが不敵に笑ってみせる。
ぼろぼろになったタキシードの襟を正し、大空を抱きかかえるように天を見上げた。
手を差し出し、エスコートに誘うネシェルに笑いかけながら。
絶望の視線をたむけ、頭を振るラファル。
それを部下達は合図と受け取った。
そしてもう一人。
「ここまでだ、クフィル!」
すっかり小悪党のイメージがこびりついたステイト・カンパニー元社長、ホーネットの負け犬の雄叫びだった。
「貴様だけはこの俺の手で直接……」
それを最後まで言い終えることはできなかった。
隙をみてラファルのもとから飛び出したネシェルが、ファントムの落とした愛々傘の一本を拾い上げ、無防備なホーネットを背中から打ち倒したからである。
「ぐぅえええ~……」
「ネシェルさん!」
申し訳なさそうな表情でラファルの顔を見やるネシェル。
が、心を決めたまなざしで頷くと、自分の身長ほどもある長い傘をダイナミックに振り回し始めた。
驚きの表情で振り返るステイトの面々を鮮やかな棒術で打ちのめし、ネシェルがクフィルのそばへと歩み寄る。
そのままクフィルに背中を預けるように、ステイト警備隊の前へと立ちふさがった。
切っ先で相手をけん制しつつ、小さく嘆息する。
「約束、守ってくれて……、ありがとう、クフィル……」
「……」
顔を前に向け、ネシェルがわずかに顎を引いた。
「一つだけ聞かせて」
背中を向けたままのネシェルが、消え入りそうな声でそう囁く。
「私じゃなくて、他の誰かだったとしても、……ダブルエックスは助けにきてくれたんだよね」
「当然だろ。ダブルエックスはすべての花嫁の味方だ」
クフィルが当然至極にそう答えると、ネシェルがくすりと笑った。
少しだけ淋しそうに。
「そうだよね。そうか、安心した。これで……」
「ダブルエックスならな」
その一言にネシェルがはっとなる。
「じゃあ今度は私の番だね」
静かにそう告げる。口もとをほころばせながら。
ふらふらのクフィルの前にでんと立ち、口をへの字に曲げたネシェルが、ドンと愛々傘の先端を地面へとたたきつけた。
やや不機嫌そうな様子のネシェルに、クフィルが不思議そうな顔を向ける。
するとネシェルは愛々傘で周囲を威嚇しつつ振り返り、常なる口調で笑いながら言うのだった。
「だから言ったでしょ。仲間は大切にしろって」
「おまえ……」
言葉をなくし、思わずクフィルが苦笑する。自分自身を蔑むように、或いは満たされた幸福に身をゆだねるように。
そこへタイミング悪く轟く、ホーネットの邪悪な叫び声。
「何をしている、ラファル! はやくそいつらをひっ捕らえろ!」
「花嫁が人質に捕られています。迂闊には動けません」
「くだらぬことを言うな。殺してでもいい、絶対にそいつらをここから逃がすな!」
「いい加減にしたらどうですか」
「な!……」
這いつくばりながらもさらなる無様を晒すホーネットに、ラファルが冷たい視線を差し向ける。
「あなたの言葉に従う者は、もうどこにもいません。これ以上は、私も容赦しませんよ」
「が……」
「私の両親の式を妨害したのはトロイカだ。だがそれをけしかけたのは当時のステイトです。あなたの罪ではないが、これ以上ステイトは、永らく続くこのいびつな状態を維持していてはならない。すべてをリセットする時がきたのです」
「……」
「ありがとう、ラファル」
困惑する部下達のざわめきを耳にとどめつつ、囁くようなネシェルの声に目を向けるラファル。
ネシェルは笑っていた。
しごく幸せそうに。
「あなたと知り合えてよかった。友達になってくれて、ありがとう。……さようなら、ラファル」
その言葉にも、ただ残念そうにかぶりを振るだけのラファル。
「僕にできることは本当に何もないのですか。もう一度よく考えてみてください。友人として、ネシェルさん、クフィルさん」
それにクフィルは笑顔だけで答えてみせた。
ぼそぼそと何事かを、クフィルがネシェルに告げる。
それを耳にしたネシェルは一瞬顔をこわばらせ、それから微笑みながらクフィルへと頷いてみせた。
愛々傘を手放したネシェルを抱き上げ、縁へと足をかけるクフィル。
「待ってください!」
それ以上ラファルは何も言えなくなった。
見つめ合う二人の顔が、この上もなく幸せそうに見えたからだった。
それでもなんとか二人を引きとめようと、考えを巡らせるラファル。
しかし彼らに与えられた時間は、ことさら短いものだった。
「飛ぶぞ、ネシェル」
「ええ」
「ネシェルさん!」
ネシェルを抱きかかえたまま、地上二十階の高さからのダイブを敢行するクフィル。
が、しかし、哀しげな表情でその姿を追ったラファルの目は、信じがたいものを見ることとなった。
遥か彼方の地面へと落下していったはずの二人が、眼前に浮かび上がってきたのだから。
空からつり上げられたゴンドラに揺られながら。
「やられた!」
空を見上げ、ラファルが舌打ちをする。
ステイトの社名を冠した飛行船から、そのロゴがはがれていくのを、そこにいた全員が指をしゃぶるように見守っていた。
「早く……」
対応のため、ラファルが言いかけたその時だった。
突然付近に響き渡った轟音に、そこにいた全員が心を奪われたのは。
「なんなんだ、これは……」
爆発音の原因者はランセン達だった。
ホテルの両側に配置した車両から、サーブ・グランチャーの面々が爆薬とも聞き間違うばかりの花火を打ち上げていたのだった。
ランセンと組んだヴィゲンが次々と打ち上げ花火を舞い上げる。
「もっと花火を上げるぞ、ヴィゲン。ダブルエックスを援護だ」
「わかってるよ!」
反対側ではドラケンとグリペンのコンビが乱れ打ちにチャレンジしていた。
「おい、やめろグリペン。危ないだろ!」
「わかってるんだけどさ、勝手に火がついて、うわっ!」
群がるステイトの外周部隊をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、次々と蹴散らしていくランセン達。
中でもヴィゲンの奮戦振りはすさまじく、十人ものステイトすらまとめて吹き飛ばすほどだった。
「とことんやってやる! 絶対にネシェルを取り戻すぞ! ランセン!」
「当然だ、ヴィゲン! あいつは俺達の家族だ! 娘だ!」
「妹だ!」
そのほんのささいな援護が、クフィルとネシェルにとって充分な猶予をもたらすこととなった。
目をそらしたわずかな時間だけで、すでにラファルらの手の届かない場所へと到達していたからである。
禁じられた銃を手に、飛行船へと銃口を向けたセレブレーターをラファルが制した。
「撃つな! 爆発するぞ」
それを飛行船の操縦席から笑いながら見守る人物がいた。
良き協力者、白髪の老紳士ナメルだった。
「心配ご無用。このエアーウルフ号は弾丸ごときではビクともしませんぞ。穴が空いても大丈夫。ちゃんと修繕用の粘着テープも積んであります。さあ行け、超高速飛行船エアーウルフ号! 飛べ飛べ時の彼方まで! マッハでゴーゴーゴー!」
海を目ざし、超高速飛行船エアーウルフ号は小さなプロペラでプタプタプタとゆるやかな飛行を開始した。
潮風を受け、髪をかき上げながらネシェルが嬉しそうに笑う。
その顔をクフィルもいとおしげに見つめていた。
やがてクフィルが笑い始める。
それをネシェルが不思議そうに眺めた。
「ずいぶん、嬉しそうね」
「おかしくて笑ってるんだよ」
「何がそんなにおかしいの」
「助けるはずの花嫁に助けられるようじゃ、怪盗も廃業だろ。派手に正体も晒してしまったしな。ここいらが潮時かもしれないな」
その呟きに、また嬉しそうに微笑むネシェル。
「ダブルエックスはいなくならないよ。待っている人達がいる限り。だってそうでしょ。幸せはみんなのものだから。誰だって幸福の花嫁になれるはず。きっとそうだから」
「……」
「私はそう信じている。独り占めなんて……、……できない」
そう言って少しだけ淋しそうに、そして何よりも強く笑ったネシェルを見つめ、クフィルは眩しそうに目を細めた。
それから満たされたように笑みを向ける。
「幸福の羽飾りか。よく似合っている」
「?」クフィルの視線の先をネシェルがたどる。そこには胸元に装着された、七色の羽飾りがあった。「……」
「こんなに幸せそうな花嫁を、今まで見たことがない。綺麗だ、ネシェル……」
「!」
優しげなクフィルの声にネシェルが、はっとなる。
それが幼い頃に聞いた、母を呼ぶ時の父の声のように聞こえたからだった。
しかし、唇を震わせながら見上げるネシェルは、クフィルの顔を見て言葉を失うこととなった。
血の気の失せた顔はすっかり青ざめ、眠そうな目を今にも閉じようとしていたからである。
最後の力を振り絞るように、クフィルがネシェルに笑いかける。
その直後に、ネシェルを優しくゴンドラに置くようにクフィルが崩れ落ちていった。
「クフィル……」
薄い笑みを残しつつ、クフィルは動かなくなった。
「クフィル! クフィル!」
懸命なネシェルの呼びかけにも、クフィルが応えることはない。
それでもぐいと涙を拭いながら、ネシェルはクフィルに呼びかけ続けた。
「クフィル! クフィル! クフィル!……」
ふと、ピーピーピーという物音に気づき、ネシェルが顔をきょろきょろさせる。
音はネシェルのドレスの胸もとから聞こえてくるようだった。
わけもわからず、それを手に取るネシェル。
するとラファルの落ち着いた声が聞こえてきた。
『聞こえますか、ネシェルさん』
いつの間にかラファルが小型の通信機をネシェルの胸もとに仕込んでいたのである。
胸もとの幸福の羽飾りとともに。
「ラファル! クフィルが、クフィルが!」
『落ち着いてください。ご無事ですか。忌まわしき怪盗からお守りすることができなくて、申し訳ありませんでした。もし今すぐ窮地から抜け出したいのならどこでもいい、すきを見て先ほどの羽飾りで彼の身体を貫きなさい。強力な麻酔薬で動きを止められるはずです。あなたは必ず我々が保護します』
「お願いです! 彼を! 彼を助け……」
『心配はご無用です。彼がもし我々のもとを抜け出した人間ならば、すでに猛毒におかされているはずです。もってあと数時間というところでしょう』
「そんな!」むぐ、と口をつぐむネシェル。「何でも言うとおりにします。だから、どうか彼を助けて……」
『そうですか。では言うとおりにしてください。もしあなたがどうしても彼に罪を償わせたいと言うのであれば、羽飾りに付けてある筒の中に入れておいた解毒剤を飲ませなさい。まだ充分間に合うはずです。いいですか。よく考えて行動してください。羽飾りの中の解毒剤を飲ませれば、彼は一命を取り止めることになるかもしれません。それでもいいというのなら、そうしてください。くれぐれも判断を誤らないように願います。これは友人としての最後の忠告です』
「!」
慌てて羽飾りに手をかけるネシェル。
装飾部分をはずすと、中からカプセルのようなものが出てきた。
それをクフィルへと差し向けるネシェル。
「クフィル、これを飲んで。早く!」
だが気絶して動けない状態のクフィルには薬を飲むことすら困難だった。流し込む水すら手元にない。
焦りばかりが重なっていった。
意を決して口を結ぶネシェル。
あふれ出る涙もなんのその、手にしたカプセルを自分の口に含み、唇をクフィルのそれへと重ねた。
口移しで飲ませるために。
「美しい……」
その呟きとともに、ファントムは愛アンドキング・ランチャーの構えを解いた。
まだぎりぎりで届く距離にもかかわらず。
それを目の当たりにし、ホーネットは目をつり上げて騒ぎ始めた。
「何故撃たない!」
「あれを見るのである」
「あ!」
ファントムが指さす方向に目を向けるホーネット。
ゴンドラの上では、口づけを交わす若き男女の姿が見えた。
その光景に見とれ、うっとりとりつかれたようにファントムが感嘆の言葉をつむぐ。
「あんなに幸せそうな花嫁を私は見たことがない。幸福の花嫁の前ではすべてが無力である。誠にすんばらしいのである」
「かまうな、撃て、撃て」
銃を構えるホーネットを、横向きの愛アンドキングで吹き飛ばすファントム。
「うんぎゃあーっ!」
続けざま部下達も威嚇し、その火力を無効化させた。
「何をする、貴様!」
「まだわからんのであるか、この醜いゲスめらが。こんなに素晴らしいセレモニーを、誰にも邪魔させはしないのである」
「こんなことをしてただですむと思っているのか」
尻餅をついたままのホーネットを、つぶらなまなざしでファントムが睨めつける。
「ただですむかどうかを決定する権利は貴様達ごときにはないのであるが、案ずる必要もないのである。今日限りこの仕事は廃業する。幸福の花嫁は、決して貴様達の式の中には存在しないのが愛わかった。まっことのこと、貴様達にはほとほと愛想がつきたのである。ファントムの名も今日限り捨て去ることとしよう。いらない何もかもを捨ててしまおう。愛のままにわがままに、生まれ変わるために、最後に勝つのは、やはり愛である……」




