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 ノックの音にネシェルは振り返った。

「どうぞ」

 控え室に入室したラファルが思わず息を飲んで硬直してしまったことを不思議そうに眺める。

「どうかしましたか」

「いえ……」ネシェルの声に硬直を解かれたラファルが、すぐさま笑顔を構築し直した。「すみません。あまりにもお似合いでしたので、思わず見とれてしまいました」

 その言葉にネシェルが視線を落とす。

 一億マネーのドレスを身に纏ったネシェルは煌びやかに彩られ、まさに幸福の花嫁としてふさわしい風体だった。

 その表情のかげりさえなければ。

 これより一時間の後に、長時間を費やす婚礼の儀が幕を開ける。

 その最後の締めにリングの交換をすませれば、ネシェルはステイト・カンパニーの社長婦人となるのだ。

 同時にホーネットは王族の血筋となり、国中でも有数の権力者となる算段だった。

 今でこそ名ばかりの王族と成り果ててしまったアイエア家だったが、かつての知名度、影響力はすさまじく、そこにステイトの名が加わればとてつもない発言力を持つことになるはずだった。

「何か御用ですか」

 力ないネシェルの問いかけに、ラファルが本来の目的を取り戻す。

「もう一度だけお聞きしてもよろしいでしょうか」

「何をですか」

「本当にあなたには、他に愛する人がいないのですか」

「……。バカなことを言わないでください。そんな人いるはずがないじゃないですか。私はこれから幸福の花嫁になるのですから」

 そう言って輝くばかりの笑顔を差し向けるネシェル。

 しかしラファルは気づいていた。

 わずかに時を止めたその仕草が、いつわりを飲み込むためのものであると。


 クフィルはラファル専用の事務室内のソファで横になっていた。

 力なく横たわるクフィルに、ラファルが水とパンを運んでくる。

「なるほど。あなたは正規のメンバーでなかったために、面が割れていなかったのですね。少し顔色が悪いようですが、どうかされたのですか」

「昨日から風邪気味なんだよ」

 強がってそう答えたクフィルにも眉一つ揺らすことなく、ラファルは水の入ったコップをその口の近くまで届けた。

「そうですか。僕はまた、毒でも飲んだのかと」

「……ふざけるな」

「すみません。勝手な勘違いですから、お気になさらないでください。ひょっとしたらですが、サンドパイパーの毒にやられでもしていたら、取り返しのつかないことになるかと思いまして。もしお知り合いにそのような状態の方がいらしたのなら、遠慮なくおっしゃってください。何とか薬を都合してきます」そこで初めて表情を落とす。「可能ならばダブルエックスにもこのことを伝えたいのですが」

「バカ言うな。俺に何ができる」

「そうですね。ただ、いくら敵とはいえ、こんなことで命を落とすのはバカげていると思ったものですから」

 真顔で見つめ合う二人の男。

 次に口を開いたのは、水を飲み込むのもやっとの疲弊し切った人物だった。

「その、おまえがいうそんなこととやらで、人生をふいにする人間がいるのを知っているのか」

「まるで自分がそんな目にあったように話しますね」

「自分がそういう目にあうより、それを目の前で見せられる方がずっとつらい。死を受け入れるよりも、つらく残酷で悲しいことだとは思わないか」

「そうなのですか。僕にはよくわかりませんが」

「いいのか、こんなところで俺をかくまっていて」

「かくまっているわけではありません。たまたま見つけた、傷ついた知り合いを介抱しているだけです」表情も変えずに淡々とラファルが受け答える。「どうしてこうなったのか、何故こんなところにいるのかは知りませんが、そんなことは些細なことです。あなた方と僕は命をかけて助け合った仲間同士ではありませんか。あなたがどう思っているのかはわかりかねますが、少なくともネシェルさんにはそうおっしゃっていただけましたからね」

「仲間、か……」

「そういうことにしておいてください。お恥ずかしい話ですが、僕には友人と呼べる人間が他にいないもので」

「ネシェルもか」

「僕はそう思っています」

「だったら……」

「残念ながらここにいるのはネシェルさんではありません。アイエア家の第一皇女、ラビ様です。そしてこの晴れやかなる日に幸せな婚礼の儀式を迎える、大切なお客様です。僕は彼女とその儀式を全力で守り抜く所存です。たとえいかなる妨害があろうとです」

 確固たる信念に裏打ちされたラファルに、クフィルが何も言えなくなる。

 何が起ころうと互いが相容れないものだということを、そこから理解したからだった。

 それを見透かすようにラファルがふっと笑ってみせた。

「念のためですが、式が終わるまであなたにはここにいてもらいます。あらぬ疑いをかけられては、こちらも困りますからね。それがあなたのためでもあるはずです」

「……」

「おかしいと思っていたんです。幸福の羽飾りを見た時のあなた方の反応が妙でしたから」

 羽飾りを取り出し、クフィルの前でかざす。

 砂漠地帯に生息する希少種のデザートスワンの中でも、数十年に一羽、或いは数万羽に一羽という割合でごくまれに発生する、珍しい色彩の羽を帯びる個体があることがまことしやかに伝えられていた。しかしながらそれを生きたままの状態で確認した者はおらず、ごく限られた個体の全身の中でたった一枚だけ現れる、イレギュラーなシロモノであるとも囁かれていた。

 それ故、その存在はおろか、実物を目にした者すら珍しく、その希少性の高さから『幸福』の冠がつけられたのだ。

「これを知るのは、世界中でも限られた家系だけです。自分から口にするのもはばかられますが、僕の家もそれなりの家柄でした。あなたもですよね、クフィルさん」

「……。おまえはいったい……」

「母は幸福の花嫁になるはずだった。だが心無いグランチャーに式を妨害され、二人は離れ離れとなった。それでも父と母は愛し合った。それを禁忌だと知りながら。当然のことながら二人は引き離されました。そして母は失意のうちに亡くなり、それを嘆いた父が僕を引き取ったのです。ですから、人々の幸せを奪うグランチャーを僕は断じて許せない」

 ラファルの心の底を知り、クフィルが目を細める。

 しかし今より先へと進むために、クフィルもそれを口にしなければならなかった。

「真逆だな。俺の母親は望まない結婚をした。愛なんてない。男の方はただ母親の家の名前が欲しかっただけだ。俺の母も誰からの愛も受けないまま、淋しく死んでいった。結婚式なんて、クソくらえだ」

「だからグランチャーなどになったのですね。自分の地位や何もかもを捨てて」

「おまえは何も見えていない。グランチャーへの一方的な憎しみが強すぎて、本当に大事なことが見えなくなっている」

「大事なこととは一体」

「笑顔の裏に隠された悲しみの涙だ。花嫁の心の涙も見抜けないくせに祝福者とは笑わせるな」

「聞き捨てなりませんね。ことと次第によっては、あなたを今すぐ引き渡すことになるかもしれません」

「そうしたければしろよ。おまえがそれを本当の幸せだと思っているのならな」

「何をおっしゃりたいのですか」

「かつては喜びを謳うために行われていた婚礼の儀式も、今では単なる政治の道具として利用される始末だ。やらなければ世間からは認められず、行えば失脚を望む敵対者達に妨害される。これでは喜びを謳歌するどころか、悲劇しか生まない。そんな式ならばない方がいい。そう思わないのか」

「嫌ならば断ればいいでしょう。互いが納得して行う儀式ならば、それを正統な理由もなく妨害することこそが理に背く行為でしかない。違いますか」

「納得? 正統な理由? 笑わせるな」

「どういう意味ですか」

「セレブレーターなら、婚礼の儀の成り立ちも知っているはずだ。もともとは体裁や外部への対面を過剰に気にかける貴族の思考を逆手にとった、単なる金品目的の嫌がらせとしてグランチャーは興った。それを防ぐために貴族達が立ち上げたのがセレブレーターの始まりだ。やがて市場が巨大化し、セレブレーターの負担も増大し、執り行いが資本家達の手に委ねられるように変化していくと、その方向性ががらりとかわっていく。より大きな利益をより効率よく得るために新たな取り決めを作ったのが、今の婚礼の儀の起源とも言われている。皮肉なものだ。すべてが資本家達の利益のためにゆがめられてしまったのだからな。貴族が自分達のためにつくったものが、結局、自分達の首を絞める結果となった。本末転倒もいいところだろう」

「それを今さら取り上げてどうなるというのですか」

「嫌ならば断ればいいだと。本気でそう思っているのか。傲慢な権力者達からの申し入れに、弱者は断る自由すら与えられない。これが現状だ」

「……」

「正統な理由だと国が認めなければ、貴族はその位を返上することも許されないことくらい知っているはずだ。第一、おまえらの社長がそんなことをさせるはずがない。あいつが、ネシェルが望もうが、そうでなかろうが、この儀式は力を持つ者の思惑通りに進んでいく。そしてそれを誰も拒むことはできない。当然、あいつ本人ですらな。合法的にネシェルを王族の縛りから解放してやるためには、この婚礼をぶち壊すしかない。ゆがんだ儀式を破壊するしかない」

「あなたは間違っている。どんな時代にも純粋に幸福を望む人達がいる。それを邪悪な心から守るのが我々セレブレーターのつとめだ」

「違う、その過ちを正すことこそが、グランチャーの使命だ」

「……」

 ラファルの気持ちがぐらつき出していることにクフィルは気づいていた。

 おそらくはラファル自身も知っているであろうことを、あえて口にするクフィル。

「最初にグランチャーと共謀して、無差別に婚礼の儀式を荒らすようけしかけたのは、ステイトの先代社長だ。奴はグランチャーを陰で雇って仕向け、婚礼の儀式にはセレブレーターが必要であることを多くの心に意識づけた。依頼者には救済をして感謝され、それ以外の式場には強力なグランチャーを差し向けて徹底的に妨害したんだ。自分達への依頼を断った者には絶望的なほどの手回しをしてな。それを風評で知る人間達はグランチャーズの妨害に危機感を抱き、同時にステイトの頼もしさを思い知ることになる。一石二鳥ってやつだ。そうやって彼は、一代でステイトを業界最大手まで引き上げた。何の恨みもないはずなのに、ただ悦楽のために妨害をするトロイカのようなグランチャーズが現れたのも、そういった背景からだ。誰にだってわかることだろう。恨みもないのに、報酬もなく奴らが妨害工作をするメリットなんて、どこにもないはずだからな」

「我々が自作自演をしているとでも言いたいのですか。今現在においても」

「おまえさんは違うかも知れん。だが少し離れた視点から見れば、そういったことがまことしやかに行われているのは揺るぎのない事実だ。そんなステイトに抵抗するためにグランチャーが存在しているといっても過言ではない」

「そんなことをいくらしたところで、ステイトはびくともしませんよ」

「だろうな。だが何もせずに悲しみの涙を眺めているよりはましだろう。どれだけダメージを与えられているのかはわからないが、たとえ少しずつでも貴様らの信用を奪っていくことしか、今の俺達にはできないからな」

「……」

「ステイトが徹底的にグランチャーを貶めることでもう一つメリットがある。おまえさんのような純粋に悪を憎む人間が黙っていてもやってくることだ。そして彼らは、金で雇われただけの人間の何倍も働いてみせる。どうだ、理にかなってるだろ」

「憶測で勝手な理屈をこねるのはあなたの自由だ。だが今のあなたがここで何を叫ぼうと、負け犬の遠吠えでしかない」

「わかってるさ、そんなことは。……。なあ、あんた、両親の式をグランチャー達に妨害されたって言ったな」

「……ええ、それが何か」

「雇ったセレブレーターはステイトじゃなかったのか」

「どうでしょうね。その頃の両親がステイトの存在を知っていたかどうかもわかりませんし」

「確かにな。あんた達がどこに住んでいて、旗揚げ時代のステイトがどのエリアに進出していたのかもわからないからな」

「それがどうしたというのです」

「もし、って思っただけだ。もしあんたの両親がステイトの勧誘を断っていたとしたなら、先代社長がグランチャーを差し向けていたかもしれないと気になった。嫌なことを思い出させてすまなかった。忘れてくれ」

「!」

 その問いかけにラファルの心が揺れる。

「……おい」

 目を見開いたままラファルはクフィルの方を見続けていた。

「よくわかりました。僕とあなたとでは考え方が違いすぎる。互いに歩み寄ることは不可能でしょうね」

「だろうな」

「はい。残念ながらこれ以上あなたと議論を交わしている時間もありません。僕にはこれからすべきことがある。酷な言い方ですみませんが、今すぐここから出て行っていただけませんか」

 今度はクフィルは信じられないといった表情でラファルの顔を注視することとなった。

「いいのか」

「問題ありません」半信半疑のクフィルに、眉一つ動かさずラファルが答える。「あなた方には一切手を出さないというのが彼女との約束ですから。あなたも彼らのお仲間なのでしょう。ですが、この先あなた方が約束を違えるというのなら、我々も容赦はしません」

 何も言わずにクフィルに小さなビンを差し出す。

「……これは」

「解毒薬です。社長の懐から抜き取ったものです。ご指摘のとおり、結構手癖の悪い方でしてね。でも情報収集には役立つ特技です。必要なければ捨てていただいてもかまいません」それからクフィルに背中を向けた。「さあ、もうすぐ式が始まりますよ。私もいかなければなりません。セレブレーターとして、賊から式を守るために。私の友人は仕事だけですから」

 それから背中を向けたままで、つけ加えるようにラファルは言った。

「あなたの口から使命という言葉が飛び出しても、僕は何もおかしいとは思わない。あなたは何かを背負っている。そう感じていましたから。大切な何か。悲しい何か。そしてそれは、何があろうと決して揺らぐことはない。その考えは変わりません。初めて出会ったあの時からずっと」

 その含みを感じ取り、クフィルが淋しそうに笑った。

「なあ、こんな時代だが、幸福を望み祝福する者に、セレブレーターもグランチャーもないとは思わないか」

 それにラファルは答えなかった。

 しばしの沈黙の後、静かに告げる。

「もしあなたが彼の知り合いならば伝えて欲しい。決してセレモニーの邪魔はさせないと」

「承知した」

 その口調は、ダブルエックスそのものだった。





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