act.10 卑劣な罠
ネシェルはエスケープ用の車両の中で一人待機していた。
ホールからは数百メートル離れた建物の陰。それがクフィルの指定した待機場所だった。
ネシェル本人はグランチャー行動を望んだのだが、ここ数日覇気が見られないことを理由に、ランセンによって待機を命じられていたのである。
事実、最近ネシェルは考え込む時間が多くなっていた。
クフィルと会話を交わしたあの日からである。
迷いを断つためのそれが、逆にさらなる迷いを呼び込んでしまったようでもあった。
クフィルの存在がわからなくなりかけていた。
交わした会話の内容そのものもあるが、どことなく見え隠れするその影の部分に、自分と同じ匂いを感じていたせいでもあった。
緊急呼び出し用のアラームが車内に鳴り渡る。
それすらも気づかぬほど、ネシェルは考え事に没頭していた。
ナメルの報告に思わず眉をゆがめるクフィル。
不安は的中してしまったようだった。
「本当なのか、それは」
『はい。挙式はステイト・カンパニーの全額負担、ならびに全面的な配慮のもと、なんの支障もなく円滑に行われております』
「どこで」
『第一帝都ホテル。ステイトの本拠地でございます』
「馬鹿な。第一帝都はここ何ヶ月も挙式が行われていないはずだ。そんなことは誰でも知っている。ステイトの代表がいつでも挙式を行えるようにだ」
『はい、そのとおりでございます。もしそれでもいいと言うのなら、緊急挙式の際にはいついかなる場合をもってもすみやかに退去することという誓約書を交わすことになっております』
「そうだ。だからそんなわけのわからん場所で挙式を行うようなもの好きはいない。そしてそれが我らに戦いを決意させた理由でもある。これ以上奴らに不当な権限を与えないためにも、何としてでもラビ王女とステイト代表者の婚礼の儀式を阻止し、ステイトそのものを葬らなければならん。そうだろう、ナメル」
『はい。ですが今回に至っては、まったく逆でございます。いついかなる場合も、ステイトはこの挙式を最後まで執り行うものという誓約を、先方と交わしているのです。トップエリート総出による大規模警備に至るまで、すべてがステイト側の負担という破格の好待遇で。このゴージャスなステータスを断る理由など、世界中のどこにも見当たらないことでしょう』
「……。何があった」
『わかりません。ですがはっきりしていることは、その日においては第一帝都ホテルでの予定がまったくなくなったということです。半年以上、ずっと固持してきたスケジュールを解放してでございます。そしてもう一つ。北のエリアでダミーの儀式をしてまで、ランセン様達を呼び出す必要があったものと』
「!」
『これは間違いなく罠です。坊ちゃまは……』
「恩にきる、ナメル!」
無線を切るのももどかしく、クフィルが飛び出して行く。
『坊ちゃま、坊ちゃま! お待ちを!』
その見えざる背中を追い、ナメルは遠方からただ呼びかけるだけだった。
『坊ちゃま、行ってはなりません……』
ネシェルは今にも泣きそうな表情で脱出用車両を走らせていた。
もの思いにふけるあまり、緊急連絡を受け取るタイミングを遅らせてしまっていた。
飛び込んだグリペンからの一声は、罠だ、早く助けに来て、というものだった。
無線機の向こう側から伝わる、それまでに味わったこともない逼迫した状況。
それからほどなく、覚悟を決めたランセンの声が聞こえてきた。
来なくていい、おまえだけでも逃げろ、と。
ネシェルが頬を伝う涙を拳で拭う。
唇を噛みしめ、ハンドルを固く握り締めて、ひたすら前だけを睨みつけていた。
クフィルからの助言を思い出す。
嫌な予感がするからやめられないかと、あらかじめクフィルはランセンらに進言していた。
それをヴィゲンが真っ向から叩き落とし、気が乗らないのなら参加しなくてもいいとランセンにまで言わしめていた。
そして、複雑な思いで見守るネシェルだけに、クフィルは最後に告げたのだった。
どんな場合でも気を抜かず、いつでも逃げられるようにしておけと。
それを忘れていたわけではない。
今思えば、たとえそれが罠であろうとランセン達を止められないとわかっていたクフィルが、せめてネシェルだけは逃がそうと助言したように思えて仕方がなかった。
クフィルだけは、この事態を想像できていたに違いない。
そして彼の言葉を聞き入れようとしなかったのは自分も同じであると、深く後悔していたのだ。
わかっていたとしても止められなかったであろうことも含め、大切な仲間達を救えなかった責を自分一人のものだと感じて。
もう一度強く涙を拭う。
今度は両側だった。
口もとをきつく結び、まばたきもせずに前だけを睨みつけるネシェル。
そこへ一台の車両が飛び出してきた。
ネシェルの行く手を阻むように。
その頃ランセン達は大人数のセレブレーター達に包囲され、建物の中へと押し込まれていた。
外部の警備が薄いこともあってか、ランセンらは婚礼の儀式を待たず、早々に建物の中へと突入していった。
侮っていたわけではないが、自分達が拠点とする中央エリアとは明らかに違う低レベルな編成に安心するところも確実にあった。妨害工作が発覚後は総員がひとところに集中するという情報を入手していたせいもある。
ならばかく乱目的も含め、奇襲が上策だと突入していったのだ。
そこで彼らは気づかされる。
音楽も歓声も偽りのものであり、待ち受けていた警備の集団と、統率よく現れた外部からの一団が建物を瞬く間に包囲していく様を眺めながら、そのすべてが罠であると。
ヴィゲンやドラケンの活躍で内部の敵を蹴散らし、ランセンら四人はなんとか建物の上階に立てこもることができた。
それでも数の違いや蓄積する疲労から、明らかに分が悪いことは自覚していた。
「あいつ、逃げられたかな……」
この期におよんで、ヴィゲンが他人の心配をする。
それがネシェルを示していることは明確だった。誰もがそう思っていたのだから。
「こっちにいなくてよかったぜ。あいつ、ステイトを毛嫌いしてやがったからな。いつも前に出たがるくせに、ステイトが相手の時だけは何故か嫌そうだったしな」
ドラケンの悪態に、ヴィゲンが複雑そうに顔色を曇らせる。
それをちらりと眺め、グリペンが苦笑いした。
「ネシェルがクフィルのところまで辿り着ければ、俺達も助かるかもしれないね。それまでなんとかふんばらないと」
「無理だ」
グリペンの希望的観測を無慈悲に叩き落とすヴィゲン。
「奴らはステイトだ。本気で俺達を潰しにかかってきている状態のな」
「……」突きつけられた現実に言葉をなくすグリペン。「どうしてステイトがこんなことを……」
「わからん。だが俺達をハメるために、わざわざ奴らが総出で、こんな田舎まで繰り出してきたことは確かだ。そうだよな、ランセン」
それにランセンは何も答えようとはしなかった。
かわりにドラケンが答える。
「薄々おかしいとは俺も感じていたが、ランセンだって最初からこうなることを予想はしていたんじゃないのか。だからネシェルだけは助けようとした」
「予想できてんなら、もっとマシな作戦考えろってのな!」
「騙されてるのがわかっても、助けを求める者がいる限りランセンはそれをほうってはおかない。そこを奴らにつけこまれたんだ。それくらいわかってるだろ、おまえだって」
「んなこた、百も承知だ!」ヴィゲンがドラケンを睨みつける。「だからクフィルをはずしたんだろ。腹立つが、あいつなら何とかしそうだからな。せめて、ネシェルだけでも逃がそうとしたってこったろ」
ふう、とドラケンが息をつく。
「それにしてもこの人数までは読みきれなかったがな。俺はせいぜい二十人程度だと思ってたわけだが」
「俺もだ。まさか百人以上いようとは思いもしなかった。しかもステイトとはな」
「甘いね、二人とも」ドヤ顔でグリペンが振り返る。「俺なんて、ステイトでも三十人くらいならなんとかなると思ってたよ」
「だからなんだ……」
「甘いのはおまえのおつむの方だ……」
「あれ!」
「みんな、すまん」
ランセンの声に三人が振り返る。
するとランセンは真剣な表情のまま、誰とも目を合わせずに続けた。
「騙されているなんて、これっぽっちも思わなかった」
「……」
「……」
ヴィゲンらがあんぐりと口を開けてフリーズする。
それからあきれたように笑った。
「これだからよ……」
「まったくな……」
「みんな、奴らが来たよ!」
眼下から、数十人ものセレブレーター達が階段を駆け上がってくるのが見えた。
ネシェルは焦っていた。
せわしく首を振り回し、ふいに行く手を阻むように飛び出した車両を避けようとハンドルを切る。
その直後、マキビシのようなものを進路にまかれ、コントロールを失うこととなった。
縁石に乗り上げ車が動かなくなる。何度修正を試みてもタイヤが空転するばかりだった。
窓越しに歩み寄る複数のシルエットを確認し、ネシェルはボールガンを持ち、ドアを開けるべく取っ手に手をかけた。
と、その時だった。
耳障りなブレーキ音がし、そこから飛び出した人影が瞬く間にネシェルを囲む集団を蹴散らしたのである。
クフィルだった。
地に伏した数は五つ。
それを苦もなく圧倒して息切れもせずにいるクフィルを、ネシェルは畏怖するように眺めた。
「他の奴らは」
クフィルに問われ、ネシェルがなにより大事なことを思い出す。
「クフィル、大変なの! みんなが、みんなが!」
複雑な思いを抱きながらも、大切なものを守らなければならないという強き思いが、ネシェルの背中を押していた。
「みんながどうした」
「詳しいことはわからない。でも罠にはめられたってグリペンは言ってた。それで私には逃げろって、ランセンが」
「おまえは……」そう言いかけてクフィルが口をつぐむ。
ネシェルの進行方向は自分が逃げるためのものではなく、仲間達を助けるために向けられていたのだから。
「ステイトだ」
彼方のホールを見据えてそう言ったクフィルに、ネシェルの目が釘付けになる。
「え……」
驚きに声も出ないネシェルに、クフィルはナメルから仕入れた情報を開示しなければならなかった。
「理由はわからんが、ランセン達を捕まえるためにステイトが一芝居打ったのは確かだ。おそらく今頃はもう……」
「助けにいこう」クフィルの肩にしがみつき、ネシェルが懇願を始める。「早く助けに! まだ間に合うかも!」
「無理だ」
「……」
無慈悲に見下ろすクフィルに、またネシェルが言葉を失う。
その顔が見られないクフィルは、つらそうに告げることしかできなかった。
「百人以上のステイト達が建物を包囲している。そこから彼らを救い出すのは不可能だ」
「でも……」
「せめておまえだけでも逃げろ」目線だけを差し向ける。「それが今のランセン達の望みだろう」
「……」
まばたきを忘れたままのネシェルが、唇をわなわなと震わせた。
これ以上何を言っても無駄だと感じたのか、ネシェルはクフィルから離れて歩き始めた。
「おい、どこへ行く!」
「……みんなを助けに行く」
振り返りもせずにそう答えてから、ネシェルの膝ががくりと落ちる。
先の車両事故の際に右膝を強く殴打していた。
「おい、大丈夫か……」
「はなして!」
支えようと出したクフィルの手を振り払うネシェル。
そしてクフィルは何も言えなくなった。
ネシェルの涙を見てしまったからである。
「……仲間だと思ってたのに、やっぱり違った。違ってた。あんたはやっぱり、仲間なんかじゃなかった……」
「ネシェル……」
「助けなきゃ。みんなを。みんなが待ってるから。私のことを……」
「おい……」
「わかってるよ!」
悲鳴にも似たネシェルの叫びに、クフィルが眉を寄せて手を引く。
唇を噛みしめ、何もできない不甲斐ない自分を責めるように、ネシェルは大粒の涙を流し続けていた。
「わかってる。誰も私のことなんてあてにしてないって。何もできないことくらい自分が一番わかってる。仲間だなんだって偉そうなこと言ってるくせに。でも、他に誰がいるの。誰がみんなを助けるの。私がやらなかったら、誰があの人達を助けてくれるの……」
進むべき方向をしっかりと見据えたまま、流れ出る涙を拭おうともせず、ネシェルが口もとを固く結んだ。
「覚悟はあるのか」
ふいに発せられたクフィルの声に、はっとなるネシェル。
「最悪の場合、おまえも奴らに捕まるかもしれん。それでもいいのか」
ゆるやかに振り返るネシェルの口もとが、わなわなと震え出していた。クフィルの顔を見つめ、ゆっくりと頷く。
それを真正面から受け止め、クフィルも重々しく頷いてみせた。
「俺が奴らを引きつけておく。その隙におまえがランセン達を助け出すんだ」
「クフィルが……。どうやって。そんなに簡単には……」
「並大抵のことでは百人のセレブレーターを引きつけることは無理だろう。だが奴らが無視することができないような囮ならばどうだ」にやりと笑った。「例えば、怪盗ダブルエックスとかな」
「! クフィル、あなた……」
それからクフィルは眩しい陽射しに目を細めながらも、しっかりと前を見据えて言った。
「いくぞ、ネシェル」
「うん……」