クトゥルフ神話的短編 お試し
「犬」
もう無理だ、もう無理だ。
私が生きていた記録と、二度と私のような被害者が出ない事を祈ってこの書記を残す。
当時私は母を亡くし、この世の全てに絶望していた。それは周りから見ても大変悲惨な物だったらしく、私を慰める者は後を絶たなかった。
しかし、私はそんな事で気が晴れたりはしなかったし、母の事を忘れることも諦めることもできなかった。
ただただ、私は私を女手一つで育ててくれた母の温もりを追いかけていただけだった。
しかし、そんな毎日に光明が見えた。考古学を専攻していた旧友から連絡が来たのだ。
今思えばそれが全ての始まりだったのだ。
旧友は「君の死んだ母に会わせてやれるかもしれない」というような事を語った。しかし、その旧友の喋る物腰はどこか興奮気味で辿々しいものだった。この時少しでも怪しいと思うべきだったが、母を亡くして消沈していた私はそうしてもらうように頼み込んだ。
すると「なら今すぐ私の元に来てくれ」というような事を言われたので私は急いで準備をし、その日の内に少し広くなった家を飛び出した。
旧友の元に向かうと、家の中を案内され、考古学関係の品が並んだ地下室のような所に連れていかれた。そこにあったのは小さな錆びた鍵のようなものだった。
悪い冗談だと思った私は激情し、旧友に掴みかかったが旧友の表情がここに来た時から変わらず興奮していたことと、今なお表情に迷いがないことからすぐに胸ぐらから手を離して謝り、説明を促した。
旧友はこの鍵が「神話的なアーティファクトの一種」であること、「機能が制限されているため時間旅行しかできないが、君の母に会うという目的なら実験も兼ねて丁度いい」などと熱弁した。
私は藁にもすがる思いで旧友と共に被検体になる事を宣言し、旧友に言われた通りにその鍵を空中で捻ると、周りが暗転し、再び明るくなった時に私は気づいた。
そこは数ヶ月前の私の家であった。
どうやら旧友曰く、その人の記憶の大部分をしめている時間軸に飛ばされるらしい。
私は数ヶ月前に何があったか思い出そうとした。だが、それは叶わなかった。いや、思い出したのは思い出したのだがあまりにも大きい記憶だったので、正確には「思い出すまでもなかった」が正しい。
この日は、母が死んだ日だ。
私は急いで生きていた頃母が入院していた病院へと旧友と共に急いだが、病院の前に差し掛かった時に既に母は死んでいる事に気づいた。
なぜなら顔を真っ青にして今にも倒れそうになった私自身が、その病院から出てきたからだ。
私は幾度となくその場で過去の自分と共に嗚咽を繰り返し、「もういい」という落胆の念で胸がいっぱいになっていた。
暫くして落ち着いた時に私は旧友がいない事に気づいたが、鍵は私が持っているし、私が使えば彼も同じ元の時間軸に飛ばされるだろうと思い、その事について深くは考えなかったし、特に心配もしていなかった。
が、鍵を空中で捻り、周りが暗転して元の時間の地下室へと帰ってきた時、そこに旧友の姿は無く、あるのは彼のボロボロに破れてくたびれた衣服だけであった。
それを見るに、なにかに襲われたような痕跡が残っていた。
私は何か本能的に恐ろしくなり、鍵を置いたまま地下室を出て、今の家へと戻ってきた。
だが、安息はもう無い。
直感で理解できる。
私は取り返しのつかない事をしたのだ。
部屋の隅から青黒い煙が吹き出している。
きっと私は「そこ」から出てくる何かに襲われて死ぬのだろう。
だが恐怖はあれど決して後悔は無い。
なぜなら、私と同じ犠牲者を少しでも減らす事が、しがない教師であった私の最後の使命だと知っているか ら
(書記はここで途絶えている)