サイレンが聴こえる
「ん? キョウ……キ?」
「そうよ。キョウキ」
「キョウキって?」
凶器、驚喜、狂気、常軌を逸する、病気になる──等々、音の響きからいろいろ連想したものの、私は意味が分からずオウム返しに声を上げた。
「ちょっと。ほんと、静かにしてよね。ヤマトが起きてきたらどうするの」
静かに、と妻が左手人差し指を唇にあてている。
「それに、こんな夜中におとなりに迷惑でしょう」
「すまん」
「あなたの話を聞いたら、ヤマトが怖がるかもしれないし」
「いや。それはないだろ。第一、ヤマトには何の話だか分からないだろうし」
「分かるわよ。あれぐらいの年齢になると、ちっちゃな子でもワタシたちの言ってることはちゃんと理解してるものなのよ。それはあなたもヤマトとしゃべってて分かるでしょう」
「ああ。まあ。そうか」
少し怒ったように口をすぼめると妻はまた、ぐびぐび喉を鳴らすのが聴こえてきそうな勢いで、お酒を呑んでいる。
これ以上怒られるのは嫌だったので、反論せずに話題を戻し、
「それよりさ。キョウキって、いったい何のことだよ」
「や、まあ、ワタシのたんなる思いつきだから、そんなに真剣に受けとめられても困るんだけどね」
フローリングにじかにあぐらをかいたまま、妻がチューハイの缶を床に置き、こちらを見て喋る。
「ほら昔から、海には魔物が棲むっていうでしょう?」
「まさか、とは思うけど、超ビッグなダイオウイカや化け物みたいな巨大タコに襲われて、乗組員全員が喰われてしまった、とか言いたいわけじゃあないよな?」
「違うわよ」
当時もいまもお約束通り、事件の迷信じみた解釈はあった。
牧逸馬によれば、マリー・セレスト号が発見された沖合いに一番近い島では、大昔から付近の海に「盲目の白大蛇」なるモンスターが棲んでいるという言い伝えがあったらしい。その白大蛇にみんな呑みこまれてしまったのではないか、なんていう妙に具体的な風聞もあったほどだ。
「だけどやっぱりそういうのも、船内がわりと綺麗だったことや、船体にこれといった損傷が見あたらなかったことから、全面的に否定できる」
「そう……でも、ワタシが言いたいのはそういう、クラーケン的な、B級ホラーみたいな話じゃあないの」
「じゃあどういうことだよ、キョウキって?」
「サイレンっていう、人々を驚喜させて狂気へ導く凶器があったんじゃあないかってこと」
驚喜の狂気の凶器──?
「何だよ、そのオヤジギャグみたいな言葉遊び。だけどなんとなく分かったよ。もしかして、セイレーンのことを言ってるのか」
「そうそれよ、それ。サイレンの語源といわれる、ギリシャ神話にも出てくるあの、セイレーン」
ようやく妻の言わんとすることに合点がいき、ああと興奮して声を上げた私に、すっぴん顔がすっと近づいて、
「だあ、かあ、らあ、静かにしてって」
「ああ。すまんすまん」
どアップで妻に睨まれ、慌てて私は声を落とした。
「たしかセイレーンって、海で出会った船人を美しい歌声で惑わしたとかいう、半身半魚か何かの怪物だったよな」
「だった──と思う。もう、よく覚えてないけど」
「なるほどな。海の魔物は魔物でも、ダイレクトに危害を加えてくるようなモンスターじゃあなくて、セイレーンのように間接的に人を狂わしたり操ったりするようなやつってことか。それならたしかに、船にまったく損傷を与えず、何の痕跡も残さない」
「ね、そうでしょう」
どうやら酔っ払ってきたらしい。得意げに口角を上げてにっと笑うと、今度は身を退いて、妻は缶チューハイを三度傾けた。
「ね、セイレーンなら可能よ」
「だけどさ。セイレーンにしろ何にしろ、想像の産物じゃあな……。そういう架空のもの、科学的に証明されてないものを持ち出してもいいっていうなら、たとえば──」
「なによ、たとえば?」
「たとえば、幽霊船と遭遇して連れ去られた、でもいいわけだろ。そうだ。いまっぽく、UFOとか宇宙人を登場させてもいい。とりあえず、マリー・セレスト号が無人になった状況は、どれでも説明できるわけだしさ」
「まあ……そうね。ユーフォー……ユー……」
私のした反論に困ったせいか、放心したような表情で固まったまま、妻の動きがストップモーションになっている。
缶をフローリングに置くと、代わりにスマホを持って妻は仰向けに寝転がった。上方の、あらぬところへ目線が向けられていたが、
「あっ。そうよ。べつにセイレーンが架空のもの、フィクションの産物だと考える必要はなかったのよ。昔から実在する生物だったと仮定してみても、話の辻褄は合うわ」
途切れ途切れに、興奮している様子の、妻のつぶやきが耳に入ってきた。
「ねえほら、妊娠中にお腹の中のあかちゃんを診たりするでしょう?」
唐突に脈絡なく、妻が一見無関係なことを言いだした。不意を突かれ、思わず私はまたオウム返しに反問する。
「妊娠?」
数秒の間、妻が動きを止めたフリーズ状態になったので余計に焦って、
「妊娠って、まさか?」
「あはは……やだ。違うわよ」
次の瞬間、オーヴァーなくらい妻が笑って手を振るのを見て、勘違いと分かった。
「早とちりしないで。以前聞いたことがあるエコーの話、しようと思っただけよ」
「ああ。なんだ、そうか。しかし妊娠がマリー・セレスト号の話と、いったい何の関係があるんだ?」
「や、だから妊娠のこと言ってるんじゃあなくって、妊娠中にお腹の中、エコーしたりするでしょうって?」
「エコー? ああ。エコー検査のことか」
「そう。エコー検査のエコーのこと。あれってもともとは、いろんな船に使われてるソナーとか、魚群探知機とかと仕組みが一緒なのって知ってた?」
「まあ聞いたことあるような、ないような……ようは、人間には聴こえないような凄く高い音を出して、その反響具合から魚の位置を特定したり、モニターに映像化したりするってことだろ」
「そうそう、そういうこと。病院で使われるエコーも、基本的に同じ原理よね。で、それってコウモリがやってることでもあるって知ってた?」
「コウモリってあの、動物の?」
「そう。コウモリは超音波を使った、エコーロケーションっていう能力を持ってるのよ」
「エコーロケーション、か。それも、なんか聞いたことあるような」
「コウモリはそうやって場所や物を空間把握してるの」
一番好きなのはむろん犬だったが、基本的にアニマル全般が好きで、動物と聞いたら何でも興味や知識を持っている妻のこと、色々と生物関連の知識には詳しい。
私のリアクションを確認して、満足げに妻が何度も頷いている。
「言うなれば、ワタシたちと違ってコウモリは“音で世界を見ている”のよね。でね、エコーロケーションを使っている哺乳類にはほかに、イルカやクジラもいるの」
「ああ……って、まさか?」
「そうよ。昔から海で生活しているイルカやクジラが、エコーロケーションのような超音波を使った特殊能力を持ってるんだから、そうなふうに音をコントロールできる未知の生物がこの広い世界に、この広い海のどこかにいてもおかしくないわ」