検証されるアルコール発火説
「アルコールの発火?」
「ああ。積み荷にアルコールの入った樽があったって話したろ? その中のアルコールが気化してしまい、それに引火したことが直接のきっかけで、船員みんなが避難することになったんじゃあないかって説だよ」
船長のブリグスはそのときまで、大量のアルコールを輸送した経験がなかった。そのせいで、自然とそれが想起させる危険性にことさら神経質になっていたのではないか。そういう仮定が前提の、仮説だ。
「それでもし、樽からアルコールが漏れて、その気化したアルコールの靄が船倉内に籠もってしまったとしたら」
「そうなったら……たしかに、なにかのミスで火がつくようなことがあれば、恐ろしい結果になりかねないわね」
「そういうこと。着火の原因は想像するにおそらく、誰かがそれに気づかず一服しようとした、とか、あるいは、葉巻でも口にくわえながらそこへ入ってしまった、とか、そんなところだろうな」
ある日ブリグス船長が、船倉の積み荷をチェックするように部下へ命令したところ、たちまち充満したアルコールに一挙に火が点き、爆発した。船倉内が暗く、何か、灯りを点けようとしたせいかもしれない。
いずれにせよ、このままでは船が燃え、すぐにでも沈没してしまうのではと、驚いた船長は事態を実際以上、必要以上に深刻なものに捉えてしまう。
「家族と乗組員の身を案じた船長は、すぐさま命じたんだ。急いで全員に、ともかく救命ボートへ逃げ移るように」
「エマージェンシー、異常事態発生、緊急避難勧告発令ってわけね。なんか、セウォル号の事故を思い出して、ほんと怖い」
「そうだろ。だけどセウォル号の船長とは違って、ブリグス船長はちゃんと責任感あったみたいだから、速やかにしかるべき処置や対応はしたはず」
しかし過度に危険を恐れ、急ぎ慌てたせいか、着の身着のまま充分な判断も善後策もないまま、不用意に大海へ飛び出すはめになってしまった。
船と救命ボートを繋ぐロープをしっかり結びつけていなかったせいで、強風に煽られた際ロープが外れてしまったのか、全員の乗ったボートは置き去りに、無人の本船のほうは風と潮に流され、独りでに行ってしまった。
「それでそのあと、思いもよらず漂流するはめになった乗組員たちは、波に呑みこまれたり直射日光で焼かれたり、あげく喉の渇きや飢えやなんかで衰弱し、やがてみんな死んでしまった──というわけさ」
「なるほどね。それなら一応、説明がつくわね。そういうことが起こった可能性、なんとなくある気がする」
「そうだな。それにもし仮に、そのままマリー・セレスト号自体も発見されなかったとしたら、こないだのマレーシア航空機のように、きっとまるまる行方不明ってことになってただろうし」
「そっかあ、そうね。でも船は爆発も沈没もしてなかったでしょう、結局。アルコール爆発したっていうなら、それっておかしくない?」
「そこについては試して、たしかめてみた人たちがいるようだよ」
アルコール発火説の検証実験の概略はこうだ。
船倉の縮小模型を製作し、立方体の紙を樽に見立て、船倉モデルを密封したうえでアルコール類の蒸気に発火。すると、船倉のハッチが開き、縮小模型を振るわせるほどの爆発が起こったという。
「それでも立方体の紙、つまり樽は損傷することはなかった。焼け焦げた形跡もないし、まったくの無傷だったらしいよ。しかも、火は一瞬で消えた」
「だったら、ほかの積み荷が同じように無傷で手つかずだったことも、うなづけるわよね」
「そうだな。あと、手摺りに割れ目があったらしいんだけど、それはそのときハッチが強く開いたせいで、ついたんだろうと説明されてる」
船倉内で突然、アルコールの蒸気が爆発したことが、船長たちに多大なショックを与え、早計に火事になり沈没するという誤解を生んだ。
「おまけに、炎は焼け跡を残すほどの威力ではなかった──これは、残された船の状況とたしかに一致する」
「そうね……そうでもさあ、よく考えてみれば、やっぱりなんかおかしいかも。だったら、それほど熱くもなかったってことでしょう。そんな程度で、船から逃げ出したり、する?」
「いやだから、乗組員はいったん船にしがみついてただけだろうって解釈もあるんだよ。緊急事態は一時のことにすぎないと判断して」
ところがタイミング悪く、その直後に暴風雨に襲われてしまう。ちょうど船は総帆状態だったために、風と波で凄まじい揺れを起こし、救命ボートと本船とを繋ぐロープが切れてしまった。
「暴風雨という悪条件が働いて、本船は勢いよく海上を進んでいく。その間に、船員たちが乗ったボートのほうはみるみる置き去りにされてしまった」
「で、みんなが乗ったボートは波に呑まれ、あとは無人の船が残されたってことかあ……つまりそれが、ちょうど朝食のときだったってことよね?」